ジーニアス・レッド 第二十四話 帰郷、そして再会(2)

 久志が玄関へ戻ると、母と榊のおばさんは、まだ立ち話をしていた。
「雪代は?」
「部屋で寝てる」
 母から聞かれ、久志は上がり口に置きっぱなしだったバッグを手にしながら、何でも無い風に答えた。
 あら、もう遅いわね、と榊が気が付いたように、
「そろそろ、帰らなくちゃ」
と、明るい声を出した。
「そうそう、お留守の間に、祝電やお花がいっぱい届いたの。仏間に並べてあるからわかると思うけど、全部受け取っておいたから」
「本当に申し訳ありませんでした。何から、何まで」
「こっちこそ、疲れているのに大変な騒ぎに巻き込んでしまって、申し訳なかったわ。でもみんな、必死に久志君を応援していたもんだから、優勝できて我がことのように嬉しいのよ。どうしてもお祝いがしたかった、その気持ちもわかってあげてね」
「はい。ありがとうございました」
 久志が深く体を前に曲げると、榊はうっとりしたようにいった。
「羨ましいわあ。立派な息子さんで」
 いえいえ、と母は満更でもない笑顔を浮かべ、向かいの隣人を見送った。
 久志は居間へ行き、バッグを放り投げると、奥のふすまを開けた。花の匂いがむせかえるほど、あふれている仏間に入り、たまらずくしゃみをする。隅に並べられた花束と、積み重ねられた祝電の上から、上半身を乗り出して腕を伸ばすと、窓を開けた。
 潮の香りを含む風が、蒸し暑い部屋の中を吹き抜ける。久志は仏壇の前に腰を下ろした。
 マッチでロウソクに火を点けると、線香を供える。|鈴《りん》を鳴らして、しばらく手を合わせたのち、メダルを首から抜くと、仏壇に置いた。
 深紅の優勝旗と同じ色である赤いリボンの先に、金色のメダルが輝いている。
 顔を上げて、久志は父の遺影を見た。プロ野球選手だった、現役時代の写真も飾られていて、細く、どこか優男な印象がする父の、投球している姿に見入った。
「久志」
 母が隣に来て座った。
「お父さんと何を話しているの?」
 自分と同じように遺影を見上げる母へ、思ったままの疑問を投げかける。
「親父さ、自殺だったのかな」
 ええ? と向けられた母の顔には、笑みが浮かんでいた。
「お父さんが自殺? そうねえ、いわれてみれば、不自然な死に方かもね」
 意外な反応を前にして、久志は戸惑った。
「だってさ、車がたくさん通っている道路の、歩道でもないところを飛び出したんだろ?」
「うーん。でもね、お父さんって、変わってる人だったから」
 いつの間にか克己もやって来て、久志と並び、畳の上にあぐらをかくと、黙って母の言葉に耳を澄ます。
「お葬式にもね、たくさん球団の方が来て下さって、お父さんのことを、あんなに野球が好きな人はいなかったって、おっしゃってくれたわ」
「でも親父は、プロ失格って、見なされたんだよな?」
 それはね、と久志を諭すような口調で、母はいった。
「お父さんが、勝負にこだわらない人だったからよ」
「勝負にこだわらない? 何だ、ソレ」
「ただ投げるだけ。人の目も気にせず、淡々と自分の投げたい球だけを投げるの。でもそれじゃあ、プロではやっていけないわよねえ。アマチュアだったら、まだ通用したのかもしれないけれど、プロ相手じゃ、とてもとても」
「それで、親父は?」
「それでって、いわれても……バッティングピッチャーになって、ただ投げ続けただけ」
 眉間に深いシワを刻んで、久志は考え込む。バッターとまともに勝負をしないピッチャーなんて何の意味もないし、それでは役目を放棄しているようなものだ。そして何よりも打者を打ち取るという、一度覚えたら決して忘れられない麻薬のような魅力を、自ら捨て去るなんて、到底信じられない。
