ジーニアス・レッド 第二十八話 遅い思春期(2)

 食事を終えた生徒達と入れ違いに、食堂へ顔を出すと、すでに空席が目立ち始めていた。
「久志! どうしたんだよ、今ごろ」
「よう、杉浦!」
 小脇に厚い本を抱えた杉浦がトレイを持ち、配膳口に立っている。久志は思わず笑顔になった。
 大学受験のため8月いっぱいで、退部してしまった彼とは、たまに顔を合わす程度で、最近では話をする機会がほとんどない。
 二人は並んで食事を受け取り、当然のように同じテーブルへ着いた。
「4時限目の途中で校長室に呼び出されちゃってさ。監督とかと話してたら、こんな時間だよ」
 杉浦は? と弾んだ声を出す。
「わからない問題があってね。先生に質問してたら、遅くなった」
「すっげー勉強してんだな」
「あれ? 今日は、三浦さんと一緒じゃないのか?」
 周囲をぐるりと見回し、首を傾げる杉浦へ、
「休み」
と、久志は短く答える。そして脇に置かれた杉浦の本に、目をとめた。
「なあ、その赤い本」
 ああ、これ? と杉浦は箸を持ちながら、笑った。
「見ての通り、赤本だよ。過去の入試問題をまとめた問題集で、大学ごとに何冊も出ているんだ」
「問題集……」
「なあ、飯を食わないのか?」
 じっと赤い表紙を見つめたままの久志に気づき、杉浦も変に思ったのだろう。
「いつもなら真っ先に食べ始める、野球部一の大食感が、どうしたっていうんだ?」
と、心配する顔つきになった。
 いや、と久志は慌てて箸を手にすると、茶碗を持って、山盛りのご飯をかき込む。
「それ、それ! 相変わらずの食べっぷりだなあ」
「杉浦はずいぶん少なくねーか?」
 マネージャーとして、早朝から夜遅くまで練習に付き合い、雑事までこなしていた彼の、久志より少ないとはいえ、旺盛な食欲を知っていただけに、寂しい気がした。
「部を引退したからね。もうそんなに食べられないよ」
 寮住まいが多い、野球部やサッカー部の生徒は、頭を坊主にしているせいか、一般の生徒と見分けがつきやすい。特に何もいわなくても、大盛りの定食が出され、久志も当たり前のように、それを受け取っていた。
「髪、伸ばしてんだ」
 ついポツリとこぼす久志へ、
「まあ、別に短いまんまでもいいんだけどさ」
と、杉浦は照れくさそうに笑った。
「久志だって、もう長くしても問題ないだろ?」
「オレはいいよ。小せえ頃から慣れてっし、帽子かぶんのにジャマだから」
「実は俺も髪を伸ばすのは、物心ついてから初めてなんだよ」
 二人は互いに笑い合いながら、ゆっくりと変化し始めた生活が、これまでにない大きな転換期なのだと痛感する。どこかしんみりとしながら、食事をしていると、杉浦が思い出したように口を開いた。
「校長室へ呼び出されたのは、取材?」
「まあな。それよか、監督の結婚相手って、監督が高校時代から付き合ってた人なんだってさ。知ってたか?」
「知ってるよ」
 しらっと答える杉浦を前に、久志は思わず箸を止める。
「奥さんが子供さんを連れて、何度かグラウンドへ来たことがあるじゃないか。その時に教えてもらったんだよ」
「ふうん。オレ、全然知らなかったな」
 今日の定食はトンカツだった。みそ汁をすすり、次々と肉を平らげる久志の皿に、
「久志も三浦さんと結婚したいとか、考えてるの?」
と、杉浦はひと切れトンカツを分け与え、意味ありげにいう。
 遠慮なくそれを食べ、久志は山盛りになったキャベツの千切りへ箸を突き刺し、答えた。
「監督からは遠回しにやめろって、いわれた」
