ジーニアス・レッド 第二十一話 解け合う夏(2)

 窓ガラスをコツコツと叩く音がする。目を覚まし、雪代はベッドから起きあがった。
(雨が降ってきた?)
 床に足を付け、窓へ歩み寄ると、カーテンをそっと開ける。うっすらと街灯を映して輝く水滴が、次々とガラスを滑っていた。
(台所の窓……確か、開けっぱなしのまんま)
 ドアを開け、部屋を出た。暗い廊下を進み、途中で母の部屋のふすまが、開いているのに気付いた。そっと中をうかがうと、畳の上に敷かれた布団に、誰も寝ていない。
 雪代はふすめを閉め、台所へ行くと、電気を点けて、流しの上にある窓を閉めた。暗い居間をのぞき、時計を見る。台所から漏れる薄明かりに光る針が、午前3時を指していた。
 まぶたをこすりながら、冷蔵庫を開けると、棚からグラスを取り出し、麦茶を注ぎ入れる。テーブルからイスを引き出し、座った。
(あっちの天気、どうなんだろ)
 気になって、テーブルに放ったままだった新聞を引き寄せ、天気予報の欄に目をやった。大阪は雨のち曇りとなっている。
(降水確率70パーセント……)
 新聞をめくり、スポーツ面を開いた。久志がマウンド上でガッツポーズをする写真に、『東光一高エース仲田2試合連続完封 連覇へ向け決勝進出』と、大きく見出しがついている。
 テーブルに頬杖を突き、雪代は記事を読んだ。
 ――東光一の本格派右腕仲田は、一昨年一年生でただひとりベンチ入りし、夏の県大会に出場している。甲子園出場をかけた決勝戦で、先発した3年生エースが打ち込まれて仲田に交代、登板したが、2四球を出したうえ逆転打を許し、敗れている。その後も1年生エースとして秋季大会に出るが、惜しくもベスト4止まりで、選抜出場はならなかった。それが2年生になり春季大会は優勝、全国高校野球選手権で全国制覇、秋季大会も優勝と、めざましい活躍を見せつける。ケガで選抜と春季県大会は不出場だったものの、3年生になって春季関東大会、そして今大会は決勝まで進み、これまでのところ驚異の公式戦53連勝だ。
 新聞は久志について、そう伝え、決勝戦の見所に投手対決を挙げていた。相手校の投手は、甲子園において連続無失点を続けており、久志と同じく秋のドラフト目玉候補だという。
(無失点……)
 頬杖をやめ、雪代は手を伸ばすと、グラスに口をつけた。しんとした家の中に、雨音が響く。時折風が吹き、サッシをかたかたと鳴らした。
 麦茶を飲み干し、立ち上がると、グラスと新聞を片づけ、台所を出た。
 部屋に戻り、明かりを点けると、ベッドに腰かけて、ぼんやりとまわりを眺めた。母が雪代の為にと、カーテンとベッドカバーを花柄の可愛らしいものに変えた以外は、久志が使っていた当時のままだった。
 本棚にはぎっしりと野球やスポーツ理論についての本が並べられていて、かなり専門的なものまである。雑誌や漫画といったものは、一冊もなかった。
 机の中を見るのは遠慮しているが、机上には見る限り何もなく、写真一枚飾られていない。教科書やノートといったものは、久志が寮へ移る際、全て処分されていた。
 ――あんまり気持ちよく何でも捨てちゃうから、野球と心中でもするのかと思ったわ。
 久志の母が雪代にそう話し、笑っていたのを、思い出す。
 今では久志の兄が雪代にと買い与えてくれた、真新しいパソコンだけが、机の上にぽつんと置かれている。参考書や問題集ばかりで何もない、殺風景な自分の部屋に似ていると、初めてここに足を踏み入れた時から、雪代は思っていた。
 違うのは、何十冊にも及ぶアルバムが部屋の片隅に重ねられ、壁には二つの千羽鶴がかけられていた。千羽鶴には『神奈川に行ってもガンバレ!』、『目指せ! 甲子園』と、大きく書かれた紙が一緒に吊されていて、中学校の友人や、野球のチームメイトらしき人々の名前が書き連ねてある。久志は多くの人に好かれ、同時に期待されているのだと、嫌でもわかった。
