ジーニアス・レッド 第二十六話 たどり着いた、その先に(2)

 美術館の巨大なエントランスの中央に立ち、天井を見上げた。巨大な吹き抜けの最上部にはガラスがはめ込まれていて、柔らかい太陽の光が差し込んでくる。
「でっけー。都会って感じ」
「大きい」
 二人して気圧されたような、それでいてどこか間抜けな顔になって、つぶやいた。周囲では平日の昼間だというのに多くの人が行き交い、小声で話をしている。
「オレ、美術館って初めてだけど、静かなんだな」
「あたしも、初めて」
「マジで?」
「それより、あそこ」
と、雪代は奥のエスカレーター指差した。
「3階だっけ?」
 うん、とうなずき、久志と連れだって広いフロアを横切る。エスカレーターで昇り、3階にたどり着いたが、緊張のあまり雪代の足元はおぼつかなかった。
「どーしたんだよ」
「だって、けっこう人がいる」
「中に入らねーで、どーすんだよ」
 乱暴な口調とは裏腹に、穏やかな顔つきでいう久志にうながされ、『神奈川県芸術公募展』と看板が掲げられている展示室へ、雪代は足を踏み入れた。
 ベージュのカーペットが敷かれたフロアには、巨大な白い衝立がいくつも並べられ、たくさんの美術品が置かれている。こんなにたくさんの絵画や彫刻を生で見るのは、生まれて初めてだ。
 入選作ばかり集められただけあって、どれも高い技術を用いて制作されているのがわかる。中にはどうやって描いたのか、想像もつかないような油絵もあった。
(色をのせて、ナイフでひっかいたっぽい。コッチは石膏の粉を混ぜて、わざと絵の具を染み込ませたのかな。この絵はすごいなー、火であぶったみたいだけど、ライターを使ったんだろうな)
 他人の絵に心奪われ、フラフラ歩き回っていると、強く久志に腕を引かれた。
「ほらっ、どこへ行くんだよ。まずは、オマエの絵だろ」
「あ、うん」
 よそ見をする雪代の手を引き、彼は遠慮なしにどんどん奥へ進む。
「お、アレじゃね?」
 立ち止まって久志がいい、人垣の出来ている一画に目が行く。広い壁面の中央に、他の作品とは距離を置いて、雪代の絵が飾られていた。『大賞・洋画部門 作品名・燃え尽きる夏 制作者・三浦雪代』と表示が添えられたその絵は、スポットライトの光を浴び、美しい光沢を放っている。
 大抵の人は静かに足を留めて鑑賞したのち、音もなく去って行くが、ごくまれに、
「三浦雪代? どこの協会に所属する画家なんだろう」と首をひねる者や、
「今年の県展はレベルが高い」と唸る者、
「作者は高校生らしいが、プロもアマチュアもない公募展で学生の大賞は珍しい」と驚く者など、こういった美術展の事情に詳しいと思われる人々もいた。
 自分の絵に大勢が見入る、その光景を前にして、雪代は何度も瞬きをした。
 ようやく人波が途絶えると、少し離れた場所で一緒にそれを見守っていた久志が、繋いでいた右手に力を込め、
「もっと、近くで見ようか」
と、耳元でいった。
 うん、と彼の言葉に、雪代もうなずく。
 アカデミックな作風が特徴の、忠実に自然を写し取った絵だ。夏の青い空と葉の生い茂る太い樹木、それらを背景に幹から飛び立つ真っ赤なセミが、描かれている。
 もちろん赤いセミなんて、この世に存在しない。セミに託して描いたのは、命が燃え尽きていく、その瞬間だ。
「あたし、ずっと怖かった」
 絵の前で、雪代は塗り重ねられた絵の具に血の色を見ながら、久志へ語りかけた。
「甲子園なんか、あたしにはどうでもいい。実際に春の選抜高校野球をテレビで見ても、みんなが何に熱中しているのか、全然理解できなかった」
 でも、と繋いだ手を固く握りかえし、言葉をつむぐ。
「東光一高が負けた時、スタンドに座る久志がテレビに映って、どうしても会いたくなった。だから次の日、学校へ行った」