「ええっ?」
 今度は杉浦が箸を止める番だった。
「オレさ、明日プロ志望届を出すんだ。雪代とも、これからのコトを話したいんだけど、ガッコー来ねえし、電話も通じねーから、困ってるんだ」
「これまでだって、いくらでも話をする時間はあっただろう?」
 気を取り直したのか、杉浦は声をひそめ、話しかけてきた。
「オレら、模範的カップルなんだってさ。そんなオレと雪代だからって、将来のことを真剣に話し合ってきたとは限んねーよ。ましてや結婚なんて有り得ねーだろ、いくら何でも」
「そうだよな、その通りだよ。結婚なんて、遠い先の話だよな」
「高校卒業したら、一緒に暮らしたいとは思ってっけど」
 杉浦が激しく咳き込みながらグラスをつかみ、いっきに中の水を飲み干すのを見ながら、久志はどんどん食べ物を口に運ぶ。
「驚いたな。久志がそこまで本気とは思ってなかった」
 三浦さんも同じ考え? と聞かれ、首を横に振った。
「知らね。アイツは絵と受験のコトで、頭がイッパイみてーだし」
 その本、と久志は杉浦のトレイと並んで置かれている、赤本を指差す。
「ソレと同じヤツが、雪代の部屋に、すっげえたくさん積み重なってた」
「へえ……彼女って、勉強なんかしないと思ってたよ。やっぱり天才っていわれる生徒は、影で努力をしてるもんなんだな。特待生なだけあって、何としても大学に合格したいっていう気持ちも強いだろうし」
「杉浦、知ってんの? アイツが授業料を免除されてる学生だって」
「当たり前だろ。有名な話なんだから」
「オレ、ずっと知らなかった」
 食べるのをやめ、|拗《す》ねる久志に、杉浦は笑ってみせた。
「スポーツコースの生徒とは、まるで違うもんな。でも学業で特待生になるのは、大変なんだよ。20校近い大学を、恐らく彼女は受験するだろうし」
「マジで? 何のために受けんの? 行くワケでもねーのに」
「合格率を上げるためだよ。受験料も学校負担なんだ」
「雪代だったら、全部が全部、合格すんだろーなあ」
「自慢できるじゃないか」
 久志がため息をつくと、からかうような口調になって、杉浦は付け足した。
「彼女の部屋へ行ったんだろ? やること、やってるんだから、胸を張れよ」
 どういう意味だよ、と不満げな久志を認め、ますます杉浦も面白がる。
「二人の間には何もないって、裏サイトの掲示板に書かれてたけど、デマなのかな」
「くっだらねー。杉浦も、そんなサイト見んのか?」
「いや、たまたま昨日、栗原の彼女に会ってね。久志と三浦さんのことが色々書かれていて面白いよ、なんていわれちゃってさ。つい、勉強の息抜きに」
「こないだ美術館へ行った帰り、気分が悪くなったアイツを送ってっただけで、なんもねーよ」
「美術館? 久志には似合わないなあ」
 途端に笑い出す杉浦へ、久志はムキになっていい返す。
「雪代の絵が展示されてんだよ」
「本当の話?」
「そんなコトで嘘ついて、どーすんだよ。県展って知ってるか? アレで大賞もらったんだ」
 すごい、と杉浦はしばし呆然としていた。
「数学に才があって、芸術にも造詣が深い。本物の天才なんだな。ダヴィンチみたいだよ」
「だからオレ、ずっといい続けてるじゃんか。アイツは天才だって!」
 確かに、と何度も杉浦がうなずくのを前にしながら、小宮山にいわれたことが、久志の頭をよぎる。
 ――三浦は東大現役合格間違いなしの秀才で、海外の大学にだって推薦で入れるほどの実力を持っている。一緒になったって、お前の手に負えるような相手か?