「そのうちバッティングピッチャーも、クビを宣告されちゃったけどね」
 久志だけでなく、克己も初耳だったのだろう。膝に手を置いて、身を乗り出し、「本当に?」と聞き返していた。
「宣告された、その夜よ。死んだのは」
「やっぱり、自殺じゃねえかっ!」
 久志が床を、派手な音と共に両手で叩く。
「うーん。お母さん、思うのよ。お父さん、野球の神様に連れて行かれちゃったんじゃないかしら」
 母は悪びれることなく、あっけらかんといってのけた。
「野球の神様あ?」
 久志は開いた口がふさがらなかった。それでも母は、
「好きなだけ、好きな球を投げていいよっていう、そんな所に行っちゃったのよ」
と、ニコニコしている。
「マジおかしいよ!」
「いや、俺は何となくわかるよ」
 父の遺影を見ながら、克己がぽつりとつぶやいた。
「俺は久志と違って、親父が死んだ時5歳だったから、うっすらとだけど、親父のことを覚えてるんだ。確かにとっても変わった人だったと思う」
 どういうところが? と久志は憮然として、たずねる。
「うーん。すごい無口だった」
 母はなぜか嬉しそうに、うなずいた。
「そして、優しかった。よく肩車をされて、公園に行ったんだよな。そこで壁を相手に、親父が球を投げるんだよ。これはカーブ、これはシュート、そんな感じでね。でもその姿が、めちゃくちゃ格好良くってさ。その印象が強烈で、俺は野球を遊びで終わらせたんだ。どうしても親父にはかなわないって、思ったんだろうな、きっと」
 他にも、と克己は楽しそうに、話を続けた。
「俺が何かのきっかけで泣いた時だったかな。目の前でボールを握ってみせて、これがカーブの握り、コレがシュートの握りって、俺に見せるんだよ。小さい子供相手にそんなことをするなんて、バカバカしいけど、俺は確かに泣き止んで、夢中になってそれを見た記憶がある」
「それじゃ全く一緒じゃんか! 投げてみせた時とさ!」
「そこが、お父さんなのよねえ。他にも、これがフォーク、これがパーム、これがスライダー」
 母までもが似たようなことをいい出し、久志は無理やり言葉をさえぎる。
「ちょっと待てよ! あり得ねえって! ひとりでそんな何種類もの変化球、投げれるもんかっ!」
「あら。お父さんは10種類以上の変化球を投げてたわよ」
「そんなの、ちょこっと曲がったってくらいだろっ」
「それが違うのよ。実戦でも使える、立派な変化球よ。それは同じ球団の、他の選手さん達も認めていたんだから」
「あー、クソッ! 頭がこんがらがるっ」
 そんな久志の様子を見て、母はクスクスと笑う。
「ただ悲しいことに、変化球の投げすぎで身体を壊してしまってね。結局は試合で投げられなくなっちゃったのよ。まあ勝負をしない投手なんだから、元々試合に出させてもらえるはずもないんだけど」
 なあ、と久志は足を広げて前に投げ出すと、眉根を寄せて、訝しんだ。
「何で親父と結婚したの?」
「格好良かったから」
「はあっ? 見た目だけで、そんな変なヤツと結婚したのかよ!」
「他にも理由はあるわよ、もちろん。一番は、お父さんがお母さんとしか話をしなかった。そんなところかしら」
「話をしない? 他の誰とも?」
 それじゃまるで、といいかけ、久志は言葉を呑み込む。
「そういえば雪代って、お父さんに似てるわあ」
 久志がいうよりも先に、母がいった。
「あ、俺もそれ、思ったんだ。時おりブツブツと数式をいうあたり、変化球の種類をいい続ける親父に、そっくりだよな」
 そんな雪代や父のことを思い出したのか、克己はうつむいて口に手をやると、声を押し殺して笑った。
「やめろよ! まるで雪代までいつか、絵の神様だか、数学の神様だか知んねーけど、連れてかれちまうみたいじゃないか」
