ジーニアス・レッド 第二十話 解け合う夏(1)

 長い筆の先が、ゆっくりとキャンバスの上を滑る。塗っているのはカドミウムレッドで、雪代は立ち上がると、少し離れて色の具合を確かめた。
 庭の一角にある、この古い小屋で、彼女は一日のほとんどを過ごす。使われなくなった電気器具や家具などと一緒に、久志のために買いそろえられた、トレーニング器具やボール、バットなどが、薄く埃をかぶったまま、無造作に置かれていた。
 薄い板張りの壁にある窓は小さく、夏のこの時期は、中にいるだけで息が詰まるほどに暑い。薄暗いこの部屋で、床に絵の道具を並べ、重ねたビールケースをイーゼル代わりに、床へすわりこんで、雪代は絵を描き続けていた。
 着ているツナギの袖を腰に巻き、黒いタンクトップを汗まみれにしながら、描きかけの絵を眺める背後で、ドアがギイと音をたてて開き、「雪代」と名前を呼ばれた。
「うわ、あっついな、ここは」
と、克己が手の平で顔をあおぎながら、中に入って来た。
「熱中症になるぞ、こんなところで絵を描いてると」
 早くも汗がにじむのか、彼は手の甲で額を拭った。
「大丈夫」
 雪代は絵を立てかけているビールケースの横を指差す。水筒が3本あって、いつでも水分が取れるようになっていた。
「それにしたって、よくまあ、こんなところに一日中、いられるな」
 呆れたように克己がいい、手招きをする。
「佐々木さんが来たぞ」
 うなずくと、雪代は絵筆を置いた。素早くツナギを脱いで、ショートパンツ姿になる。白く、細い足がのぞく、彼女の女の子らしい格好を見て、克己はまぶしそうに目を細めると、外へ出た。
 空になった水筒を持ち、雪代も克己に続いて小屋を出ると、手早く庭の水道で手と顔を洗う。タオルで水を拭いながら空を仰ぐと、日差しが強く、吹き付ける浜風も熱い。
 ――甲子園は、もっと暑いんだろうか。
 視線を地面に戻すと、雪代は慣れた足取りで、芝生が青々と茂る庭を横切り、母屋へ向かった。
 潮が吹き付ける窓ガラスは白く、あちこちにサビが目立つ。古くて使い勝手があまり良くないと、母はしょちゅう、グチをこぼしていたが、大きく、立派な日本家屋だった。
 雪代がこの家に暮らし始めて、もう3ヶ月になろうとしている。まるでここで育ったかのように、久志の母と毎日を過ごし、病院で働く彼女の代わりに、家事までこなすようになっていた。
 勝手口から上がり、居間をのぞく。
「三浦さん!」
 畳の上でテーブルを挟み、母と向かい合っていた佐々木が、嬉しそうに声をかけてきた。
 水筒とタオルを片づけ、台所からぺこりと頭を下げる雪代を指差し、
「佐々木さん、ここでは名前で呼んでね」
と、すかさず母がいった。
「お母さん、冷蔵庫にスイカある」
「そういえば雪代が今朝、買ってきたんだっけね」
 テーブルに両手を突いて、立ち上がる母と入れ違いに、雪代は居間へ入る。
「麦茶、ちゃんと氷入れないと」佐々木の前に置かれたグラスに手を伸ばした。
「三浦……じゃない、雪代ちゃん、でいいのかしら。何だか本当に、この家の娘さんみたい」
と、佐々木は驚いたように、何度も瞬きをする。
「母さんってば、雪代を俺と久志の妹だって、いい張ってるんだよ。死んだ父の隠し子だって、誰かれかまわず紹介するから、近所中の噂になっちゃってね」
 久志の父は、彼が生まれてすぐに亡くなっている。妹などいるはずもないのに、あっけらかんとしていて、裏表のない性格の母がいうと、不思議な説得力があった。
 お蔭で雪代は、病気療養中の15歳ということになっている。買い物に出かけると、近所の人からは「雪代ちゃん」と気軽に声をかけられ、年下ではあるが、道で会えば立ち話をする、中学生の顔見知りもできた。3軒となりに住む、久志の後輩だという淳という少年からは、告白までされた。
