ジーニアス・レッド 第二十三話 帰郷、そして再会(1)

 車の後部座席で窮屈そうに足をたたみ、寝転びながら、校歌を口ずさんでいた。
 ――緑が香る丘の上 眼下に見えるは|学舎《まなびや》の 歩きて進むこの道を 昇るは若き我らこそ……。
 歌の途中で、助手席に座っている母が、シートの背もたれに手をかけ、前から顔をのぞかせる。
「もうすぐ家に着くわよ。さっさとズボンを履きなさい。もう、だらしないんだからっ!」
 久志は起きあがると、座席の後ろに放りっぱなしだった制服のズボンを拾い上げ、もぞもぞと狭い車内で足を通す。
「寮からの外出は制服着用って、決まりとはいえ、いちいち面倒クセーよな」
 昨日の決勝戦で、15回の裏に長坂商最後のバッターから三振を奪い、試合に勝利した直後、久志はマウンドで気を失っていた。すぐに意識を取り戻したが、大事を取って医務室で休むよういわれ、校歌を歌うことも、閉会式に出ることさえも、叶わなかった。
 ついグチめいた言葉が口を突いて出るのも、野球部の仲間達と喜びを分かち合う、その瞬間を逃してしまった悔しさが、未だ胸に渦巻いていたからかもしれない。
「まったく。ウチには年頃の娘もいるんですからね!」
 そんな久志の気持ちなど、全く意に介さないのか、母は相変わらず口うるさい。
「雪代は気にしねーよ」
 だいいち自分の家へ帰るのに変じゃねーか、とベルトを締め、ウンザリしながらいい返す。
「腹減ったーっ!」
と、久志は腹立ちまぎれに、運転席の後ろを足で蹴った。
「あと少しで着くから我慢しろよ」
 兄の克己になだめられながら、携帯を取り出し、雪代の番号へ電話をかけてみる。
「雪代のヤツ、何やってんだよ!」
 決勝戦が終わってから、もう何度もかけたが、一回も出た試しがない。久志はふてくされ、携帯を放り投げると、シートの上でのけぞった。
「多分、一生懸命夕飯を作ってると思うよ」
 天井を見ながら、大きなあくびをする久志へ、バックミラー越しに克己が、意味ありげなセリフを投げて寄こす。
「帰ったら、味はともかく、たくさん食べてやれよな」
「雪代が料理?」
 怪訝そうに聞きかえす久志の前で、雪代をかばおうとしているのか、母が早口でいった。
「けっこう上手になったじゃない! 今朝、東光一高へあんたを迎えに行く、お兄ちゃんとお母さんを玄関で見送りながら、久志のために漁協で魚を買ってくるって、張り切ってたもの」
「へえ……アイツ、卵も満足に割れねえって、いってたんだけどな」
 どこか照れくさくて、久志は窓の外に顔を向けた。ほとんど日も暮れた夕闇の中に、見慣れた街並みが広がる。漁で生計を立てている家がまだまだ多い、海沿いの田舎町だ。
 祖父母の代は漁にも出ていたし、この街の漁業協同組合は、東光一高野球部の後援会に名前を連ねてもいる。少し道を歩けば、いくらでも知り合いと顔を合わすことができる、正真正銘のふるさとだ。
 三年間通った中学校の前で、野球のユニフォームに身を包んだ一団を見つけると、通り過ぎる車の中から、懐かしい気持ちになって眺める。家はもう、すぐそこだった。
「うわ、何だアレ」
「家の前に人がいっぱい!」
 兄と母が同時に声をあげる。久志も前方に目をやり、唖然とした。
 久志達の乗る車が家の前に停まると、大勢の人達であっという間に周囲が埋まる。
「優勝、おめでとう!」
「お帰りなさい、久志君!」
 車を降りた途端、久志は次々と声をかけられた。
「いやあ、お疲れさん、お疲れさん! すごい試合だったね」
「15回も戦ったうえに、ノーヒットノーランを達成したんだから、素晴らしいよ」
