ジーニアス・レッド 第一話 こうして二人は出合った(1)

 脇目もふらず、様々な色のタイルが敷き詰められた学校自慢の中庭を、早足に横切る。
 校舎の窓から見下ろすと大きな星の模様が現れるはずだが、そんなものをも蹴散らす勢いだった。それを証明するかのように、久志の履いているスパイクは、派手な金属音を発している。
 冬の寒さもあって、暮れかかった校内に人影はなく、追ってくる人間もいない。
 安堵しつつも情けなくて、久志は手早く、そして乱暴にアンダーシャツの袖で目を拭うと、立ち止まって帽子のつばに、手で触れた。
 センバツ出場が決まり、甲子園のマウンドに立つピッチャーは自分なのだと、確信していた。
 ――なのに……。
 野球帽を深めにかぶり直して、再び歩き出すと、前方に明かりのもれる教室を見つけた。その一画だけ、不自然なほど明るく、輝いている。
(こんな時間に、まだ残ってるヤツがいんのか?)
 普段は行くことのない、グラウンドから遠い場所へ足を向けた結果、どうにも良くわからないところに出てしまったらしい。久志のような、名門私立進学校が例外として特別に受け入れる生徒、いわゆるスポーツ特待生には、縁遠い校舎だった。
(確か芸術棟って、いったっけ。あれは、美術室? いや、違うか)
 好奇心も手伝って近づいてみると、普通の教室ではなく、三方をガラスに囲まれた、一見したところホールのような空間だった。
(こんなトコがあったのか)
 珍しく思い、中をのぞき込む。ホールの中央には大きな花瓶があり、たくさんの花が活けてあった。その花々を囲むように、描きかけの絵が、何枚も並べられている。
 さらに奥へと視線をやり、驚いた。床に倒れている人の姿を認めたからだ。こちらに背中を向け、青いツナギの作業服を着ている。
「おいっ!」
 突き出した両手で窓を叩いてみる。こんな時間、たった一人で校舎の中にいること自体、あまり普通ではない気がした。相手に何も反応がないことを見て悟ると、久志はあたりを見回した。
(このガラスの向こうへ行くには……)
 この建物へ入る昇降口が近くには見当たらず、少し離れた別の校舎に出入り口を見つけると、走り出した。うろ覚えではあったが、その教職員用の玄関から、2階へ上がれば、渡り廊下を伝って行けるはずだ。
 久志はケガをした右の足首を保護するため、ハイカットスパイクを履いていた。たどり着いた玄関で腰を下ろすと、とにかく脱ぎづらいその靴から、もどかしくも急いで足を抜く。
 帰宅するところなのか、たまたま通りがかった見知らぬ教員に呼び止められた。
「仲田君じゃないか」
 学内外を問わず、自分が有名人なのは百も承知だが、未だこんな風に親しく声をかけられると、こそばゆくなる。
 ちわっす、と半ば習慣のように頭を下げてしまってから、
「ヤバイっすよ、センセ」
といい足し、久志はスパイクを放り投げた。
「どうした? 何か、あったのか?」
 慌てた声を背中越しに聞きながら、
「倒れてる奴がいる」
と答え、振り返ることなく、一足飛びに目の前の階段を駈け上がった。
 見慣れた職員室を横目に、さっきまで自分のいた中庭が見下ろせる、渡り廊下を通り過ぎると、その先にある階段を、今度は下る。
 先がほんのりと橙色に染まっていて、やがてたどり着いた場所は、外から見るよりも数倍、明るかった。
 アトリエ、というんだろうか。天井に埋め込まれた照明が、かなり強い陰影を作り出していて、どこか落ち着かない。
(いた、あそこ!)
 それでも倒れている人物を見つけ出し、緊張しながら近づいた。
「大丈夫か」
 雑多に置かれたままの絵や、道具の間をすり抜け、奥のガラス窓に近寄ると、床で丸くなっている体を、抱き起こした。
 しっかりしろ、と声をかけながら、腕の中が軽いことに気付く。
(オンナだ)
 小さく、折れんばかりの細い体に戸惑いながら、顔を見た。
 ――知らねえヤツだけど……ホントにここの生徒か?
 真面目そうでいながら、作業服を着て、こんな時間に絵を描いていたのかと思うと、どうにも怪しい感じがする。
「ううん……」
 小さくうなり声を上げ、やがてゆっくりと彼女はまぶたを開いたが、久志と目が合った途端、胸を強く押してきた。勢いでその場に尻もちをつくと、彼は思わず大声を出した。
「びっくりしただろ! 何でこんなトコで寝てるんだよっ!」
 病気で倒れたのではない。ただ寝ていただけだ。そんなこと、目の前であくびをする奴の、のんきな様子を見れば、一目瞭然だ。
「まったく。心配して来てみれば……」
 ふてくされ、ふと目をやった先に、巨大な絵を見つけた。このホールにたくさん並んでいる他の絵とは、全く違う。  引き込まれるように、その絵を見つめる彼の耳へ、はからずも小さな、震える声が届いた。
「白のユニフォーム」
「え?」と、振り返る。
「絵の具、おちないよ」
 ゆっくりと立ち上がる彼女が着る、青いツナギは、絵の具にまみれ、変な色をしている。
「ああ。こんな土だらけの、きったねえユニフォーム」
 絵の具が付いたところで、とぎこちなく笑い、久志も立ち上がったが、
「仲田! あと、もう一人は……三浦かっ?」
と名前を呼ばれ、二人は同時に声のした方を見た。
「やっぱり! 石田先生が慌てて職員室へ来たから、もしやと思って来たんだが」
 紺色のジャージに身を包んだその教師に、久志は見覚えがあった。入学したその年、必修で受けさせられた芸術の授業で、美術を教えていた。たしか糸井といったはずだ。
「いや、仲田君が血相をかえて走って行くんで、何事かと……」
 急いだのか少し息を弾ませながら、次に声をかけてきたのが、石田という教師なのだろう。
「仲田君が倒れたといっていた生徒は、君なのかい?」
「まったく、何をやってるんだ。もうとっくに下校時間は過ぎたぞ?」
 次々と石田と糸井に問われながらも、『三浦』と呼ばれた生徒は、何も答えなかった。完全に無視を決め込んでいるのか、いきなり久志の腕をとって、ぐんぐん歩き出す。
「おいっ、センセーを無視すんなよ!」
 久志は叫んだが、三浦のそんな態度に慣れているのか、糸井はムスッとしたままだし、石井は呆気にとられて、口をポカンと開けている。
 彼女に手を引かれ、どうにも抵抗できないまま、久志は慌てて帽子を取った。
「失礼します!」
 他に思いつく言葉もなく、頭を下げて階下の二人にそう告げると、駆け足で階段を昇る三浦に大股で追いついた。
 顔をのぞき見ると、やせ細っていて、やたらに大きな瞳が印象的だ。黒く長い髪を後ろで引っ詰め、口をへの字に結んで歩く姿は、見るからに可愛げがない。
 ――ブス……だな。
 心の中でつぶやき、久志はつい、笑い出していた。