「なあ、雪代もいい迷惑だよな」克己にいわれ、
「ううん。近所の人みんなに、克己君と久志君にそっくりだって、いわれるよ」
と、雪代はさらりと告げた。
 佐々木が吹き出し、克己も苦笑いをしながら、「雪代、ビール」と、いう。
「お兄ちゃん、泊まってくの?」
 いったんグラスを下げに、台所へ向かいながら、雪代はたずねた。
「今日から一応4日間、泊まるつもりだけど」
「明日、準々決勝でしょう? 勝ったら、あさっては準決勝、しあさっては決勝! その間の留守番を頼んだのよ」
 台所で母が声を張り上げる。
「今夜大阪に発つけど、勝ち進むにつれて、何かと家の方にも人が来るから。応対は全部、お兄ちゃんに任せるのよ、雪代」
「わかった」
 グラスを持って雪代も台所へ入ると、冷蔵庫を開ける。中味を新しい麦茶に入れ替え、氷を入れると、ビールも手にし、居間へ戻ろうとしたところで、雪代は母から呼び止められた。
「佐々木さんも家に泊まるから。お母さんの部屋に、お布団用意してあげてね」
「お兄ちゃん、佐々木さんと付き合ってるの?」
 驚き、小声で聞くと、母はスイカを皿に並べながら、あっさり首を縦に振る。
「二人そろって、同じ日に夏休みをとるっていうのは、そういうことでしょ」
 新しい麦茶とスイカがテーブルに出されると、恐縮したように佐々木は頭を下げた。
「家には雪代と克己しかいませんけど、どうぞ、ゆっくりしていって下さいね。何泊しても、かまわないから」
「あ、私は外に泊まります」
「気にするなよ。せっかくこっちへ遊びに来たんだから」
 焦って両手を振る佐々木へ、雪代から手渡されたビールを開けながら克己がいうと、
「そうよ、気にせずウチに泊まりなさい」持ち前のおおらかさそのままに、母は笑った。
「ウチへは車で来たんだよな。迷わず、すぐ見つかった?」
 克己へうなずいてみせ、佐々木は満面の笑顔になった。
「緑色の高いネットが張りめぐらされた家って、説明通り! すぐ見つかっちゃった」
「ウチは投光器まであるんだ。全部、久志の秘密特訓用」
 そういって笑いながらビールを傾ける克己の横で、佐々木が部屋を見回す。
「甲子園に出るくらいの選手って、やっぱりすごいのね」
 トロフィーや盾、賞状、そして立派な写真パネルが、居間の壁いっぱいに飾られていた。久志が受け取ってきたもので、全国選抜、全米選手権、最優秀投手といった、華やかな文字ばかりが目立つ。リトル、シニアといった小学生、中学生時代、もしくは東光一高に入学してから、彼の築いてきた輝かしい野球戦績が、一目瞭然だ。
「俺は野球なんて長続きしなかったけど、久志はキチガイみたいに練習ばっかりしてたからね」
 感慨深げに克己がいい、母も盛んに首を縦に振る。
「ここから自転車で1時間半もかかるリトルのチームに入ってね。全国大会で優勝したり、全日本選抜のメンバーになって、海外へ遠征したり。とにかく一年中、野球漬けなのよ。高校に入る時も、アッチコッチの学校から声がかかってね。結局、シニアの監督だった人が、東光一高を勧めてくれたのよ。入学したら、すぐレギュラーになれるからって。もう、久志がその気になっちゃってね」
「そう、そう。神奈川は学校数が多いから、甲子園をめざすのは大変だって、色んな人からいわれたんだけど。久志のヤツ、とにかくたくさん試合で投げたいから、なんていっちゃってさ」
 雪代は縁側でスイカを食べながら、柱に寄りかかり、居間の様子を眺めた。久志のこととなると、この家は、一日中でも話題は尽きない。
「東光一高は東大合格生も多い、名門進学校でしょ? 正直、久志には肩の荷が重いかとおもったんだけど、監督の小宮山先生が特に熱心で……上手く口説き落とされたわ」
