ジーニアス・レッド 第二十五話 たどり着いた、その先に(1)

 2学期になって雪代が復学すると、学校では模擬試験が繰り返されていた。
 衣替えの日を迎えてから3日目となる今日、朝のうちは上着を羽織っていた者も、気温が高くなった今は、白いシャツ姿となって机に向かい、必死で答案用紙を埋めている。
 センター試験の出願締め切りも近づき、3年生は本格的な受験シーズンに入りつつあった。それでも今受けているテストが終われば、午前中で学校も終わるこの日を、雪代は心待ちにしていた。
 真新しい制服に身を包み、鉛筆を手にしたまま、窓の外へと顔を向ける。
 2年生の時は4階の教室で眺めも良かったが、3年生になって2階へ移ることとなり、見えるのは無人の校庭と、ほんの少しだけ葉が色づき始めた、イチョウの木ぐらいだ。それでも不思議と心が浮かれる。
(そろそろ、終わる時間……)
 そわそわしながら鉛筆を置いた途端、「はい。試験終了です!」と告げる教師の声が、教室に響く。
 答案用紙が集められると、横の席に座る鈴木が身を乗り出してきて、雪代に両手を合わせた。
「お願い、雪代! 不等式の問題あったでしょ? あれの模範解答、出せる?」
「あ、オレもそれ知りたい」
「頼むよ、三浦。恐らく去年かおととしの入試問題だよな」
 まわりにいたクラスメイト達が、一斉に話しかけてきた。
「……対数をとって、微分を使う」
 ぼそりと雪代が口にし、鈴木からは開いたノートが差し出される。鉛筆を再び持ち、
(1-x)^(1-1/x)<(1+x)^(1/x)
と、サラサラ書き上げていく雪代を、何人もの生徒が取り囲んだ。
「よしっ! オレは正解だ」
 東光一高の生徒会長もつとめる梶原は、右手でガッツポーズを作る。
「うー、マジかよ。増加関数だけじゃ、マイナスかな」
「いや、そうでもないだろ」
「ちょっと、ややこしいよな。やっぱり増減表を記すべきだよ」
 ノートの数式を見終えると、おのおのが席へ戻り、帰り支度をしながら、終えたばかりの試験内容について盛り上がっていた。
「うーん……この指数が、やっぱりカギよね」
 学校一と呼ばれる美しい顔を歪め、隣で座り込んだまま考え込む鈴木に、
「たとえば代入する式を……」
と、雪代はさらに数字や記号を書き連ね、説明する。
 机を挟んで前に立つ梶原も、ノートを指差し、
「エックスがこの値なら、こうじゃないか」
と数式を挙げ、補足した。
「うん。なるほどね。それならナットク!」
 明るい表情で鈴木がいうと、梶原は一瞬廊下に目をやり、
「ほら、三浦。彼氏が来たぞ」
と、親指を立てて、開け放たれた教室のドアを指し示した。
「仲田君! こっちよ」
 廊下へ向かい、手招きをしてみせる鈴木の隣で、雪代も小さく手を振る。
 特進クラスの者達も、2学期が始まったばかりの頃は、久志が教室へ姿を見せると、ひそひそ耳打ちし合い、雪代にあからさまな好奇の目を向けてきた。
 さすがに今は慣れたのか、ちらりと視線を投げて寄こす程度で、クラスのリーダー的存在である鈴木や梶原にいたっては、久志と顔を合わせると、軽口を叩き合うまでになっている。
「何だ? この暗号」
 後ろに来て雪代の肩越しに腕を伸ばすと、久志は机に両手を置いて、開かれたノートの紙面を見ながら、呆れた声を出した。
「おととし、東大の二次試験に出た問題よ」
「相変わらず、わっかんねーことやってんな、このクラス」
 ニコニコ話す鈴木とは対照的に、久志は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
