ジーニアス・レッド 第二十二話 勝利をこの手に

 ベンチの奥で、首にタオルをかけたまま、久志は呼吸を整えていた。試合は中断され、グラウンドには土が運び込まれている。
 隣にバッテリーを組んでいる長谷川が座り、二人は押し黙ったまま、甲子園の空を見上げた。遠くに薄く晴れ間が見え、どしゃ降りだった雨も、今は音もなしに地面を叩く程度となっている。
「花野井の牛丼が食いてえ」
 ぽつりと長谷川がいい、久志は首からタオルを引き抜くと、彼の頭に置いた。
「夏休みに入ったばっか、合宿2日目ぐらいだったかな。差し入れで持って来てくれただろ?」
 そういって長谷川は渡されたタオルで、乱暴に頭を拭く。
「オレさあ、食堂に遅く行ったから、4杯しか食えなかったんだよな」
 久志は何杯食った? と、濡れて重くなったタオルを渡される。
「覚えてねーなあ。でも10杯は食ってないと思う」
「優勝したら、また差し入れてくれっかな」
「店に行きゃ、タダでご馳走してくれるよ」
「ユニフォーム着てかなきゃ、だよな。あの店のオヤジ、全然オレ達の顔、覚えてねえもん」
 オマエは別だけど、とつけ足す長谷川へ、
「同じだよ。オレも前に制服で行ったら、気付いてもらえなかった」
と、前を向いたまま口の端をあげた。
「なあ、長谷川」
 ベンチの背もたれへ、受け取ったタオルを無造作に放ると、久志は長い息を吐いた。
「何だよ、久志」
「ありがとな。オマエと野球をやれて、よかった」
 久志がいった途端、長谷川はうつむき、笑い出した。
「何が、おかしいんだよ」
「だってさ、いきなりじゃねえか。久志がオレに、礼をいう? 信じらんねえよ!」
 前で柵に寄りかかり、グラウンドを眺めていた栗原と小池が、振り返った。
「オレも聞こえた! 久志のヤツ、ありがとうって、いったぞ」
「らしくねーぞ! おいっ」
 二人が声を張り上げ、スコアを見ながら話をしていた杉浦や戸辺、佐藤も、久志に顔を向け、目を見張る。
「みんなに礼をいわなくちゃな」
 そう久志が口にすると、5番を打つ角倉が音をたてて横に腰を下ろし、大きな声を出した。
「オレ達が点を入れっから! 礼なら、試合が終わってから、好きなだけいえよ!」
 ベンチ入りしている3年生全員が、久志のまわりに集まり、身を乗り出す。
「そうさ、あと一回!」
「遠慮すんなっ。インタビューの指名選手は、オマエで決まりだ!」
「かまわず、ノーヒットノーラン達成しちまえ! 東光一に負けはあり得ねえぞ!」
 次々と皆に励まされる中、久志は立ち上がろうとして、気が付くと床に膝をついていた。
「久志! 大丈夫かっ?」
 長谷川に肩を抱かれ、再びベンチに腰かけると、深呼吸をする。
 監督の小宮山が駆けつけ、「杉浦、体温計!」と叫んだ。
「顔が赤いな」
 うつむいたまま、肩で息をする久志に、杉浦から受け取った体温計を当てると、監督は考え込んだ。
「38度か……昨夜も倒れているし。連投に次ぐ連投で、疲れが出たんですね」
 野球部長の竹下が、体温計の数値を読み上げながら腕を組んで、難しい顔をする。
「久志をさげたら、許さねーぞ!」
 真っ先に小池が声をあげた。
「そうだ! ここまでヒット一本、打たれてねえんだ」
 栗原はそういい、ベンチ越しに久志をのぞきこむ。
「見ろよ、久志! 雨が降ったってのに、この観客! スゴくないか?」
「オレ達が夏の大会、2連覇すんの、見に来てんだよ!」
 スタンドを指差し、佐藤までもが、顔を真っ赤にして叫ぶ。同じ部屋で暮らし、共に甲子園を目指してきた仲間の呼びかけに、久志はうなずいた。
 グラウンドを注視していた杉浦が、「監督、審判が出てきました」と告げる。
