ジーニアス・レッド 第二十七話 遅い思春期(1)

 球を触ることなく、考える間も許さないほどに激しく単調な練習を、人の倍は完璧にこなす。キャッチボールは一切口をきくことなく、一球一球まったく同じフォーム、速さで、延々と投げ続ける。ブルペンでの投球練習にいたっては、たった30球を、長い時間かけて放る。
 心を|空《から》にしたかと思えば、深く考え行動する。異常なまでに高い集中力で、そんなプロになることを前提とした練習に打ち込む最近の彼を、野球部の誰もが、畏怖の念を持って見守っていた。
 教室での久志は一転して、いつもよそ見をするからと、窓から一番遠い廊下側の、一番前の席に座らされている。実際に今の彼は、たくさんの級友達が机を並べる頭越しに、ぼんやりと外の風景を眺めていた。
 さっきから英語の教師が時おり久志を見ていることに、本人だけは気づいておらず、まわりの生徒は今か今かと、彼が指されるのをクスクスと笑いながら、心待ちにしている。
「仲田君」
 名前を呼ばれると、久志は頬杖をやめて、顔を前に向けた。
「黒板に回答をお願いします」
 教師が事もなげにいい、クラスメート達が顔を見合わせ、来たぞ、来たぞ、と、嬉しそうに小声で囁く。
 席を離れ、嫌々ながら黒板の前に立つ彼の背後では、
「中学レベルだぞ! 簡単で良かったな!」
と、ありがたくも何ともない声援が飛んだ。
(大してオレと変わんねークセに)
 胸の内で反論しつつ、チョークを手にする。黒板に書かれている『私はきのう映画を観に行きました』という日本文を、英文に訳さなくてはいけない。
(過去形を使う……んだよな?)
 カツカツと音をたてて、回答を書き上げた。
 ――I went to see movie yesterday. 
 前の席に座る、寮でも同室の小池が、
「何だよ、すっげーマトモでつまんねーじゃん」
といい、教室中が笑う。英語教師はすかさず、彼の頭を教科書で軽く叩いた。
「まともですが、間違っています。でも、間違いの、とても良い例です」
 教師の言葉に再び教室が沸き、良い間違いって何だよ! と、ムスッとしながら、久志は席へ着く。
「まず観に行くといういい方ですが、映画の場合は go to だけで、観に行くという意味になります。あと冠詞が足りませんね。正しくは I went to the movies yesterday. です」
 複数形を使うのは、という教師の説明を聞き流す久志の前で突然、教室のドアが開いた。
「すみません。仲田君を校長室へお連れしたいんですが」
 若い事務員の女性が顔を出していうのを耳にすると、久志はすぐに机の上を片づける。
「仲田君、行きなさい」
 英語教諭が告げると同時に、教室を出た。
 女性が先を行き、続いて彼も校長室へ向かいながら、窓の外に目をやる。朝から降り続く雨にしっとりと濡れた中庭には、色とりどりのタイルが敷かれていて、校舎の上から見ると、星の模様が浮かび上がって見えた。
 泥にまみれたユニフォーム姿でスパイクの金具を鳴らしながら、帽子を深くかぶり、あそこを横切った、寒い冬の夜が思い出される。
 あの日に見た、雪代の横たわる小さな体、恐る恐るかけられた震える声、口を固く引き結んだ横顔、握り締めた腕を強く引っ張る細い指、何もかもが彼を惹き付け、今もって離さずにいた。
(アイツ、何やってんだろうな)
 美術館へ一緒に出かけた翌日から、雪代はもう、3日間も学校へ登校していない。野球をしていなければ、気がつくといつも、彼女のことばかり考えていた。
「仲田君、三浦さんと付き合ってるのよね?」
 心を見透かされたように話しかけられ、久志は驚く。
「はい、付き合ってます」
と、前を歩きながらこちらへ振り返る女性に、バカ正直な返事をしていた。
「学食で一緒に食事してる姿を、時たま見るけど、微笑ましいって、学生課や教務課でも評判なの。四六時中ベタベタしてる、今どきのカップルと違って、さわやかよね。仲田君は変わらず野球部で練習に励んでるし、三浦さんもテストの成績が抜群に良いから、まさに模範的だって、いわれてるのよ」
「模範……オレ達が?」
「以前なら、あり得なかったけどね。小宮山先生が監督になる前、野球部って男女交際禁止だったから」