 次々と人が来ては絵を見上げ、通り過ぎてゆく中、二人はその場に立ち続けた。
「久志が投げている姿を絵にしながら、これは自分だと思った。絵を描き続ける、あたし。野球をし続ける、久志。人とはまるで違う、あたし達。だから、理解し合えるんだと思った」
 雪代はいったん口をつぐむと、目の前にある絵から顔を逸らした。
「あたしは抱えるものが多すぎて、会うのをあきらめた事もあったけど、静岡へ行って……久志と離ればなれになってから、とても怖くなった。久志がまるで……」
「オレは正直、この絵が嫌いだ」
 小さいけれどもハッキリとした声で、話をさえぎられる。雪代は驚き、隣に立つ久志を仰ぎ見た。
「オレはぶっ倒れるまで投げ続けたけど、燃え尽きちゃいない」
 戸惑う彼女に、厳しい顔を向け、「そうだろ?」と彼はいった。
 思わず目を伏せる雪代の右手が持ち上げられ、中指に残る傷跡を、久志になぞられる。
(電話で話すことさえもためらう程に、あたしは心配していた)
 命をすり減らして鳴くセミに、自分と久志の姿を重ね合わせ、もっと生きて欲しいと願った。そうして自らが描いたセミに、生きている証である血を混ぜ込むなんて、狂気の沙汰に違いない。その結果、傷口から入ったカドミウムレッドに、身体まで毒されたのだ。
 ――そんなことを全て承知しているからこそ、久志は腹を立てているんだ。
 固くまぶたを閉じ、「ごめんなさい」と口にするのが、精一杯だった。
「もう二度と、自分の体を傷つけるような真似までして、こんな絵を描くな。オレが投げるたんび、そんな風にいちいちビビッてたら、オレのカノジョなんて、つとまんねーぞ。プロになったら、もっと無様なトコ見せることになんだからな。もっとビシッとしろ、ビシッと!」
 背中を思い切り叩かれ、返事は? と怒鳴られる。
「……はい」
「もっと腹から声出せ! 腹からだぞっ」
 薄目を開けて、恐る恐る表情をうかがうと、久志は顔いっぱいに笑みを浮かべていた。
(……面白がってる?)
 全身から力が抜け、雪代まで笑い出しそうになる。照れ隠しもあって、とっさに彼の脛めがけて足を蹴り出そうとしたが、脇の下に手を入れられ、ひょいと体を持ち上げられた。
「暴力反対」
 久志はニッコリ笑ったかと思うと、雪代を床へ降ろし、首の後ろで両手を組む。目くばせをされ、部屋の隅に座っている係員に気づいた。二人をにらみつけ、今にも席を立って来そうな気配を漂わせている。
「……行こうか」
「揉め事はカンベンだよな」
 雪代の肩へ腕を回す久志と、まるで退場を宣告されたバッテリーのように、すごすごと引き返す。展示室を出た途端、二人で大笑いをした。
「腹から声出せって、一体なんなのっ?」
「返事の基本だろーが」
「そんな体育系のノリで大声出したら、係員につまみ出されるよ」
「オレをつまみ出せるような大男はいなかったけどな」
 ホワイエと呼ばれるロビーのようなパブリックスペースで、やたらと大きいイスへ雪代は腰かける。ごろんと横になり、ガラス張りの天井を眺めた。
「でもまあ、美術館ってのは、案外悪くないな」
 隣に腰を下ろした久志が、不思議と上機嫌にいう。寝転んだまま、彼の背中に「どうして?」とたずねた。
「みんな熱心に壁ばっか見てるからさ」
 久志のいわんとするところが、雪代には痛いほど良くわかる。プロ野球のドラフト会議も近づき、学校周辺は何かと騒がしくなっていた。連日テレビや新聞、雑誌で取り上げられるせいか、ここへ来る途中も、彼はジロジロと無遠慮に見られたり、見知らぬ人から声をかけられたりしていた。
「でも、オレ向きの場所じゃねーよ」
 両手を上げて伸びをしながら、大きなあくびをする彼が着る、白いシャツの袖を、雪代は引っ張る。
