ジーニアス・レッド 第十九話 久志の苦悩(2)

 学校の教職員や生徒、後援会、父母会など、さまざまな人達が校門に立ち、拍手で野球部を出迎える。
 久志が帽子を取って軽く頭を下げると、ひときわ大きな拍手が起きた。再び帽子をかぶり、久志は人垣の間をぬって、早足にグラウンドへと向かう。
 試合後にするはずの反省会は開かれず、普段通りの練習が行われ、最後に監督から今日の試合に対するねぎらいの言葉が、部員全員にかけられた。
 部長から次の試合に関する短い説明を受けると、円陣を組み、声を出して、普段よりも少し早めに練習は切り上げられる。あとは夕食の後に、自主練習があるのみだった。
「さすがに今日の試合は、監督も一切おとがめなしか」
「相手が弱すぎたよ」
「ウチのエースを打てるチームなんて、4回戦までは見当たらないな」
「5回戦からは、他のシード校と対戦する可能性があんだよな。それでも今年は負ける気がしねーよ」
「それにしても、まだあと6試合もあるのかあ」
「神奈川は学校が多すぎるよ」
 そういって、わいわい騒ぎながら歩く部員達と少し離れ、久志は無言のうちに寮へ向かう。2階の端にある、4人部屋へ入ると、同室の仲間達と一緒に、荷物を片づけた。
「洗濯もん、コレで全部?」
 佐藤が汚れたユニフォームや下着まで入ったカゴを持ち、みんなに声をかける。
「多分、それで全部」
 栗原が携帯を見ながら返事をし、
「なら、下、持ってくぞ」
と、佐藤はいった。
 頼むー、と部屋を出て行く彼に、全員で手を振る。
 久志はトランクス一枚の姿で、机からイスを引き出すと、そこに座って熱心にグラブを磨いた。
「久志ー。今日はクーラー入れてっから、肩を冷やすなよ」
 床にねそべって、ベイスターズのファンブックを眺めながら、小池がいった。
 久志と違い、神奈川県内の中学校を出た小池は、地元チームであるベイスターズの大ファンだ。夏の大会が終わったら、プロ野球志望届を出して、ベイスターズのスカウトと真っ先に会うのだと、広言して、はばからない。実際に小池は強肩の外野手として注目されているし、ドラフトで指名されてもおかしくなかった。
 久志も高野連にプロ野球志望届を提出するつもりだ。静岡から近いという理由だけで、ドラゴンズがいいと無責任な母はいい、現実的な兄はジャイアンツを勧める。久志は自分への注目が、いかに高いか、自覚している。希望の球団については、普段から固く口を閉ざし、一切コメントしないよう、用心していた。
 グラブを置いて、東光一高野球部のロゴが入った黒いTシャツと、揃いのハーフパンツを着込むと、2段ベッドの下で変わらず携帯を見ている栗原に、久志は声をかけた。
「カズミちゃんからメール?」
 栗原は顔を上げ、
「そうだよ」
と、笑った。
「カズミちゃんもオマエも、よくまあ飽きずに、そうしょっちゅう、メールをやってるよなあ」
「うるせーよ。小池だって毎晩、寮の外でカノジョと、携帯で1時間以上も話してるじゃん」
「オレはね、直接話す派なの」
 小池と栗原がふざけあい、久志も思い立ったように、口を開いた。
「栗原も、小池もさ、カノジョと何をメールしたり、話したりしてんの?」
 二人とも意外そうな顔をして、久志を見る。
「ん? まあ、一日にあったこととか……」
 栗原が携帯を閉じ、照れくさそうに答えた。
「今日だったら?」
「やっぱ、試合に勝ったよ、とか。まあ、部活の話が多いかな? あと勉強とか、テストとか、学校のことだよ」
 ふうん、と久志はイスに腰かけ、頭の後ろで腕を組んだ。
「ちなみにカズミちゃん、どんな返事を寄こす?」
 小池も会話に加わり、「ええ、カズミ?」と栗原は考え込む。
「フツーだよ。まだ夏の大会が始まったばっかだしさあ、次もガンバレとか。そんなん」
「栗原とカズミちゃんは、もう長いよな」
 4月に入学した新入生と付き合い始めたばかりの小池は、どこか羨ましそうだった。
「1年になるよ。付き合い出してから」
 あのさ、と久志はイスの上で身を乗り出し、
「野球やんのに、ジャマだったりしねーの?」
と、首をかしげた。
 え? と栗原は、久志の顔をまじまじと見つめる。
 床に寝ていた小池が体を起こし、
「久志。オマエ、バッカじゃねーの」
と、開口一番、いった。
「高校生だぜ、オレ達。女の子と付き合うなんて、珍しくも何ともねーだろ」
 なあ、と小池から同意を求められ、栗原も困った顔をする。
「珍しく恋愛話に加わって来たかと思ったら、ソレかよ! これだから野球バカは手に負えねーよな」
 小池は見下すような態度で、久志へいい放った。
「まあ、カズミのことが原因で、野球やめようと思ったことも、あっかな」
 栗原がいい、