「三浦さん、あまり注目されるのが好きな子じゃないはずだけど。どうして展覧会に絵を出品するつもりになったんだろう」
 ハッとして、杉浦を見た。
「オレが甲子園へ行ってる間に、雪代が描き上げた絵なんだけどさ。家に来たアニキの恋人が見て、絶対に入賞するからって、アイツを説き伏せたうえに、申込みから絵を運ぶのまで全部、やってくれたんだ」
「へええ、そうだったんだ」
「雪代のヤツ、2学期からは、そのアニキの恋人が住む横浜のマンションに同居して、学校にも通ってんだ」
「すっかり久志の家族とも打ち解けてるんだなあ、三浦さん」
 感心しながら、キャベツの千切りにソースをかけて、口へ放り込む杉浦は、雪代が静岡にある久志の実家へ預けられていたことを、知っている。彼になら何でも、安心して話せた。
「お袋と3ヶ月以上も一緒に暮らしてたからな。さすがの雪代も、馴れるよ」
「それにしても不思議だなー。本当に三浦さんと何にもないのか? 夏休みはずっと、同じ屋根の下で過ごしたくせに」
「たった五日間で、何かあるほうが、おかしいだろ」
「いや。何にもない方が、おかしい」
 同じ学年なのに、自分より精神的に大人の杉浦は、野球部にいた時から、こうやって久志をからかっては、楽しんでいるところがある。
「お袋がいんだぞ」
「24時間、見張ってる訳でもないだろう?」
「杉浦と違って、オレは良識ある高校生なんだよ。一緒にすんな」
 悪態を吐いてみせるが、気心の知れた男同士で交わす会話に、内心ホッとしていた。
 涼しい顔をして、
「誕生日も実家で過ごしたんだろ? プレゼントは雪代がいいとか、いってそうだよな」
と、いう杉浦のセリフに、久志もたまらず吹き出す。
「そんなコトいったら、ケリかコブシが飛んでくる。こないだも美術館で、ちょっとからかっただけなのに、足を蹴られそうになった」
「あの細くて、小さい三浦さん相手じゃ、反撃もできないよな」
「体を持ち上げてやったよ。スゲー軽くて、子供を高い高いしてやってる気分になった」
「はい、はい。ごちそうさま」
「ちげーよ。ぜんぜん恋人って感じじゃねーだろ」
「久志風にいうなら、そういうことにしといてやる」
「そういうコトにしとけ」
 二人で大笑いしながら、久志の胸中は複雑だった。
 ――良識ある高校生……。
 静岡の家で、彼女と共に過ごした5日間のことを思い出す。
 病院の精密検査で何も異常がないとわかった翌日から、久志は朝と夜、必ず外へ走りに行った。家にいる間ぐらいはゆっくりすればいいのにと、母が呆れ、グチのようにこぼしていたのを覚えている。
 昼間はひっきりなしにやって来る、小学校、中学校時代の友人達と大騒ぎしているか、誰もいないひっそりとした家の居間で大の字になり、寝てばかりいた。
 雪代はというと、油絵の具を使うことが禁止され、部屋で大人しく勉強をしているか、スケッチブックに鉛筆で色んな絵を描き散らしている。それが普通だった。
 久志と母親を静岡の家へ送り届けた翌日、兄の克己は勤務先である警察の独身寮へ帰ったし、母親も久志が帰った翌々日から、病院へ普段通りに出勤した。
 看護婦である母が夜勤の日は、久志と雪代の二人だけで夜を過ごしたが、一緒に料理をし、食事を済ますと、テレビを見たり、他愛もないおしゃべりをしたりした後、結局は別々の部屋で眠りについた。
 ――オレは、おかしいんだろうか。
 2学期から雪代は、横浜のマンションで暮らす佐々木と一緒に生活し、学校へ通うことになった。引っ越しも兼ねて、克己が雪代を神奈川まで、車で送ってくれることになったが、マスコミが来ることを警戒した久志は、高校の寮へ電車で帰った。
 その帰る前日、久志は18歳の誕生日を迎えていた。友人、知人を含め、たくさんの人が家へお祝いにかけつけた。どこから聞きつけたのか、頬を赤く染める見も知らない女の子が何人も訪ねてきて、玄関でプレゼントを手渡されることはあっても、雪代からは何も無かった。
 ――悪気があっての、ことじゃない。
 食べ終えた食事をトレイごと脇へやり、久志は片肘を突いた手の平に頬を乗せると、遠くを見ながらいった。
「誕生日といえばさ……夜になってお袋が用意したケーキにロウソクをともしたんだけど、雪代のヤツ、それを見てビックリしてたんだ」
 どうして? と杉浦も箸を置くと、ゆっくり瞬きをする。