 知ってた? と親しげに聞かれ、困惑しながら首を左右に振る。
「それをOKにしたのは、女の子にかまけて練習がおろそかになるような生徒は、選手としてモノにならないからなんですって。恋愛と両立できないことで|却《かえ》って部活に集中する生徒や、女の子に支えられて頑張れる生徒もいるからって、小宮山先生が取材に答えてたのを、聞いたことがあるわ」
 でもね、と女性は肩をすくめて笑った。
「ここだけの話! 小宮山先生の奥様って、この学校の卒業生なの」
 わかる? といたずらっぽくいい、
「監督本人の体験から決めたことなのよね、きっと」
と、久志へ意味ありげな視線を投げて寄こす。
 国語の教諭でもある小宮山は、12年前に東光一高野球部が甲子園へ出場して、ベスト4となった時のレギュラーだ。高校卒業後は大学で教員免許を取得し、母校であるこの学校に、教師として戻って来た数少ないOBだった。野球部副部長を経て、5年前監督に就任したと聞いているが、彼の結婚相手が高校時代から付き合っていた女性だとは、恐らく野球部員の誰も知らないだろうし、久志も初耳だった。
「三浦さんはこの学校でただ一人、授業料全額免除の特待生じゃない? 同年代に競い合うような相手も、話の合う生徒もいないから、仲田君のようなずば抜けた才能を持つ男の子と気が合うんだろうねって、教職員の間で話したことがあるの。やっぱり天才の苦労は、天才でないと理解できないんでしょうね」
 ――授業料全額免除の特待生? 雪代が?
 聞き返そうとして、前にいる女性が校長室のドアをノックし、久志は言葉を呑み込む。
「仲田君をお連れしました」
 ドアを開けて中に入るよう促し、女性は立ち去った。
 久志が校長室へ足を踏み入れると、いかにもカメラマンといった風体の男性が、校長と向かい合ってソファに腰かけていた。監督の小宮山も同席していて、姿を現せた久志に、立ち上がって歩み寄ると、男を引き合わせた。
「榎本さん、彼が当校野球部の仲田久志です」
「仲田です。よろしくお願いします」
 深く頭を下げ、何の用だろうと、怪訝に思う。学校内でのマスコミ取材は、一切断っているはずだった。
「初めまして。神奈川新報社の榎本と申します」
 名刺を出され、慣れた手付きで受け取る久志へ、
「この雨の中、あちらの写真パネルを、届けに来て下さったんですよ」
と、校長が晴れがましい表情となって指し示した先に、1メートルはあるかと思われる大きい写真が、立てかけてあった。
 泥だらけのユニフォームをまとった久志が、甲子園のマウンドでしゃがみ込み、手に止まったトンボを眺めている。その瞬間を、見事にとらえた一枚だった。
「この写真が、今年の報道写真展スポーツ部門で最優秀賞をとりまして。何といっても被写体が良かったお蔭ですから、ご本人にお礼をと思い、今日はうかがった次第です」
 とても丁寧に話しかけられて戸惑う久志に、小宮山が満面の笑みを浮かべて、いった。
「2枚頂いて、1枚は学校で飾るそうだから、もう1枚は久志、お前が持って帰っていいぞ」
 久志はうなずき、
「ありがとうございます」
と、再度お辞儀をする。
「あの時は大変な試合でしたね。勝利が決まった瞬間、仲田君が倒れるのを見て、こちらまで心臓が止まるかと思いました」
「おかげで高野連からは、後で大変なお叱りを受けました。彼は前日の夜も、宿舎で倒れましてね。一晩休ませ、体調も良くなったと本人から報告を受けたこともあって、登板させたんですが……指導者の立場からすれば、選手の健康管理がなっていなかったことを、深く反省しなくてはなりません」
「それで15回を一人で投げきったうえ、ノーヒットノーランですか? やっぱり並の選手ではありませんね」
「本当に根性のある奴だと思います。試合中に熱を出して、相当な無理をしたうえに、夏の大会2連覇ですからね。優勝できたのは、仲田によるところが大きいと、認めざるを得ません。下手をしたら命にかかわることですし、将来のことを考えたら、慎重であるべきだったと、重々承知してはいるんですが」
 自分を褒めちぎる監督の横で、ソファに腰かけながら、久志は開いた足の間で両手を組み、黙って耳を傾けた。
「国体も終わり、いよいよプロ野球のドラフト会議が近いですから。うちのデスクでも、仲田君のことが大変な話題になっていますよ」