「お蔭で久志は、勉強もせずに東光一高に入れたけど、文武両道といったって、スポーツ特待生は全く別なんだよ。アイツが入って、ようく分かった」
 克己が、そして佐々木も、チラリと雪代を見た。久志と違い、まさに東大合格を目指す、東光一高生の筆頭だからだろう。
「甲子園で投げる久志を、死んだお父さんに見せてあげたかったわ」
 母は居間の奥にある仏間へ顔を向けると、遠くを見る目になった。
「お父さんて……」
 遠慮がちに佐々木がたずね、克己と母の二人が交互に説明する。
「久志が生まれてすぐ、俺が5歳の時に死んだんだ」
「交通事故だったのよ。東京で練習の帰り、車に跳ねられて……だから克己と久志を連れて、東京からここに移ってきたの」
「この家は母さんの実家なんだ。祖父も祖母もいたけど、もう何年も前に死んじゃってね」
「克己と久志の父親はね、プロ野球選手だったのよ。甲子園には行けなかったんだけど、大学野球からプロ入りして……久志と同じ、投手だったの。1軍と2軍を行ったり来たりで、成功したとはいえないけどね。亡くなった時はもう、選手登録も抹消されて、球団職員の契約でバッティングピッチャーだったし」
「久志君は、お父さんの血を受け継いだんですね」
 佐々木がしんみりし、母は破顔一笑、大きな声を出した。
「顔はね! あの男前は、父親譲りよ!」
 克己も、佐々木も、うなずき笑ったが、雪代はかたわらの皿に食べかけのスイカを置き、縁側で膝を抱える。
 久志は父親が、事故で死んだとは思っていなかった。
 人がほとんどいない夜中に、自宅へ向かうのとは正反対の場所で、数多くの自動車が行き交う国道を久志の父は横切ろうとして、車に跳ねられた。新聞やテレビは、甲子園で活躍した選手の父親だから、という理由だけで、母親が久志に伝えるようとしなかった、その過去を暴き立て、無責任にも報じたのだ。
(自殺……だったんだろうか)
 雪代にも、真実のほどは、わからない。しかし久志がそう疑い、思い悩んでいることに、家族はまだ、気付いていなかった。
「でも実力は違うわ。久志はね、自分で自分のことを天才、っていってるの。まわりも、その通りだと思っているし」
 うっとりと母がいい、雪代は縁側で静かに同じ言葉を、口の中で繰り返した。
 ――天才。
 久志がそう口にする時、彼は一生懸命、自分にいい聞かせているのだ。
 ――プロの世界から見捨てられ、黙々とバッティングピッチャーを務めた父が、マウンドを去って、命を絶った理由が、オレにはわかる。
 もう一ヶ月も前に朝まで彼と電話で話をし、知った、久志の苦悩が、雪代の胸によみがえる。
 知らず知らずのうちに、両手を強く握り締める雪代の様子に、誰も気付くはずもなく、克己はテーブルにビールの缶を置くと、つくづく感心するような声になった。
「母さんの親バカは抜きにして、それでも出来すぎだよ、久志の奴。予選で完全試合にノーヒットノーラン、奪三振記録と、とにかく凄かったらしいな」
「7試合全部、一人で投げたって、話題になってますよね」
 佐々木は麦茶で喉を潤すと、みんなに笑顔をふりまく。雪代も慌てて、不器用に口元を歪ませた。
「甲子園でも今のところ、3回戦まで、全て先発完投してるし」
「神奈川大会、完全試合1、ノーヒットノーラン2、被安打数27、奪三振78、失点4。甲子園3回戦まで被安打数12、奪三振27、失点4」
 雪代がそらんじると、体をひねって縁側に顔を向けた母が、
「さすが雪代ねえ」と笑った。
 数字は正直で、彼の非凡さをきちんと証明している。雪代にとって、一番理解しやすい、野球の姿だ。
「久志はね、投げるのが大好きなの。明日の準々決勝も、きっと先発よ!」
 今日の夜に家を発ち、明朝から甲子園入りする予定の母は、早くも興奮した口調になっていた。
「雪代ちゃんは応援には行かないの?」