 相手校である長坂商の選手達が、大きなかけ声と共にグラウンドへ散らばり、守備に付くと、ボールを回し始めた。球場に大きな拍手がわき起こる。
「試合再開か」
 小宮山は舌打ちし、ベンチの中を見回した。
「ふがいねえぞっ! おめえら!」
 いきなり選手達を怒鳴りつける。
「栗原っ! 必ず牧山をつぶせっ! 来る球全部、カットしろ! 少しでも長く、久志を休ませてやれっ!」
 はいっ! と、栗原は返事をし、かぶったヘルメットを手で押さえながら、バットを脇に、飛び出していく。
「家長もだっ。テメーは2年なんだ! 絶対に3年生を勝って、引退させるんだっ!」
 2番をつとめる家長も、直立不動で「はいっ!」と答えた。慌ただしくグローブをはめ、ヘルメットとバットを持つと、ネクストバッターズサークルへ走る。
「ほら。横になっていなよ」
 杉浦から渡されたタオルを額にのせ、天井を仰ぐと、久志は目を閉じながら、声を枯らして応援するベンチの様子に、耳を澄ます。
「戸辺はきっと、投げたいだろうな」
 久志が小さく口にすると、杉浦も、
「同じ控え投手でも、原田は2年だから次があるけど、戸辺は最後の夏だからな」
と、首を縦に振った。
「でも一生懸命、前で声を出してるよ。他の連中も皆、気持ちは同じさ」
 そっか、と久志はベンチの上に横たわる。
「普通なら交代すべきなのかもしれない。でも、うちは違うよ。あまりにも力の違い過ぎる、飛び抜けたピッチャーがひとり、いるんだからな」
 杉浦の賞賛を受け、久志の顔に、苦々しい笑みが浮かぶ。
「皮肉だな。そういうピッチャーが二人もいて、決勝で投げ合うなんてさ」
「長坂商の牧山は、評判通りだね。さすがの長谷川も攻めあぐねている感じだな。狙いが定まらないんだろうけど、うちの4番をあそこまで追い込むなんて、敵ながら、立派だと思う」
 杉浦が冷静な口調でいう。主将で、4番をつとめる長谷川は、今大会一回戦から最多本塁打記録となる、5本のホームランを放っていた。しかしこの試合、未だ決定打が出ていない。
「牧山は球種が多いからな」
 でも、と久志は薄くまぶたを開け、宙をにらみつけた。
「前の回、アイツの球も滑り始めてた」
「雨のせいかな」
「違う。疲れてるんだ。オレより投球数も多いしな」
「確かに。長坂商はヒットがゼロだけど、ウチは12も打ってるからな。その内の4本が、前の回の攻撃で出たヒットだけど、どれも得点に結びついていないのが、痛いよな」
「この回、絶対に点をとるさ」
 久志が断言し、杉浦も顔に笑みを浮かべる。
 直後に大きな歓声があがった。ベンチにも喜びの声が飛び交い、久志は杉浦にどうなっているのか、たずねた。
「栗原がファールで7球も粘った挙げ句、ライト前ヒットを打って一塁に出た」
 監督は確かにカットしろと指示したが、狙って簡単にできるものではない。ツーストライクに追い込まれたら、とにかく当てて、三振を避ける。それだけのことだ。普通は三振に打ち取られるか、ピッチャーがフォアボールを出すかの、どちらかだ。
(どんな試合でも、絶対に流れを引き寄せて、必ず決める時が来る)
 久志にはわかっている。ここから先が、甲子園を経験したことのある高校の、本領発揮となる場面に違いなかった。
 続いて打席に立った家長がきっちりと送りバントを決め、たちまちワンアウト、ランナー二塁となる。
 次の打者である3番の佐藤も、徹底的に外角を攻められたが、疲れを感じさせない鋭い打球を、ライトへ運んで、栗原を三塁へ送る。そうして自らも出塁すると、すかさず盗塁を決めた。
 ランナーが二塁と三塁に、二人も出たことで、甲子園が大歓声にわく。雨に降られ、疲れているはずの、東光一高側スタンドにいる応援団は、15回の今になっても、打者に大きな声援を送り続けていた。