「体はもう、いいのかい? 試合が終わって倒れたんだろ?」
「いやあ、もう、担架で運ばれたから、何かあったんじゃないかと、テレビを見ながら、心配で、心配で」
「今朝、甲子園から学校に無事戻ったって、ニュースで知ってね。ひと安心したよ」
「そういえば優勝メダルはどうした! もらえたんだろ?」
 見せてくれ、の大合唱に、久志は急いで車の後ろを開けると、スポーツバッグを開けて、中からメダルを取り出した。
 おお、と人々がどよめき、
「ちょっとそれ、首にかけてくんないかな」
と、声がかかる。
 閉会式を欠席し、結局のところ甲子園の宿舎で、久志が受け取ることとなった、そのメダルを、いわれるままに制服の上から首に下げた。
「この度はご声援ありがとうございました」
と、久志は反射的に、深々とお辞儀をする。
 盛大な拍手が起こったかと思うと、絶え間なく写真を撮られたり、サインを求められたりした。色紙には下手な字で、『東光一高、仲田久志』と記し、『全力投球』と書き添える。
 お互い顔を良く知っている近所の人達から、「一生の宝物にするわ」と、大げさに感謝され、久志は愛想笑いを返しながら、ひたすら頭を下げた。
「久志君、久しぶりだね。この度はおめでとう」
 丁寧な口調でいわれ、慌てて声のした方に振り向く。
「堀田監督!」
 ここ地元のスポーツ少年団で、野球チームを指導をしている、恩師のひとりだ。近くに住んでいて、リトルに入る以前、久志もずいぶんと世話になった覚えがある。
「ご無沙汰してます」
「小学生の頃から人一倍練習熱心だったけれど、東光一高に入ってからも、本当に頑張ったね」
 穏やかな顔つきでいう堀田を前に、久志はどうあっても頭が上がらない。監督というのは、常にそういう存在だ。
「うちの息子も頑張ってはいるが、とても君にはかなわないよ」
「そういえば淳君、どうしてますか?」
 堀田には久志よりふたつ年下の息子がいて、中学の軟式野球部で活躍したあと、今年の春から、そう遠くない強豪校に入学したと、母から聞かされていた。
「相変わらず、野球ばかりやっているよ。今日も来たがってたんだけどね、久志君と違って、まだまだレギュラーにはほど遠いからな。練習を休む訳にもいかず、寮に入ったままだよ」
「寮じゃ、お正月ぐらいっすよね。帰れんの」
「いや、残念ながら夏の大会も、淳の学校は早くに負けてしまってね。お盆には帰ってきたよ」
 そうですか、と神妙な顔つきでうなずく。久志が夏休みに家へ帰って来たのは、高校3年間を通じて、今年が初めてだ。改めて野球漬けだった夏を思い返し、よく耐えたな、と自分で自分に感心する。
「そういえば淳の奴、ここの雪代ちゃんと、休み中は毎日会っていたようだね」
 えっ、と久志は顔を強張らせた。
「淳君より年下なのに、大人っぽいよねえ、雪代ちゃん」
「ああ、あの子は美人だなあ。何ともいえない、色気があるよ」
「子供には勿体ない。淳には高嶺の花だ」
 酔っぱらっているのか、話に割り込んできたまわりの親父達が、にぎやかに口をそろえていい、
「やめなさいよ。雪代ちゃんのお兄さんの前で!」
と、見かねた近所のおばさんが止めに入る。
「久志君も克己君も、格好良いものねえ。やっぱり美形の家系なのよ、このうちは」
 誰かがいい、大人達は無邪気に笑った。
 久志は人混みの中から、母を捜した。玄関の前で談笑しているのを見つけると、即座に近づき、腕を引く。
「オレ、もう疲れた」
「そうね。そろそろ家に入りましょうか」