 プロ野球志望届は出されたんですか、と質問され、
「いえ、それがまだ……」
と、校長はチラリと久志を見やる。あまり騒がれたくないと、取材拒否を貫く彼の反応をうかがっているようだった。
 隣に座る監督を久志は見たが、話せとその目は、きつく自分をにらみつけている。
 ――そういうコトか……。
 甲子園から戻ったあと、静岡へ帰省した折、母からはプロ志望届の保護者欄に署名と判をもらっていたし、自分の署名も済んでいた。あとは学校へ提出し、神奈川高野連に届け出るだけとなっているが、久志は未だ用紙を寮の机へ、しまいっぱなしにしている。
(新聞社の人間が来たから、この機会に監督は、オレの本音を引き出すつもりで、呼んだんだ)
 国体が終わってから、自分の進路について曖昧にしてきた自分にも、責任があった。
「明日、プロ志望届を出すつもりです」
 久志が重い口を開き、榎本と名乗ったカメラマンも、身を乗り出す。
「希望の球団はありますか? 仲田君のお父上は、オリックスバッファローズの選手でしたよね」
「父が入団した頃は阪急ブレーブスだったハズですけど……」
 亡くなった時はオリックスブルーウェーブですね、と即座に榎本はつけ足した。最初からインタビュー狙いで来たんだと見当がつき、久志も腹をくくる。
「投げられるのであれば、どこでも行きます。バッティングがダメなんで、パ・リーグが希望といえば、希望なんですけど」
「DH制を採用していますからね。けれども仲田君は甲子園で本塁打を3本も打っているし、安打数もふた桁以上ではありませんか?」
「そこそこ打っていますが、野球に関して、仲田は一番でないと気が済まない性格なんですよ」
 代わりに監督が苦笑いを交えていい、榎本は深くうなずく。
「とっくにご存知かと思いますが、多くの球団が君を一位指名するんだと張り切っていますから、期せずとも指名は間違いありませんよ。でもアメリカのメジャーからも打診があったはずですよね? 海外へ行かれる予定は、ないんですか?」
 段々と興奮気味な口調となる榎本からの質問に、久志はうつむいたまま答えた。
「国内で頑張りたいと思います。静岡にいる母を、一人にしたくないので」
 ひどく感じ入ったように榎本が何度も首を縦に振り、校長も感心したのか、
「それを聞いたら、お母様も喜びますよ」
と、心なしか目を潤ませていう。
 ちょうど授業の終了を告げる鐘が鳴り、久志は中腰になって、
「もう、戻ってもいいですか?」
と、監督と校長へたずねた。
「授業中なのに、お呼び立てして、申し訳ありませんでした」
 落ち着かない様子で榎本も立ち上がり、そそくさと校長や監督と挨拶を交わす。これからすぐに新聞社へ戻り、今日の話を記事にするのだろう。
 久志も写真パネルを受け取り、
「失礼しました」
と、足早に校長室を出た。
「久志!」
 パネルの枠をつかみ、頭の上に掲げて歩いていたが、後ろから声をかけられ、振り向く。
「お前、そこまで決めていながら、どうしてもっと早く話さないんだ!」
 監督が追いついて来て、頭ごなしに怒鳴られた。
「静岡のお母さんだって、勤務先の病院に患者を装って記者が来たり、夜勤明けだろうが、何だろうが、都合も考えずに家の呼び鈴をガンガン鳴らして、息子さんの希望球団は? って、挨拶もろくろくせずにたずねてきたり、非常識なマスコミには困ってんだろうっ? 学校にも、アチコチのスカウトが探りを入れに来て、そりゃ大変なんだ。もっと早くにだな、久志がキチンと希望を述べてりゃ、そんな迷惑」
 かけることもなかったんだ、という小宮山の言葉を途中でさえぎり、
「監督って、いくつで結婚したんスか」
と、久志は口にした。
 結婚? と面喰らったのか、目を丸くした監督の眉間に、たちまち深いシワが刻まれる。
「久志。バカなことを考えるなよ」
「バカなこと?」
「プロ入り一年目の高卒ルーキーが、高校卒業後に即、挙式だなんて、聞いたこともないぞ」
 はあっ? と今度は久志が目をむいた。
「いくらオレでも、雪代と結婚なんて考えたことも……ないかな?」
「何で最後は疑問形なんだ」
 ため息をつく監督と向き合い、久志も床へパネルを下ろすと、手で支えながら、小さな声になって打ち明ける。