「久志。お昼、食べに行こうか」
「うーん。腹が減ったといえば、減ったんだけど、まあイイよ。雪代はまだ、見たいんだろ?」
 たとえばアッチ、と久志が目をやった方向に、彼女も顔を向けた。
 体を起こすと、イスの縁につかまり、足をぶらぶらさせながら、
「近代日本洋画展……?」
と、入口の文字を読み上げる。
「県展と違って、マジにレベル高そーな感じがしねえ?」
「次の機会でいい」
「オレなら気にしなくていいよ。正直いって、昨日試合したばっかで、まだ疲れもとれてないからさ。ここで居眠りしてても、かまわねーかな」
 迷う雪代へ行けよとばかりに、手を振ってみせる久志の隣で、床に足を着け、立ち上がった。
「すぐ……戻って来るから」
「好きなだけ、見て来いよ」
 笑顔に見送られ、後ろ髪をひかれつつも、急ぎ足で一番奥の展示室へと歩いた。数多くの入場者を遠目に見たが、中へ入るとあまりに会場が大きくて、まばらにしか人の姿を確認できない。
 鑑賞に集中できるよう工夫されているのか、県展のスペースと違い、館内は薄暗かった。間を置いて展示されている作品のひとつひとつに、専用の照明が充てられていて、細かな解説が書かれたプレートも一緒に並べられている。
 重厚な雰囲気に包まれ、雪代もどこか緊張しながら、入口から順番に絵を見始めた。教科書でお馴染みの作品もあったが、ほとんどは雪代にとっては初見の油絵ばかりで、食い入るように見つめてしまう。
 様々なスタイルの絵画が集められていて、自分では試したこともない表現方法に出会ってしまうと、長い時間その絵の前から離れられなかった。
 最初の内は久志の事が頭にあって、とにかく早く回り終えてしまおうと思っていたが、その意識も段々と希薄になり、気が付くと時間も何も全て忘れて、油絵の世界に没頭していた。
(今、何時っ?)
 正気にかえり、焦って携帯を取り出すと、時間を見る。
 ――もう、午後4時……!
 何をやっているんだと、自分で自分の頬を引っ叩きたい気分だった。慌てて出口へ向かおうとして、視界の隅に真っ青な世界が映った。
 強く引き寄せられ、雪代はつい、振り返ってしまう。
 ウルトラマリンブルー、ピーチブラック、ルツーセ、バニス、タブロー、次々と絵の具とオイルの名前が、ぐるぐると頭の中を回り出した。
 突き当たりの壁に展示されている、細長いキャンバスに描かれた絵の前へ、導かれるように立つ。
 画面のほとんどを埋める青色は、わずかに褐色を帯びていた。黒に透明色の青を乗せたのか、青に透明色の黒を乗せたのか、容易に判断はつかない。それでもその色が持つ美しさに、そして中央に立つ人物の描写に、目を奪われた。
 ――妖艶な笑顔を浮かべる、一糸まとわない、幼女。
 解説文を読むと、発表当時、画壇でこの絵に対する論争が巻き起こったらしかった。肖像画というには、描かれている人物のキャンバスに占める割合が小さ過ぎたが、少女の、しかも全裸を描いた作品ということで、モラル的にどうなのか問題となったらしい。
 制作者は当時すでに、日本美術界に少なくない影響力を持つ、天才洋画家と呼ばれていた。芸術の世界で彼は確固たる地位を築き、つい一ヶ月ほど前に亡くなっていたが、その作風は今もって高く評価されている。
 ――どんなに問題視されたところで、価値は変わらない。
 この作品は実際、描いた画家の生涯を通じての傑作とされ、代表作であると解説には書かれていた。
 感動に立ち尽くし、そこから動くことの出来ない自分は、気が狂っているのかもしれない。
(この絵をあたしは知っている……ずっとずっと、前から)
 雪代は口を両手で強く押さえる。ふさがなければ、きっと悲鳴を上げていたに違いなかった。