「埋めてくるかな」
 杉浦がいい、久志は横になりながら、答える。
「埋める。ポッと出の公立高のクセに、長坂商は守備がうめーし、牧山はコントロールにまだまだ自信がある。押し出しのフォアボールを怖がったりしねえよ、アイツ」
 主砲の長谷川がバッターボックスに立つと、対戦相手である長坂商のピッチャー牧山は、大きく外す球を投げた。
「角倉は?」
 不意に久志がたずね、
「ネクストに入ってるけど。アイツに何か用?」
と、杉浦は首をかしげた。
「なあ、伝えてくんねーか。インハイストレートって」
「それだけ?」
「大丈夫。角倉なら、わかる」
 久志の元を離れ、杉浦は角倉と言葉を交わすと、すぐに戻ってきた。
「久志の読みなら、従うって」
 柔らかな口ぶりの杉浦へ向けて、久志は肩をすくめ、笑ってみせた。
 相手校のピッチャーである牧山は、結局フォアボールを出し、満塁策を取った。
 ――ようやく、ここまで来た。
 全国高校野球選手権大会、第15日目、東光一対長坂商の決勝戦は、両チーム無得点のまま、延長15回の表を迎えていた。ここで角倉が打って得点が入り、裏で長坂商の攻撃を久志が0点に抑えれば、東光一高の夏の連覇が決まる。
 巡ってきたチャンスを前に、久志の心は不思議と静かで、落ち着いていた。
 去年の夏、春の選抜、そして今年の夏。東光一高野球部は、この2年で3度も甲子園の土を踏み、今も大勢の人に囲まれた大舞台でプレーすることを、心から楽しんでいる。
 ――ハンパねえよ。マジでオレ達、野球バカだ。
 その先頭を行くのは間違いなく自分だよな、と久志が冷たいタオルの下で笑った時、怒号や悲鳴まで入り交じった、球場が揺れるほどの、すさまじい歓声があがる。
 球場で点が入ると流れる、馴染みの曲が吹奏楽によって演奏され、
「先制点だっ!」
「点が入った!」
と、部員達のうわずった声が、次々と耳に入る。
「三遊間をゴロで抜けた! 三塁の栗原が還った! ようやく長坂から点を取った!」
 杉浦までもが、興奮そのままに、叫んだ。
「カウントは?」
「フルカウントからだよ! 角倉のヤツ、見事なくらいボールを良く、見定めていやがった!」
 本当にインハイストレートが来たのか、と杉浦は驚きを隠さない。
「牧山はイイ投手だよ」久志はつぶやいた。
 力勝負に頼って、勝とうとしない。それが牧山の長所だった。140キロ台のストレートを持っているが、上手く変化球を交え、これまで打者を打ち取ってきている。
 ところが前の回から、疲れもあって変化球が曲がらなくなり、ヒットも増え、この回は盗塁まで決められた。そんな時は落ちついて、外角の、できるだけギリギリを突こうとするのが、投手心理だ。
 ところが制球眼に優れた角倉の方が、一枚上手だった。ストライクを二つ取られながらも、根気よくボール球には手を出さず、フルカウントへと持ち込んだ。
 久志にはわかっていた。
(疲れていても、ストレートで勝負するのであれば、牧山もきっと、自信があったはずだ)
 ここぞという時、内角の高め、インハイストレートに速球が決まれば、大抵のバッターは空振りする。
(そうやって取った三振は、スゲエ気持ちがイイよな)
 ピッチャーの真価が問われる場面、と以前に雪代が語っていた内容と似ていた。牧山の投球を見ながら、何となしに思いつき、角倉に「インハイストレート」と告げたのだ。
(わかるよ、牧山。オレも、ぜってーソコへほおるよ)
 でもな、と唇を噛みしめる。
(オレ達をナメんなよ。角倉はオレを相手に、ずっと練習してきたんだ。ハンパなスピードの内角球で抑えようなんて、ぜってー許さねえからな!)