 雪代はベッドの枕元に置いていた携帯を手にすると、今まで一度きりしか、電話をしたことがない、久志の番号を見た。時間は午前3時半をようやく回ったばかりだ。
 突然、携帯が鳴った。
「……はい」
 表示された名前も番号も確かめず、電話に出た。雪代は携帯を耳にあて、目を閉じる。
『雪代?』
 何も返事をしないでいると、怒ったような声が聞こえた。
『聞いてんのかよ』
「電話しようと、思ってた」
『こんな夜中に?』
「うん」
『信じらんねーな』
 返事のしようがなく、雪代は押し黙る。
『きのう試合の後、宿舎でぶっ倒れた』
 唐突に告げられ、両手で強く、携帯を握り締めた。
『お蔭で、こんな変な時間に起きてる』
 静まりかえった部屋に、心臓だけがどくどくと、雪代の耳にうるさく音を刻む。
「昨日の夜、お母さんから電話があった。ひと言もそんなこと、いわなかった」
 雪代が強い口調でいうと、
『オレがいうなって、いったんだよ。心配すんな。もう何ともねーから』
久志は電話の向こうで、苦々しく答える。
「久志」
『何?』
「今ね……公式戦、53連勝中なんだって」
『オレ? へえ、たったの53試合? そんなもんか』
「久志は……プロになるの?」
 いきなりだな、と彼は小さく笑った。
『今日の決勝。とりあえず今は、それしか考えてない』
 胸が苦しかった。ベッドへ横たわり、どうなるの? と声を絞り出す。
「そんなに投げ続けて、勝ち続けて……」
 オマエは? と逆にたずねられた。
『どうすんだ、この先』
 いつの間にか、雨はやんでいた。雪代はベッドを降り、窓から外を見る。
『この前……電話でいったよな。子供のまま、大人になるのをあきらめるのは、自分だけでいいって』
 まだ外は暗い。冷たい窓ガラスに額をつけた。
「あたしはいつか、破綻する」
 話す雪代の、唇に触れたガラスが、白く曇る。
「自分で命を絶つ時が来るって、小さい時から自覚してた」
 床へ座り込んだ。泣きたくないのに、次から次へと涙が流れ落ちる。
「でも、久志は違う。華やかなマウンドに、きちんと居場所がある。自分で球を懸命に追い続けて、つかみとった、確かな場所じゃない」
 お願い、あたしの世界に来ないで、といいたいのに、もう言葉が出ない。
 長い沈黙の末、こないだ、と彼が先に口を開いた。
『オレはムシャクシャして、朝まで電話に付き合わせた挙げ句、オマエにいっぱい心配かけたんだな』
 大丈夫だよ、と彼はいった。
『もう怖くない。親父のようにマウンドを去らなきゃいけない、いつかそんな時が来るのだとしても、オレは野球を続ける。甲子園での活躍なんか忘れ去られて、見向きもされない。そんな風になっても、やめない』
 雪代は濡れた頬を、慌てて指で拭った。
『オレを追いかけ回すのも、野球しかできないバカみたいにいうのも、いい加減やめてくれって、さんざん雪代相手に、キレまくった。親父のことを例に挙げて、甲子園のマウンドに立って、栄光の中で死んでやるとか、もう野球なんかやめてやるとか、好き放題大げさなコトも、いったしな』
 でも、と彼の口調に決意がにじむ。
『オレ、野球が好きだ。雪代がどうあっても、絵を描くのをやめらんないように』
 見えなくとも、久志が笑っているのがわかる。
「どうして……急に、そんな風に思う?」
『今日、オレは負けるかもしれない』
 驚き、雪代は携帯を反対の手に持ち替えると、耳を澄ませた。
『相手校のエースが、すげえ奴なんだ。変化球主体で、打たせて取るタイプなんだけど、本当に上手い。打線も大振りせずに、コツコツ当ててつなげてく、地味だけど確実に点を重ねる野球だ。速球頼みの力勝負じゃ、どうあっても抑え切れない』