「アイツ、今まで一度も誕生日を祝ってもらったこと無いんだってさ。ケーキに年の数だけロウソクさして、ホントに吹き消すんだって、そんな当たり前のコトに驚いてんだ。プレゼントも何をあげたらいいのか、全然思いつかなかったって、あとから謝られた」
「そうか。彼女が自分の家へ戻らないのには、深い理由がありそうだな」
「実はオレも、よくわかんねー。雪代は自分のことを、積極的に話すタイプじゃねーし」
 その場がしんとして、杉浦は手元の時計に視線を移した。
「そろそろ昼休みも終わりか」
と、彼がいったのを合図に、二人は立ち上がると、食器を片づけて食堂から出た。
 栗原の彼女が、と廊下を歩きながら杉浦がいい、
「カズミちゃん?」
と、久志は聞き返す。
「三浦さんに、久志とはどこまでいったのか、聞いたんだってな」
「アイツ、とんでもねーコトいうよな」
「久志は知ってるのか? 三浦さんが何て、答えたか」
 知らねーよ、と片方の眉毛を上げて、不機嫌な声を出す久志に、杉浦は真面目な顔になっていった。
「セックスをしても何も変わらないって、いったらしいよ」
 久志はうつむき、固く口を閉じる。右手で額にさわり、顔をしかめた。
 久志の腕をとり
「まあ、こっち来いよ」
と、杉浦は人混みから離れ、誰もいない階段の踊り場へと、彼を連れて行く。
「お前さ、夜中まで、たった一人、グラウンドをしょっちゅう走ってただろ」
「いきなり何だよ」
「そういうのを、昇華っていうんだよ」
「ショウカ?」
「保健体育で習わなかったか? 第二次性徴期になると、作られ続ける精子を放射しようと、男は自慰行為をしたり、部活動とかで体を動かしたりして、性的欲求を抑えるんだ」
 思わず目を伏せ、久志は杉浦から顔を背けた。
「別に……オレだってエッチな雑誌を見るし、AV見りゃ、興奮もする……そりゃシコったりは、しねーけど」
 言葉少なに説明しながら、口ごもる久志を見て、
「ほら。マスターベーションもしないんだろう? いつまでも、走ってごまかせると思うなよ。彼女ができた今、いつ爆発するか、わからないんだから」
と、杉浦は大人っぽい口ぶりになって、呆れる。
「お前はさ、野球ばっかりで、それ以外は本当に子供なんだよ。いっつもイイ子でいよう、人の期待に応えようと、頑張りすぎて、2年の時はケガまでしたんだからな」
 痛いところを突かれ、久志は何も反論できなかった。
 授業の開始を知らせるチャイムが鳴り、
「戻るか」
と、杉浦は手にしていた赤本で、久志の背中を叩いてみせる。
「ガンバレ」
 まるでマウンドへ送り出すような調子でいい、早足で階段を下ると、あっという間に彼の姿は廊下の向こうへ消えてしまった。
(杉浦のヤツ、何がいいたかったんだ?)
 首をひねりながら、壁に寄りかかった時、着信音がした。久志はポケットから携帯を取り出し、画面を開く。
 雪代からメールの返信があり、中には、
I went to the movies yesterday.
I went for a movie yesterday.
I saw a movie yesterday.
と、英文が延々と記されているだけで、他には何も書かれていなかった。
 美術館へ向かう道すがら、あんなにはしゃいでいた彼女が、どうしてこうも態度を豹変させたのか、久志には訳がわからない。
 佐々木にメールしようかと迷ったが、どうしても雪代から直接、打ち明けてもらいたかった。
(雪代が起こしに来るまで、4時間以上もイスの上で熟睡しちまったから? でも雪代だって、そんだけ長い時間、オレのことも忘れて、ほっつき歩いてたんだよな。じゃあ、アレか。美術館を出た時、きれいな夕焼け空を眺めてるアイツに、キスしようとしたからか? でも気分が悪いって、ハッキリ断られたしなー。夕食どころか、昼も食わず、佐々木と暮らすマンションへ帰るっていい張るアイツを、きちんと送ってったつもりなんだけどな。ちゃんと部屋に上がって、アイツが制服のまんまだけど、ベッドへ横になるまで手も出さずに見届けたし。それとも……)
 唐突に思いついて、久志は深く、考え込んだ。
 ――美術館で、アイツがひとりで絵を見ている時に、何かあったのか?
 携帯をポケットにしまうと、階段を駆け下り、昇降口へ向かった。靴を履き替え、雨が降っているにもかかわらず、学校を飛び出す。
 走って、走って、走り続けることは、久志にとって、何でもないことだった。