「ええっ、マジ?」
と小池は叫んだ。
「一瞬な。例えば、アイツに生理が来なかった時とか」
「そんなコト、あったのか?」
 小池がたずね、久志は表情を硬くすると、身構えた。
「ああ、1ヶ月ぐらい前かなあ」
「マズイよ、ソレ。きちんとゴムつけてっか?」
「着けてた。それに、結局は生理来たし」
 小池も栗原も、平然と話を続ける。そうして二人は、久志に目をやると、いきなり笑い出した。
「顔が真っ赤だぞ。久志」
「ホントだ。オマエ、マジで下ネタ苦手なのな」
「苦手なんじゃねーよ、小池。久志はまだ知らねーだけなんだから、からかうなよ」
「久志もさあ、すげー女子に人気あんだから、その気になりゃ、いつでも簡単にカノジョなんて出来るよ」
 うつむき、上目遣いに二人をにらみつける久志へ、栗原は苦笑してみせた。
「まあ、簡単とはいわねーけど。あんま堅苦しいこと考えんの、やめな」
「そーだ、そーだ。女の子はいいよー。色々、めんどクセーけど」
「うん。何でも話せて、ホッとするよな」
 和気あいあいと語る二人を置いて、久志は部屋を出た。
「おい、久志! もうメシだぞ!」
 自室へ戻る途中の佐藤に、階段で声をかけられたが、そのままグラウンドへ向かう。
 外に出て足と手を伸ばし、体を曲げ、念入りにストレッチを済ますと、ひたすら走った。蒸し暑く、風もない。走っていると、、あっという間に汗が噴き出した。
 自主トレをしに、グラウンドへ出てきた何人かが、久志に声をかけてきたが、何も答えず、延々と走り続けた。走っているうちに、頭が真っ白になる。そして疲れ切ったら、寝てしまえばいい。一年に何度かは、必ず経験してきたことだ。
 誰もが練習を切り上げ、人っ子一人いなくなった頃、ようやく久志は走るのをやめた。荒い呼吸を繰り返しながら、顔の汗を、乱暴に腕で拭う。
 くたくたで、何も考えられず、疲れた体をひきずるように、寮へと戻った。食堂へ行くと、なぜかドンブリにご飯が山盛りになっていて、鍋に「久志くーん、あたしをあっためて」と、ご丁寧にハートマークまでついた張り紙が、してあった。
(そーいや、カレーって、誰かいってたっけ)
 厨房でご飯とカレーを温め、ひとりで食事を済ませると、食堂のテーブルに突っ伏した。
(プロテイン、摂ってないよな。あと風呂だろう。ストレッチだって……)
 やらなければならないことを、指折り数えながら、そのまま寝てしまった。
「おい! 久志、起きろよ!」
 気が付くと、寮の管理人でもある、コーチの田中に、体を揺すられていた。
「こんな所で、寝るな!」
「今……何時?」
 もう夜中の1時だよ、と田中は怒って、いった。
「オマエが遅くまで一人で走るのには慣れてるけど、やっぱり心配するだろ。部屋に戻ってないと聞いて、探しに来てみれば……」
 さっさと部屋へ戻れ、と背中を叩かれる。
「そういえば、お前の携帯が鳴ってるって、佐藤がいってたぞ。栗原も、小池も眠れねえって、文句いってた」
 あー、と生返事をして立ち上がり、部屋に向かう。
「久志」と、田中に呼び止められた。
「ナイスピッチングだったよ。手抜きしないで、キチッと5回を投げ抜いた。完全試合は、相手がヘボなんじゃなく、お前が頑張って、やり遂げたことなんだ。監督も、他の連中も、みんな認めてることだ」
 久志はうなずいた。
「オレは天才っすよ。野球をやらせたら」
「その通りだな」
 今度は田中がうなずき、二人は別々の部屋へと戻って行った。ドアを開け、中に入ると、誰もが静かに、ベッドで寝息をたてている。
 携帯を持ち、久志は寮の外へ出た。着信履歴を見ると、10時、11時、12時と、綺麗に一時間ずつ、同じ番号が並んでいる。
(誰だろ)
 知らない番号だったが、試しにかけてみた。3回呼び出し音が鳴ったあと、
『久志?』
と、小さな声がした。
「雪代っ?」
 驚いて、思わず声がうわずった。
「オレ、番号教えてないよな」
『お兄ちゃんに、聞いた』
「アニキに?」
『うん』
 夜中なのに、突然セミの鳴き声がした。近くの高い木を見上げ、声の主を探しながら、電話をする。
「こんな遅くまで起きてて、体大丈夫か?」
『うん。今日、お母さんの病院で、抜糸した』
「そっか。良かったな」
 久志は地べたに腰かけた。大きなあくびが出る。
『今、トーマス博士と話してた』
「誰だ、ソレ」
『前、学校に来てくれた、数学の先生』
 雪代が新聞に取り上げられるきっかけとなった論文を執筆した、著名な数学者だと気付いた。事件を思い出し、久志は顔をしかめる。
『メールじゃ、らちがあかないから』
「はあ?」
『博士に、家へ電話してもらった』
「すげえな。アメリカから?」
 自分には連絡ひとつ寄こさないのに、海の向こうには電話までかけさせる熱心さだ。