「仲田君のクラスは、野球部とサッカー部の部員ばっかりだもんね。みんなスポーツ推薦とかで進学したり、仲田君みたくプロになったりするんでしょう?」
「まあ、そうなるんだろうなー」
 まるで他人事のように答える久志へ、梶原が窓に寄りかかりながら、そういえば、と声をかけた
「野球部、国体で優勝したんだよな。おめでとう!」
「オレは昨日の1試合しか、投げてねーけど」
「やっぱり甲子園の疲れがまだ抜けてないのか?」
「まさか。牧山とまた投げ合うかもしんねーから、決勝に備えただけだよ」
「そういえば、国体の決勝も長坂商とだったのよね」
 鈴木が目を輝かせ、久志は、
「特進クラスのクセして、そんなコトまで知ってんの?」
と、笑った。
「当然よー。昨日のニュースでやってたし、甲子園の決勝は、私も応援に行ったのよ! めちゃめちゃ感動したわ」
「あん時みたいに、ノーヒットノーランってワケにはいかなかったけど、9回を無失点に抑えてやったからな」
 すっげえ気分良かった! と顔をほころばせる久志の前で、
「じゃあ、今日は練習も休み?」
と、梶原は珍しそうにいった。
「1、2年はやってんよ。オレ等3年はスカウトと会わなきゃなんねーヤツとか、他にも色々あって、今日は一日、休養日」
「ふうん。だから二人で、これからデートなんだ?」
 ぎこちなくイスから立ち上がる雪代と、肩から斜めに下げた黒いショルダーバッグを、後ろに回して、抱える久志を交互に見ながら、からかい半分な口調で鈴木が聞いてくる。
「雪代と県立美術館へ行くんだ」
「県展を見に行くのね! 実は昨日、私も渡瀬ちゃんや香織達と行って来たのよ。大賞をとった雪代の絵、すっごい上手だった」
 バックパックを背負いながら、雪代は頬を赤く染め、そっと久志の背後に身を隠す。
「照れることねーだろ」
と、久志は振り返り、雪代へ微笑んでみせた。
「でも2学期になってからさ、三浦って、絵を描いてなくない?」
「そうそう。梶原のいう通り、朝も放課後も、アトリエにいないよね。前はいつだって、雪代がいたのに」
「コイツさ、油絵禁止令が出てんの」
 ええっ? と梶原も鈴木も、少し大げさな驚き方をする。
「甲子園から戻って2日目に、雪代と病院へ行ったらさ、オレの方は何ともねーのに、コイツだけ血液検査でひっかかってやんの」
「何か異常でも?」
 心配げな顔をする鈴木へ、久志は笑いながら明かした。
「それがさー、カドミウム中毒だっていうから、笑っちゃうよな」
 カドミウム? と梶原が首をひねる。
「原因は雪代の使ってる絵の具だよ。何だかしんねーけど、ソイツが雪代の体内に入って、悪さしてたらしい。そんなワケで、コイツは油絵の具を使うの、禁止されてんだよ」
 久志は答え、子供をあやすように雪代の頭を撫でる。
「ちょっと待って。仲田君、雪代と一緒に病院へ行ったの? 甲子園の2日後って、ニュースでも流れてた精密検査のこと? 病院の入口で仲田君が何ともありませんでしたって、インタビューに答えてた時のことじゃない?」
 あれって静岡の病院じゃ、と思いついたように、次々と言葉を繰り出す鈴木を無視して、
「行こうか」
と、久志はそっと雪代の背中を押す。
「じゃあな」
 まだ納得していない様子ながらも、鈴木は机に頬杖を突き、声をかけてきた久志と手を振る雪代へ、右手を振った。梶原も笑顔で、
「また明日」
と、二人を見送る。
 久志と雪代は教室を出ると並んで廊下を進み、昇降口で靴を履き替えると、校舎を後にした。制服姿で学校の外を二人一緒に歩くのは初めてで、互いに緊張しているのがわかる。