 あら大丈夫よ、と母はけろりとしていった。
「あの子も変わったわ」
「変わったよ。最近、雪代の口から数式なんて、とんと聞かないしね」
 母と克己がうなずき合うのを見ながら、久志は乱暴に頭をかいた。
「わかった! 確かに変わったかもしれねーよっ? でもさ、相変わらず気分悪くなってんだろ? アレは雪代が人と話して、緊張した時に出るクセなんだ」
「そういえば雪代を病院に連れて行くって、母さんいってなかったっけ」
 克己が口を開き、「病院?」と久志は顔をしかめた。
「そうよ! 甲子園が終わったら、行こうと思ってたの。明日、久志を精密検査に連れて行くから、ついでに診てもらおうかしら」
「だからさー! 違うんだよっ。雪代はオレの家族に、すげえ気い使ってんだぞ! 近所とも頑張って付き合おうと、努力してんじゃねーか!」
「だからそれが、変わったってことでしょう?」
 当然のことのようにいう母を、久志はにらみつける。
「そんなアイツの気持ちも考えねーで、二人は雪代、雪代って、家族みてえにアイツを呼び捨てにしてるし、近所の人まで『雪代ちゃん』なんて、気軽に呼んで、すっげえ馴染んでやがるしさ! オマケに雪代のヤツ、淳とデートまでしたんだろっ」
 克己は腕を組み、久志を斜めに見ながら、ニヤニヤ笑う。
「久志。お前、妬いてるんだろ」
「そ、そんなことねーよ!」
「別に淳君に限らないわよ? 雪代にちょっかいを出して来た子って、他にもたくさんいるのよ」
 冗談だろ、と久志は広げた足の先を指でつかみながら、上目遣いに母を見上げた。
「雪代って、何だか目立つのよ。ここら辺にはいないタイプの子でしょ? 美人で、大人しくて、いかにも賢そうな感じじゃない。近所の男の子が何人も、興味半分にあの子へ声をかけてきたんだけど、仲良くなったのは淳君だけよ」
 でもおっかしいのよねえ、と母は思い出し笑いをする。
「淳君ったら、雪代に告白したんですって!」
「雪代も罪なことをするよなあ。わかるだろ、久志?」
「何がだよ」
 口ごもる久志の背中を、克己は思い切り叩いた。
「淳と久志の共通点を考えてみろよ!」
 背が高くて、野球をやっていて、頭が丸刈りで、と克己は指折り数える。久志は床に突っ伏し、大きく開いた足の間で、お腹までぴったりと畳にくっつけた。
「お前、デカイくせに体が柔らかいなあ。野球がダメだったら、バレリーナでも目指せば?」
 感心したようにいう克己へ、
「こんなごっつい男でもなれるんなら、考えてみるよ」
と、顔を伏せたまま、ぶっきらぼうに答える。
「心配しなくても、淳君は見事にフラれたわよ」
「心配なんかしてない」
「あーっ、久志の奴、首まで真っ赤になってやがる!」
 体を起こし、「うるせえよっ!」と、久志は怒鳴った。
「あーら、ホント! 久志ったら、顔だけじゃなくて、耳も赤いわよっ」
 母がお腹を抱えて笑い、あのさあ、と久志は語気を荒げる。
「一番気に入らないのは、アイツが中学三年生で、オレの妹ってコトだよ!」
「車の中でも説明したじゃない。あの事件のことは、こっちでも話題になったでしょ? 名前は一緒でも、身内ってことにしておけば、近所の人も変なこといってこないわよ」
 雪代はね、と母は久志へいい聞かすように、いった。
「あなたのために変わろうとしているのよ。だから久志も、お父さんのことをあれこれ考えるのは、やめなさい」
 父の遺影を再び仰ぎながら、
「お父さんが自殺なら、久志に野球なんてやらせてないわ」
と、力強くいう母の顔から、笑みが消えている。そばで何もいわずに話を聞いていた兄も、目を伏せ、静かに床を見つめていた。