 おまけに、と久志は不思議と明るい声だった。
『公立校なんだよ。受験して高校入ってるし、授業もきちんと受けてる。練習時間も、設備も、オレ達より全然少ないんだ。オレみたいに、よそ者が神奈川代表を背負ってるのとは、全く違う』
 うん、と素直にうなずいた。
『生まれ持った才能だけじゃ、絶対に勝てない相手だ』
「……うん」
『でも雪代のいう通り、マウンドはオレが自分でつかみとった、確かな場所なんだよな。どんなに打たれても、きっと、投げきってみせる』
 そしてプロへ進む――そういい切る彼の、揺るぎない未来が、二人には見える。
「うん」
『雪代、一緒に、大人になろう』
と、久志は力強く告げた。
『オレがずっと、雪代を守るから』
 右手の中指に巻いた包帯を、雪代は見つめる。
「知ってる? 久志は人一倍繊細で、傷つきやすい」
『誰が聞いても信じねーよ、そんなの。神経図太くなきゃ、甲子園のマウンドになんて、立てねえからな』
「あたしは、知ってる。だからあたしも、そんな久志を守ってみせる」
 誰にも知られることなく、長い間自分の胸の中にだけ、ためこんできた苦悩に、久志だけは気づいてくれた。小さな、小さな、真っ黒な闇に包まれた世界で、ずっと描き続けていた自画像そのままに、自分の運命を笑うだけの生き方は間違っていると、教えてくれた。
 ――久志と一緒に、あたしも大人になる。
 顔を上げ、雪代は笑った。
『やっぱさ、電話して良かった』
と、彼の優しい声が届く。
「ごめん。今まで、何も連絡しないで」
『電話しづらかったのは、オレも同じ』
「どうして?」
 好奇心半分に、雪代が聞く。
『半分眠ってたからな、あん時』
「あの時って……この間の電話のこと?』
「オレ、他にも変なコトいった気がする』
 思いつくまま、雪代は頭に浮かんだことをいってみる。
「寮で同じ部屋の人から、彼女を作れって、いわれた話?」
『オマエさあ、だったら作ればいいなんて、テキトーいいやがって』
 途端に久志がへそを曲げ、雪代もいい返す。
「あたしと久志は、過去に学校で噂になった」
『あー、まあ、そうかな』
「寮で同じ部屋の人、どうして久志とあたしが付き合ってるって、思わないのかな」
『へえ。雪代はオレと付き合ってるつもりだった?』
 意地悪くいわれ、今度は雪代がムッとする。
「関東大会のあと、病院にまで来てる」
 バッカだなー! と、久志は笑いながらも、雪代を責める。
『四六時中、小池や栗原達とは一緒にいるんだぜ? 女っ気がないのなんて、嫌でもバレちまうよ。オマエ、わかってんの? まったく電話も寄こさない、メールも寄こさない、会いもしない。ソレでカノジョって、いえるのかよ』
「だって……なに話したらいいか、わからない」
 それがオレに電話してこない理由かっ? と耳の痛くなるような、大声でいわれた。
「今も、正直こまってる」
『えーとだな、例えば今だったら……』
 少し間を置いて、久志は思いついたようにいった。
『今日の試合、絶対勝ってね! 応援してるわ! とか……』
「今日の試合、絶対勝ってね。応援してるわ」
『まるっきり真似すんのやめろよー』
 甲子園出場校屈指の豪腕投手に、こうも悲痛な声をあげさせるのは、自分ひとりなのだと思うと、雪代は嬉しくなる。
『そーいや、関東大会で思い出した』
「何を?」
『東光一高野球部、被害生徒を力づける優勝報告、なーんて、新聞で紹介されちゃったんだよな』
「な、なに、それ」
 思わぬ反撃に遭い、呆然とした。
『同じ学校の生徒が刺されて、大変なのに、野球部として、コレをほっといていいのか、病院へ見舞ってやるべきだって、オレが説得したら、すげー素直に監督が納得しちゃってさ。変だなーと思ってたら、ちゃっかり新聞社にリークしてやがった。大人って、汚ねーよな』
「……大人も、大変だね」