「オマエさあ、絵なんかやめて、本気で数学やれば?」
 久志は舌打ちをした。
(雪代にあたって、どうすんだよ)
 案の定、なかなか返事がなく、
『ゲーム理論』
と、雪代はようやく、電話の向こうで、言葉を口にした。
『久志の球を、相手チームが全部、予測できるとする』
「そりゃ、無理だよ。読ませねえもん」
『バッターは、何球打ち返せるか』
「数学の話だろ? オレにはわかんねえよ」
『予測不可能だと、あたしにも、博士にも、わからない』
「電話、切るぞ。そんな話、付き合ってられっか」
 イライラして怒鳴りつける。
『切らないで』
 久志はため息をついた。 『数式は呪文。おまじない』
 彼女が何をいいたいのか、わからなかった。体は疲れ切っていて、頭も半分眠ってしまっている。でも何とか起きて、雪代の話に辛抱強く付き合うしかなかった。
『嫌なこと全部、頭から消し去る。絵に集中するため』
「数式を唱えてか?」
 切らないで、といった雪代の声が、耳を離れない。しゃがみ込んだ膝の間で、久志は頭を抱えた。
『絵が描けないと、死んじゃう』
「大げさだよ、オマエ」
『本当に、死ぬ。絵なんて描けない、そう思って現実の世界へ戻ったら、殺されそうになった』
 校門で松山に刺された事件のことをいっているのかと、回らない頭で考える。
「なんで、絵を描けないと思ったんだ?」
『パニックになった。あたしの絵を、黒く塗りつぶされて』
 久志は頭をガシガシとかいた。済んだ話を蒸し返されて、心が落ち着かない。
『数学の世界は、あたしの頭の中にだけ、ある世界』
「そんなオマエが、遠いアメリカにいるエライ数学の先生と、何を話したワケ?」
『9回裏、点差は1点。ツーアウト、満塁で、迎えた打者が4番』
 雪代が話題をがらりと変え、久志は面喰らう。
 それでも、「ピンチだな」と、とっさに相づちを打った。
『久志は、何を投げる』
 うーん、と考えてはみる。一番得意な、野球の話題になったのだ。
「バッターの苦手なコースは何だろう」
 真面目に質問してみた。
『ストライクゾーンは、どこでも打てる。速球も、変化球も』
「カウントは?」
『ツーストライク、スリーボール』
「フルカウントかよ」
 難しい場面だ。滅多にお目にかかれないが、有り得ないこともない。
「インハイストレート」
 迷わず、久志は答えた。
『バッターは、ショートとサードを抜く、ヒットを打った』
「三遊間に……」
 投げると同時に、3塁ランナーは飛び出しているはずだ。レフトがカバーに入り、球を返しても、ランナーが確実に1人はホームへ帰る。2人目のランナーも刺せなければ、逆転サヨナラだ。
「腕を小さく折りたたんで、内角を打つ。上手いバッターだな。お手上げだよ」
 頬と肩の間へ携帯を挟み、久志はヤケクソ気味に両手を挙げた。
『博士はレッドソックスの大ファン』
「何だ。その話は博士が作ったのか?」
『ピッチャーの真価が、問われる場面』
「そっか。でもオレの場合、それはあり得ない」
『どうなる?』
「オレの球は、間違いなく打ち上がる。ピッチャーフライで、ゲームセット」
『本当?』
「ああ。オレの上を行く天才がいると思ってんのかよ。今日なんて、15人連続で三振をとったんだ」
 子供じみた説明だと思ったが、雪代は納得したようだった。
『久志はスゴイ』と、電話口で2度も、繰り返す。
『野球は、ゲーム理論で色々と計算できる』
 面白いけど、とまるで重大なことを告げるかのように、彼女は声をひそめた。
『複雑すぎて、あたしの手には負えない』
 雪代の気落ちした声を聞き、久志は笑い出していた。
 バカバカしい勝利の方程式を、頭の中で繰り広げ、懸命に解いてみせようとするあまり、世界的な数学者にまで助けを求める。
「なあ、雪代」
『なに?』
「さっき、現実の世界へ戻ったって、いったよな。そしたら、殺されかけたって」
『うん』
「オマエ今、ドコの世界にいるんだ?」
『……セミ、鳴いてるね』
 不意に、雪代はいった。久志は再び、暗い空に溶け込む木の、枝の先を見つめる。
「さっきから、ずっと鳴いてる。こんな夜中に、うっせーよな」
『狂ったセミ』
 あたしみたい、とつぶやくのを聞き、久志は息をとめた。
『羽化して、2週間で死ぬ』
「オマエも……あっという間に死ぬってこと?」
『もう少し、鳴いてみる』
 お休みなさい、と電話は、突如として切られた。
 同時にセミも鳴きやみ、騒々しい羽音をたてて、闇の中に、姿も見せないまま消えていく。
 ――冗談じゃねえよ!
 久志は猛烈に腹が立った。携帯を操作すると、再び雪代に電話をかける。今度は自分が思いの丈を全て、吐きだす番だと思った。