 母も兄も長い間、野球に打ち込む自分を亡き父の姿と重ね合わせ、必死に支えてくれたのだと、久志は思った。
(みんな、オレのために……)
 再び畳にお腹を付け、顔を床に伏せると、
「ありがとな、母さん」
と久志は小声で告げた。
 えっ? と驚く母の声がする。
「雪代のこともそうだけど、昨日は甲子園でぶっ倒れて、さんざん心配かけたうえに、今日はガッコーへわざわざ来てもらってさ」
「どうしたんだよ、お前」
 克己が笑っていうのが聞こえた。
「アニキにも感謝してる。野球は金がかかるもんな。オレに野球を続けさせるため、大学にも行かねえで、高校を出てすぐ、警官になった」
「ちょっと、本当にどうしたのよ?」
 母までもが久志の様子を訝しむ。
「今日の優勝報告会、野球部父母会代表の挨拶まで、してくれたじゃねーか」
「ああ、あれね。代表挨拶は、3年生の背番号1番の子の親がやるっていうのが、父母会の決まりなの。去年も1番だったけど、久志は2年生だったでしょ? だから主将だった蒲田君のお父さんに代わってもらっただけで、本音をいうなら去年だって挨拶したかったのよ」
「冗談だろ」
 顔を上げ、久志は思わず口にした。
「あのね、ああいうことが親にとっては、ものすごく嬉しいの。甲子園でも、あのピッチャーは私の息子なんです、って叫びたくて、しょうがなかったわ」
「へえ……そういうモン……なのか」
 体を起こして足を組むと、久志は手を首の後ろにやり、はにかんだ。
「あったり前じゃない! 今日だって久志のことで、色んな人からあんなに褒められて、鼻が高かったのよ!」
「まあ、今日の久志は偉かったよ。冗談ひとついわず、生真面目にハイ、ハイ、と何でも素直にうなずいてさ」
「そうよお。制服のまま、首に優勝メダルまでぶら下げてみせたのなんか、出来すぎよお! みんな大喜びだったじゃない!」
 兄と母が顔を見合わせ、大笑いする中、久志はフン、と横を向く。
「高校球児ってのは礼儀正しくて、冗談なんかいわないモンなんだよ。その方が何かと都合イイしさ」
「雪代もだけど、あなたも変わったわ」
 突然母は、しみじみといった。
「真面目なのは一緒だけど、以前の久志はおしゃべりなくせに勝ち気で、人に頭を下げるのを何よりも嫌っていたわ」
「監督さんも学校で会った時に、いってたな。久志は3年生になって、幼さが消えたって。まあ、野球部じゃ恐れられているらしいけど、それも大人になったからか? 母さんにちゃんと、礼までいえるようになったしな」
 ついムキになって、久志はいい返した。
「そりゃ、嫌でも大人になるさ! 二度目の甲子園ともなると立ち回り方だって大体わかるし、オレには親父がいねーからな。叱ってくれる大人なんて、監督ぐらいだろ? 自分でもしっかりしなきゃ、いけねーよなって思うよっ」
 ははーん、と克己は意地悪く笑った。
「雪代のため、かな」
 かんけーねえよ! と再び頬を赤く染める久志の横で、
「そろそろご飯にしましょうか」
母は両腕を上げて伸びをすると立ち上がり、鼻歌を口ずさみながら台所に向かう。
「久志、台所を見たか?」
 克己に聞かれ、久志は首を横に振る。
「それじゃ、見て来いよ」
「何で?」
「いいから」
 兄に急かされ、片膝をついて立ち上がると、久志は居間を抜けて台所に行った。
「テーブルの上を見なさい、久志。小アジの唐揚げに、ポテトサラダ」
 あとこっちも、と母に促され、ガス台にのった鍋のフタを開けてみる。里芋とイカの煮物、金目鯛のみそ汁と、立派な総菜が出来上がっていた。
「雪代のことだから、今日は丸々一日、この料理にかかりっきりだったと思うわ」
 テーブルに食器や箸を並べながら、母は笑った。