 その後の6番田上、7番荻野が三振に倒れ、いよいよ長坂商の攻撃が始まろうとしている。
「久志先輩、スミマセン! 追加点、入れられませんでした!」
 戻ってきた二年生コンビの田上と荻野に謝られ、久志はベンチから起きあがった。帽子をかぶり、グラブを持った手で、二人の頭をはたく。
「ずっと手こずってる、牧山相手だぞ。おめえ等、そう簡単に打てるワケねーだろ」
 笑いながら、ベンチの階段を上がった。
「どうだ。久志」
 監督が腕を組んでグラウンドへ体を向けたまま、ちらりと横目に久志を見る。
「牧山、マジ凄いっすよ。打たれたあと、きっちり抑えましたからね。アイツ、冷静です」
 これ以上の延長になったら"オレは"勝てません、と久志は淡々といい切った。
「三振で締めくくりやがったからな」
 監督の小宮山は、帽子を取り、頭を掻いた。
「でも、オマエならさっきの角倉の打席、ピッチャーフライで打ち取っている」
「さすが、監督。その通りっすよ」
 手にしていた帽子で、小宮山が久志の尻を叩く。
「だったら、オラ! キッチリ、この回で終わりにしてこいっ」
「はいっ!」
 監督へ返事をすると、久志はグラウンドへ勢い良く飛び出した。
 途中、他のレギュラー達も、励ますように久志の体や頭に次々と手で触れ、
「日本一!」
「優勝!」
と、合い言葉のように叫んで、守備位置へと散っていく。
 マウンドで久志は両膝に手を置き、地面を見た。ベンチからの短い距離を走っただけで、息が切れる。
「ピッチャー!」
 球審から声がかかり、慌てて上体を起こした。球を受け取り、グラブをはめた腕のアンダーで、汗を拭う。
 足元をならし、キャッチャーの長谷川を見た。
「じっくり肩を慣らせ!」
 いつもと変わらない様子の長谷川に声をかけられ、久志も思わず笑顔になる。
 ピッチャーズプレートの泥を、やって来た球審が、払い終えると、投球練習が始まった。
(ヤベえ。オレ、めっちゃハイになってねえか?)
 久志はホームに向かって投げながら、ひどく体が軽く、球も走っていることに気付いた。
 ――投げ続けて、勝ち続けて、どうなるの?
 どこからか声がして、再び問いかけられる。
(オマエこそ、そんなに絵を描き続けて、どうなんのさ)
 目の前が白くけむるのに、意識だけは驚くほど冴え渡っている。
 ――絵が描けないと、死んじゃう。
 オレも一緒だ、と思った。全ての動作を、体はきちんと覚えていて、眼をつむっていても、キャッチャーミットめがけて、球を投げられる。久志にとってマウンドを退くことは、体の投げろ、投げろ、という要求に逆らうことだ。
(勝って会いに行くと、約束した)  だから見ていろ、雪代、と久志は歯を食いしばった。
(オレも、投げらんねーなら、死んだ方がマシだ)
 投球練習が終わり、片膝をついて、しゃがみ込むと、長谷川が2塁へ送球するのを見送る。
 ふと目の前に、とんぼが飛んでいるのを見つけた。芝の生える外野では、甲子園独特の浜風に乗って、フワフワと宙を舞うとんぼも、珍しくはないが、マウンドで見たのは初めてだ。
 つい捕まえてみたくなり、右手を出すと、とんぼは狙い澄ましたように、中指の先端へとまった。
 おおきな丸い、ふたつの目と、久志は見つめ合う。
(コイツ、雪代みてーだな)
 声を出さないで、笑った。雪代もこんな風に、大きな瞳でじっと自分を見つめる。
「久志ーっ!」
 長谷川に名前を呼ばれると、とんぼも指を離れ、空へと舞い上がってゆく。久志は立ち上がり、ホームに体を向けた。
「さんにーんっ!」
 右手を高々と挙げ、長谷川は3本の指をグラウンド全体へ向かい、示してみせた。
(3人で終わりってコトか)
 望むところだ、と久志はグローブに拳を当てる。
 球審から「プレイッ!」と宣告され、振りかぶった。
 ――今日の試合、勝って。
 遠くに雪代の声を聞きながら、久志は球を投げた。