 そばにいた、この地域の世話人的存在で、自治会長もつとめる漁労長に、母は話しかけた。
「明日、久志を病院まで精密検査に連れていかなきゃならないんです。お集まりいただいて恐縮なんですが、そろそろお|暇《いとま》してもよろしいですか」
 それは、それは、と彼は驚いたようにいい、
「ここはひとつ、三本締めをして、おひらきとしましょう」
と、大声を上げた。
 皆が一斉に、よおっ、というかけ声に合わせて手を叩くと、最後は久志に向かって大きな拍手をした。
「優勝おめでとう」
「ゆっくり体を休めて」
「暇があったら、いつでも漁協に顔を出しなさい」
 温かい言葉を残し、去っていく近所の人達を、母と兄、そして久志の、家族三人で頭を下げながら、見送った。
「スッゲーな。何なの、今年は」
 久志は大きなスポーツバッグを担ぎ上げると、玄関の前でドアが開くのを待つ。
「15回もの延長戦を制して、優勝したからな。久志をテレビの前で応援しながら、近所中が大興奮だったんだよ。仕方ないさ」
 そういって笑いながら、克己が家のカギを開けた。
「去年もたくさんの人が、お祝いにいらしたのよ。久志は帰って来なかったから、知らないだろうけど」
 慣れているのか、落ち着き払って母はいい、開いたドアの前で、久志を先に通す。
「嬉しいことは、嬉しいんだけどさあ……」
 歯切れの悪い言葉を発しながら、靴を脱いで家に上がると、向かいの家に住む榊のおばさんが、ひょっこりと台所から顔を出した。
「まあまあ、おかえりなさい」
「今日は家の留守番を頼んでしまって、すみませんでした」
 母が丁寧に礼をいうと、榊は両手を振った。
「いえ、いえ。それより家の前が、すごいことになっていたでしょう」
「ホント、びっくりしちゃったわ。一体どうして、あんなことに?」
「今日、久志君が帰ってくるって、漁協で雪代ちゃんと今朝会った時に、聞いたもんだから。ついうっかり、水産加工場で口を滑らせちゃったのよ。そうしたら夜になって、何だかんだと近所の連中みんな、押しかけて来ちゃってね! 本当に申し訳なかったわ」
「それで、雪代は?」
 たまらず久志が聞くと、榊は横を向いて、首を傾げた。
「それがねえ。いつの間にか、姿が見えなくなっちゃって」
「オレ、雪代を捜してくる」
 母に告げて、久志はその場を離れると、真っ先に洗面所へ向かう。
(ぜってー、ココだろ!)
 中へ入り、奥にあるトイレのドアノブを回すと、カギがかかっていた。
「雪代! 出て来い!」
 かちゃりと音がして、ドアが開くと、便器へ寄りかかりながら久志を見上げ、ぐったりと床に座り込む雪代の姿があった。
「また気分が悪くなったか?」
 しょーがねえなあ、と彼女を抱え上げると、久志は急いでトイレを出て、自分の部屋へと向かう。
(うわっ、何だ、コレ)
ドアを開け、一瞬入るのをためらった。
(お袋のヤツ!)
 すっかり女の子の部屋と化している中へ足を踏み入れると、ベッドに雪代を横たえる。
 よくよく見回すと、カーテンとベッドカバーを変えただけらしかった。それでもどこかいい匂いがして、久志は落ち着かない。
「とにかく、寝てろ!」
 捨てぜりふのようにいい置いて、出ようとした所で、
「久志」
と、呼び止められた。
「お帰りなさい」
 ベッドの上で弱々しく彼女が笑顔を見せる。
「ただいま」
 久志もぎこちなく返事をすると、後ろ手にドアを閉めた。
 ――お帰りなさい。
 ――ただいま。
 たったそれだけのやり取りなのに、心臓の鼓動が速まって、息苦しくなる。久志は頭を左右に振ると、早足で部屋の前を離れた。