「丸一日ってのは、オーバーだろ」
「台所の棚を見てみなさいよ。計量スプーンだのカップだの。全部、雪代にねだられて、買い揃えたの。料理の本を見ながら、きちんと調味料は全て計って使うし、材料も同じ大きさに切りそろえないと、気が済まないタチなのよ。そんな調子で、これだけの料理をしたのなら、相当時間がかかってるわね」
「その金目鯛も泣かせるね。きっとお祝いのつもりなんだよ」
 お前、愛されてるなあ、と台所に入って来て、深くうなずく克己をひとにらみすると、久志は廊下に出た。
「どうしたの? 突然」母から聞かれ、
「どうもしない。 ちょっと雪代の様子を見てくる」
台所へ振り返って返事をすると、自分の部屋へと急いだ。
「雪代、入るぞ」
 念のため声を発してから、ドアを開けた。電気は点けず、暗い部屋の中をベッドへ近づき、腰かける。
 後ろで壁を向いたまま、横になっている雪代へ、
「悪かった」
と、小さな声で呼びかけた。
「知らない連中に囲まれて、この3ヶ月間、緊張しただろ。オマケに無理して、話までしなきゃいけなくてさ。オレに電話してこなかったのも、今ならわかる。オマエ、疲れ切ってたんじゃないか?」
 ベッドのきしむ音がして、
「そんなことない」
と、か細い声が部屋に響く。久志は背中越しに、振り返った。
 布団に手を突きながら、雪代は起きあがる。前髪が眉の上で切りそろえられ、後ろ髪も肩より短い長さになっていた。
 今さらながら気が付き、
「髪、切ったのか?」
と、久志はたずねた。
「変、かな」
「いや。すげえ、似合ってんよ」
「……うん」
 恥ずかしそうに、うつむく雪代が髪をかき上げ、耳にかけると、白い首筋が露わになる。
 彼女は白いワンピースを着ていて、ふんわりとふくらむ袖口から、細い腕が伸びていた。大きく開いた襟まわりに、鎖骨がはっきりと浮き上がって見え、その下には胸のふくらみが、わずかにのぞいて見える。
 久志は思わず、顔を背けた。
「あたしね、楽しいよ、毎日」
と、背後で雪代はきれぎれにしゃべった。
「勇気を出して、人と話してみると、こんな自分でも受け入れてもらえるんだって、少し自信がついた」
 みんな久志のお蔭だよ、と彼女の手が伸びてきて、ベッドの上に置かれた久志の右手に重なる。
 久志も雪代も早くいらっしゃい、ご飯よ、と廊下から母の呼ぶ声がした。
「行こっか」
「うん」
 ベッドから立ち上がると、重ねられた雪代の手を握り、笑いかける。彼女も笑顔になって床に足を着けると、久志に並んだ。
「あのさ、雪代はオレの妹じゃなくて、カノジョだからな」
「そんなの、わかってる」
 部屋を出る前に立ち止まり、念を押すと、雪代は久志を見上げ、当たり前だという顔になる。
「それじゃさ、こういう時、キスとかするんじゃねーの?」
「キス?」
 片眉を上げ、うさんくさそうに自分を見つめる雪代と目が合い、久志は吹き出した。
「オマエって、そういうヤツだよな!」
 久志は身を屈めると、乱暴に頬へ口付ける。そして深く首を曲げて、ゆっくり目を閉じた雪代の唇に、キスをした。
「雪代の作った夕飯かあ。明日、腹壊さなきゃいいけど」
 顔を離して久志が笑うと、雪代は繋いだ手をひっぱり、どんどん廊下を歩き出す。
「食べてみれば、わかる」
「それは味に自信があるってコト?」
「アジは唐揚げ」
「つまんねー冗談いうなあ」
「もうキスなんか、しない」
「きすの天ぷらもウマイよな」
「つまんない冗談」
「お互いさまだろーっ」
 二人はにぎやかに言葉を交わしながら、台所へと入っていった。
 開け放された縁側の窓から、網戸を通して鈴虫の鳴く声が聞こえてくる。涼風が軒下の風鈴を揺らしながら、秋の訪れを告げていた。