「久志!」
 ひと言も口をきくことなく駅へ向かっていると、後ろから名前を呼ぶ者がいた。
「よう、栗原!」
「すっげえ暑いなー、今日は」
「オマエ、詰め襟なんか着てっからだよ」
「だってよお、今から大学のグラウンドへ見学に行くんだ。監督からキチンとしてけって、注意されちゃってさー」
「カノジョ連れでかー? ソッチの方が、やばくねーか」
 ちらりと雪代が後ろを見ると、背の高い女子生徒がわずかに首を横へ曲げ、ニッコリと笑いかけてくる。自然と歩を緩めると、にぎやかに話し始める久志と栗原から離れ、雪代はその女の子に並んだ。
「三浦さんでしょ? あたし、カズミ」
 さらさらとした栗色の長い髪をかきあげながら、自己紹介をされる。綺麗に化粧をしていて、長く形の良い足を、短いスカートから惜しげもなく、周囲に見せつけていた。
 同じクラスの鈴木も美人ではあったが、それよりも親しみやすい、別の華やかさがカズミにはあり、いかにも野球部の男の子が好きそうなタイプに思えた。
「スッゴイよね。あの、みんなが狙っていた久志クンを、モノにしちゃうんだもん」
 いきなり彼女にいわれ、雪代はうつむくと、足元を見ながら答えた。
「物になんか、してない」
「何いってんの? 毎日久志クンと学食でお昼食べてんじゃん。でもさー、野球部のカレシなんて、考えモンよね。年中練習ばっかで、寮に住んでるから、デートするヒマどころか、会う時間も全然なくってさー。付き合ってるっていっても、普段はお昼を一緒に食べるくらいだよね、ホント」
 今日だって夏休み以来だよデートすんの、とカズミは臆することなく、一人で勝手にしゃべり続けた。
「だからさ、一回別れてんの、アタシ達。2年生の時だけど」
「でもまた、付き合い始めた」
 黙っているのも悪いような気がして、雪代はいった。
「3年になってね! だってさー、野球部のカレシって、やっぱ自慢じゃん? 甲子園とか出て、テレビにスッゴイ大きく映っちゃったりするんだよ」
「別に……自慢したくて、付き合ってるワケじゃない」
「やっぱ日本一の秀才はいうことが違うわねー!」
 日本一? と雪代はつい、顔をしかめてしまう。
「三浦さん、先月の校外模試で、成績が全国一位だったんでしょ? 日本一のピッチャーと日本一の秀才。スッゴイ組み合わせじゃない。そこらにいるフツーの子が久志クンを狙ったところで、とてもじゃないけど敵わないよね」
 ところでさ、と不意に雪代の耳に顔を近づけ、カズミは声をひそめた。
「久志クンとは、どこまでいった?」
 やっぱり体育館の倉庫とかで、ヤっちゃった? と続けざまにいわれ、雪代は大きく目を見開いた後、深いため息をつく。
「付き合い始めるキッカケだって、アトリエで倒れてるトコを助けられたからでしょ? 久志クンって、カノジョにはスッゴイ優しくしてくれそーだよね。逆にアッチは、激しかったりするのかなー」
 別に初めての相手じゃないでしょ? 教えてよ! と、横から雪代の顔をのぞき込み、カズミは悪びれることなく、答えをせがむ。
 久志との出会いや、松山と関係があったことも知ったうえで、たずねているのだとわかり、雪代は顔を強張らせた。
「栗原……君は?」
と、逆に質問し、精一杯の抵抗を試みる。
「カズキ? うーん。最初の頃は乱暴だったけど、今は上手になったかな。ここんトコ、全くシテないけど」
「バカみたい。セックスしたって、何も変わらないのに」
 カズミはそれが何だという口ぶりで、
「冷めてるのねー。付き合ってたら、ソッチも大事なコトなんじゃない? 何もない方がオカシイよ」