「プロ入りは、ずっと決めてたことです。それは夏の大会後も、ハッキリ公言したつもりだったんすけど」
「そりゃあ、それで十分かもしれん。ドラフトでお前を引き当てた球団しか、交渉もできないんだからな。けどな、それでも入りたい球団とか、望む条件とか、海外で投げたいのか、国内で投げたいのか、プロ野球関係者に限らず、世間は何でも知りたがるもんなんだ。お前はそれだけ自分が注目されいるっていう、自覚があるのか?」
 あります、と断言してみせた。
「あるから、オレは雪代と話をして、決めたかったんだ」
 半ば独り言のようにつぶやく久志を見ながら、小宮山は腕を組んで渋い顔をする。
「……俺が結婚したのは、大学を卒業してすぐだ。東光一高に野球の指導者として迎えられると、決まってからだよ」
「教師だけど、教師として迎えられたんじゃないってトコが、泣かせますねー」
「いくら猛勉強をして教員になったところで、こんな進学校の生徒なんて面倒見切れねーだろうが」
 けろりといってのける監督を前に吹き出すと、頭を叩かれた。
「ドラフトが終わって入団交渉が始まれば、お前ももう社会人として扱われるんだ。億っていう金が動くんだぞ。そうしたらお前の私生活に関して、俺は何も口出しできないだろうな。ただ、いっておきたいのは、女なんて結婚しちまえば、口うるさい家族でしかなくなるんだよ。子供ができると、せっかくの休みもアッチへ連れてけ、コッチへ連れてけ、家のことを手伝え、アレが欲しい、コレが欲しい」
 俺のことなんてどうでも、といいかけ、
「とにかくだな」
と、小宮山は咳払いをする。
「三浦は東大現役合格間違いなしの秀才で、海外の大学にだって推薦で入れるほどの実力を持っているんだぞ。 そしてお前は、牧山のようなピッチャーがガンガン打たれて、5年以内にほとんどの選手が辞めていくような世界に、飛び込もうとしている。高校を卒業して一緒になったって、三浦はお前の手に負えるような相手か? とにかく良く考えてみるんだな」
 まだ時間はあるんだから、といい残し、監督が去ると、久志はパネルを再び持ち上げ、教室へと戻っていった。昼休みに入ったせいか人もまばらで、学食へは行かない、弁当持参で自宅から通っている生徒達だけが、にぎやかに食事をしている。
「うおー、スゲエな、久志」
「マジでっけー。でもトンボとたわむれる高校球児って、どうよ」
「ほのぼのしてて、いーじゃん」
「でもよ、コレってアノ、甲子園の決勝なんじゃねーの?」
「うわ、ホントだ! 思いっきり雨上がりで、泥だらけじゃねーか」
「なあなあ、久志。この写真、タイトルとかあんの?」
 久志がパネルを置いた教室の後方に顔を向け、騒ぎ出した級友達から聞かれる。
「小さな応援団、だってさ」
 答えながら自分の席に着き、バッグを開けると、中から携帯を取りだした。
「超カワイクねー?」
「いや、ピッタリだって!」
「勝利のトンボだろー、やっぱ」
「まんまじゃねーか、ソレ!」
 好き放題にいい、どっと笑い出す彼らの声を聞きながら、雪代に電話をかけたが、繋がらない。久志はメールの画面を開いた。
 並大抵の文面では、絶対に返事が来ないとわかっている。かといって数学の問題はまったく思いつかず、
『私はきのう映画を観に行きました。これを英語に直すと、どうなる?』
と打った。
 後ろに目を戻すと、トンボに見入る自分の写真を、遠く前の席から眺める。
 ――今日の試合、勝って。
 あの言葉がなければ、自分はあそこまで、力の限り投げきることはできなかっただろう。
(オレは雪代が好きだ)
 それでも教室へ久志を迎えに来た女性の言葉が記憶によみがえり、小さな違和感を感じた。
 ――天才の苦労は、天才でないと理解できない。
 確かに雪代と自分は、恋と表現するには、あまりにも強い、別の何かで結ばれているのかもしれない。男女という枠を越えて、惹かれ合っているのだとしたら、二人はこれからどうなるのだろうと考え、久志は胸の奥に、ほんの少しだけ痛みを覚えた。
『高校を卒業したら一緒に暮らさないか?』
 そうメールに書き足し、どこか祈るような気持ちで送信する。
 窓に顔を向けると、空は厚い雲に覆われて暗く、降り止まない雨が、静かにガラスの上を滑り落ちていた。