 足を崩し、くつろいだ様子の佐々木から、不意にたずねられ、雪代は戸惑った。
「雪代は甲子園へ行くどころか、テレビの中継も、ニュースの結果も、全く見ない。翌日の新聞を流し見してるだけだよ」
 克己が再びビールに手を伸ばし、何でもないように、いう。
「母さんは神奈川大会の準々決勝から、かかさず球場へ応援に行っているけどね」
「なのにアノ子ったら、連絡ひとつ寄こさないんだから! 神奈川大会の第一戦が終わったあと、マネージャーの杉浦君が電話をかけてきたきりよ。神奈川へわざわざ応援に行った試合のあとだって、まるで知らんぷりされちゃって、他のお母さん達から、息子なんてそんなものよなんて、なぐさめられちゃったわ!」
 とにかく心配だから、甲子園に行ったら宿舎へ寄ってみる、と母は憤慨した口ぶりでいう。
「やめとけ。久志だって、もう18になるんだから。そう、いつまでも母親につきまとわれちゃ、嫌にもなるさ」
「そういえば8月30日は久志の誕生日なのよ。去年は甲子園が終わっても、結局帰ってきたのは、年末だったでしょ? 祝う間もなくて、残念だったわあ。今年も決勝が終わったら、優勝報告会や、祝賀会で、帰る暇なんて、きっとないだろうし」
 本気で考え込む母へ、
「気が早いなあ、まだベスト8だよ」
と克己がいい、居間は笑いに包まれた。
 雪代は皿を持って立ち上がると台所へ入り、食べたスイカを片づける。少し吐き気がして、にぎやかな家族の声を聞きながら、流しの下でしゃがみこんだ。
「雪代、大丈夫か?」
 遅れて台所へやって来た兄が気付き、後ろから心配そうに雪代をのぞきこむ。
「どうしたの?」
 母の姿も目に入り、雪代は胸を押さえながら立ち上がった。
「大丈夫」
 心配ない、と右手を挙げた途端、
「大変! 包帯が真っ赤よ!」母があまりにも大声を上げたせいだろう。居間から佐々木までもが顔をみせる。
「お母さん、違う。これ、絵の具」
 固く握った右手を、雪代は左手で隠すように、覆った。
「この中指に巻いてる包帯、雪代の願掛けなんだって」  母親と佐々木の顔を交互に見ながら、克己は雪代の手を指差す。
「東光一高が甲子園で優勝するまで、外さないんだよな」
 克己に優しく声をかけられ、うなだれたまま、うなずく雪代の肩へ、母がそっと手を触れた。
「わかった。あと3日の我慢だから。もう少し、待っていてね」
「あたし……」
 言葉を失った雪代へ、母は優しく微笑みかける。
「2学期からのことも、考えているから。心配しないで」
 違う、と雪代はいいたかったが、無表情に立ち尽くしていた。
「佐々木も、ビール飲む?」
 克己が聞き、佐々木はハッとしたように、首を横に振る。
「私は麦茶でいいです」
「遠慮しなくていいのよ」
 母は佐々木にいい、雪代へ振り返った。
「今度、ちゃんと病院へ行きましょうね。あんまり吐き気が頻繁なのは、良くないわ」
 昼間っから飲み過ぎないで、と母は忙しく兄へ注意し、棚から菓子を取り出すと、居間へと運ぶ。
「ちぇ。うるさいなあ」
「お母さんて、そういうものよ」
 克己と佐々木も和やかに言葉を交わしながら、台所を出て行き、雪代は長い息を吐いた。
 勝手口を降り、靴を履いて小屋へ戻る。中に入って扉を閉めると、右手の中指に巻いた包帯をほどいた。
 絵の道具の中からカッターをとりだし、浅い傷をなぞるように、刃を当てる。思ったより深く切ってしまったらしく、中指の先でキャンバスに触れると、あっという間に血が、塗り重ねた絵の具にそって、幾重にも滑り落ちた。
 描きかけの真っ赤な蝉が、血に透けて見え、輝きを増す。それはまるで、生きたまま燃えているように見えた。
 ――そして燃え尽きて、あとに何が残る?
 絵筆を取ると、再び色をのせる。絵の具と混ざり合い、雪代の赤は、すぐに姿を消した。