『事件がきっかけで校長は辞めちゃうし、学校は暗い雰囲気だったしさ。そんな時に野球部が関東大会で優勝しただろ? 学校にとっては、何よりも明るい話題で、助かっただろうし、 オマケにそんな美談まで、新聞に載っちゃったら、大喜びだよな。監督も上手いコト、学校に恩を売ったなって、つくづく感心するよ』
 知らなかった? 久志の問いかけに、電話だということも忘れ、無言でうなずく。
『インターネットとか見るクセに、そういうのに無関心なあたりが、オマエらしいよ。雪代が刺された、例の事件。どんな風に報道されたかも、わかってないだろ』
 人づてに聞く以外は、ニュースも、雑誌も、見ようとしなかったし、調べようと思ったこともない。
『聞きたい?』
 聞きたい、と雪代は体を固くした。
『よし。嫌だったら、そういえ。そこで話を止めるから』
「わかった」
『オマエが刺された時、まわりにはマスコミが大勢いた。けれども映像はテレビで流されなかった。当然だな、すっげーグロいから。でも、一部の雑誌では、載せたトコもある』
「うん」
『雪代は、17歳の私立高校女子生徒とだけ、報道された。けれどもオマエの不運なところは、前の日の新聞に、バッチリ名前が載ってたトコ。学校で世界的な数学者と会っていて、刺されたとなれば、当然その子だと、フツーは想像がつく』
 もっとも新聞にのらなきゃ、こんな事件に巻き込まれることもなかったんだけどな、と残念そうに久志はいった。
『もっとタチが悪いのが、松山の自供。その女生徒を今だに好きだし、お互い同意のうえで付き合っていた、そういったらしい。それなのに、自分だけが学校を解雇された、だから雪代を殺してやろうと思った。それが刺した理由だってさ。で、警察の発表は、暴行と殺人未遂の容疑。コレで大体察しがつくよな。雪代と犯人の松山が、そういう関係だったって』
 ベッドへ寄りかかり、雪代は天井を見つめた。こうして久志から説明されると、過激で、いかにもワイドショー向けな話題に思える。まるで他人事のようだった。
『オレがひっかかったのは、松山が雪代と付き合ってたって、いったトコ。それから雪代がオレを、松山とセックスした場所へ、連れ込んだこと』
 男達に足を開いたところで何とも思わないし、人から無視されて、そこにいない人間のように扱われても、傷付かない。自分はそんな人間なのだと、雪代は、いってしまいたくなる。
「宿直室のこと、どうして?」
『佐々木さんから、聞いた』
「そういえば、お兄ちゃんと佐々木さん、一緒に寝てる」
『は?』
 気の抜けたような、反応だった。
『オマエ、見たのか?』
「見てない。でも、わかる」
 久志は何も答えない。雪代も沈黙を貫く。
『アニキと佐々木さん、付き合ってんの?』
 ようやく口を開いた久志へ、
「付き合ってなくても、好き合ってなくても、セックスはできる」
と、雪代はいった。
「そんなあたしを、嫌いになって欲しかった」
『それが、オマエの答えなのか』
 ベッドを離れ、カーテンを開けると、徐々に白ばむ薄い雲の間から、太陽の光が見える。雨は完全に上がっていた。
「天気予報、はずれたみたい」
『ソッチとコッチじゃ、違うからな』
「こっちは晴れ」
『コッチは雨』
「久志」
『何だ』
 雪代は固く、まぶたを閉じる。
「わたしはそれでも、あなたが好きです」
 そういって目を見開き、窓に手を置くと、空を見上がるが、視界が霞んで、ぼやけてしまう。
「今日の試合、勝って」
『雪代』
「なに?」
『オレも、そんな君が好きです』
 待ってろ、と告げられた。
『必ず勝って、会いに行く』
 電話は、そこで切れた。雪代は中指の包帯をほどくと、天に向かって手の平をかざす。
 ――あたしには、赤く、温かい血が、この体に流れている。
 まだ生きているのだ、と思った。