と、いってきた。
「あたし達きっと、おかしいんだよ」
「ふうん。そーなんだ」
 さして驚きもせず、カズミはいい、
「裏サイトの掲示板で、二人がどこまでいったか、みんな興味津々のカキコしてんのにねー」
と、無邪気に笑う。
 足を止め、雪代はその場にうずくまった。
「ちょっと! 三浦さん、どうしたのっ?」
 カズミの慌てた声がし、「雪代!」と今度は久志の声がする。
「何があったんだ?」
「普通に話をしてただけよ!」
「何の話?」
 久志に聞かれ、カズミは口ごもった。
「オマエさー、正直に久志の質問に答えろよ」
 栗原が口を挟み、カズミは機嫌を損ねたようだ。
「久志クンとドコまでいったか、聞いただけ! 女の子同士なら、よくする話よ!」
と、ムキになっていい返す。
「わりぃ。先、行ってくんねーか?」
「ごめんな、久志」
「蒲田先輩に会ったら、よろしくいっといてくれよな」
「伝えとく。じゃあな」
 バタバタと遠ざかる足音がして、しばらくすると、
「仮病を使うほどの話じゃねーだろ」
といわれ、雪代は顔を上げた。
「付き合ってらんない」
 目の前で同じようにしゃがみ込む久志をにらみつけ、すっくと立ち上がる。
「もうちょっと上手くかわせよな、その手の話題は」
「そんな器用なこと、出来ない」
「2学期になって学校へ戻って来てから、特進クラスの連中とも、よく話すようになっただろ」
「鈴木や梶原はそんな事、いちいち聞いてこない」
「ちぇ。勉強できるヤツって、つまんねーな。オレのまわりなんか、そんな話しょっちゅうだよ」
 複雑な気持ちで、雪代は空を見上げた。
(いつもそんな話してるんだ……)
 雲ひとつなく、やけに太陽がまぶしく感じられる。
「久志、競争しようか」
 ふと思いついて、返事を待たずに、雪代は全力で駈けだした。背中のバックパックから、カタカタと筆記用具の鳴る音がする。
 前方で何事かと振り返る、栗原やカズミを追い越したかと思うと、久志がそんな雪代の横からスッと抜け出て、目前に迫った駅へと走り去って行った。
「は、速いね」
 ようやく追い付き、駅の改札口に立つ久志の横で、雪代は胸に手を置きながら、息を弾ませる。
「悪いけどオレ、中学生陸上のレコード保持者だよ」
 静岡限定だけど、と笑う久志に並び、呼吸を整えながら切符売り場へ向かった。
「県立美術館って、ドコの駅で降りるんだっけ」
「ここからだと……380円。あたしのSuicaで買うから、いいよ」
 手早く切符を購入し、久志へ渡すと、急いで改札をくぐる。
「いい、久志! 今度は一番向こうのホームまで、競争!」
「楽勝!」
 勢い良く二人は階段を駆け上がった。あっという間に奥のホームへたどり着いた久志がバンザイをし、続いて階段から下り立った雪代を抱き留めると、二人は仲良く笑い合う。
「あーあ。見せつけやがって。初デートで浮かれてんじゃねーの、久志のヤツ」
 遅れて改札を通った栗原が、呆気にとられていい、
「なんか珍しいね。あんな風に久志クンが、はしゃいでるのって」
と、カズミも目を見張った。
 そんな彼らの見守る中、電車が奥のホームへとすべり込み、やがて発車する。
「そーいやオレも、あんな久志は初めて見るかな。それにしたって、あの二人、ガキみてーだな」
「ホントにガキなんだから、しょーがないでしょ」
 カズミが吹き出し、栗原も大声で笑う。部活を引退しても、再び野球漬けの生活となる日々が待っている野球部のメンバーにとっては、ほんの束の間の、幸せな時間に違いなかった。