ジーニアス・レッド 第十八話 久志の苦悩(1)

 夏の県大会3日目にして、第一シード校の東光一高が球場に現れると、どよめくような歓声があがった。平日にもかかわらず、大勢の観客で、スタンドは埋まっている。
 東光一高の練習が始まり、久志がマウンドに上がると、さらに球場の熱気が高まった。詰めかけた報道陣から、盛んにシャッターが切られ、テレビカメラが何台も、彼の姿を追う。
 マウンドではキャッチャーの長谷川が、久志にボールを手渡しながら、
「見ろよ。小せえ選手ばっかだな」
と、口の端をあげた意地悪い顔を、相手方のベンチに向けた。
 三塁側を見やると、対戦校の選手達が白い歯を見せて、楽しそうに話をしている。東光一高の選手達が、グラウンドでどんな練習をしているか、目を輝かせている風にも見えた。
「あんな学校の連中から見れば、オレ等、甲子園優勝校は特別だからな。憧れもあるんだろ」
 久志は答え、ボールを受け取ると、帽子のつばをさわり、かぶり直す。
「いうねえ、久志」
 長谷川が苦笑いをし、
「まだ一度も一回戦を突破したことがない、県立高だもんな。それにしても、あんな笑っちゃってて、いいのかね。甘かねえんだけどな、ウチは」
と、頭の上のマスクに触れた。
 夏の大会では、突如まったくマークしていなかった高校が勝ち進むことも、珍しくない。けれども東光一高が、ここで負けることは一切ないと、二人とも確信していた。
「いいな、今日はバックネット裏に、すっげえ数のカメラがあるからな。監督から、手の内全部を見せておくよう、指示されてる。久志、お前もそのつもりで投げろよ」
 何度も練習試合をしている馴染みの学校や、そうでない学校も含め、様々な高校の制服を、スタンドにちらほら、確認できる。
(どの学校も、オレを調べ尽くしてくんだろうな)
 これから勝ち進んでいくうえで、早めに弱点がわかれば、それに越したことはない。大会の日程が進み、打ち込まれる試合があっても、自分なら必ずしのげると、久志は自負していた。
「もちろん。全力で行く」
 長谷川の言葉に、力強くうなずいてみせる。
「ウチはお祭り騒ぎが好きな連中ばっかだからさ。こういう大観衆は、願ってもないことだよな」
 そういって笑いながら、長谷川はホームへと走った。
 淡々と久志が長谷川を相手に投げ、規定の投球練習数を終えると、審判が位置についた。
「プレイ!」
 主審が右手を挙げるとサイレンが響き渡り、試合が始まる。
 キャッチャーの長谷川は、久志が細かいところまでジンクスを担ぐ性格だと知っている。大きな大会の一試合目、初球が何か、わかっているはずだ。
 ――夏が、始まる。
 久志の思った通り、サインを出すことなく、長谷川がミットをかまえた。
(まずは全力投球、ど真ん中)
 マウンドで振りかぶり、久志は第一球を放った。目の前でバッターが大きく遅れて、空振りをする。
 長谷川がマスクの下で、ほくそ笑んでいるのがわかった。バットを短く握り直す相手選手を見ながら、無理だよと、久志はいいたくなる。
 ちらりとバッターを見上げ、長谷川がサインを出した。外角のチェンジアップの要求に、久志もうなずき、振りかぶる。
(あんなに遅い振りじゃ、まぐれで当たっちまうかもしんねーな)
 しかし白球は久志の指を離れ、再びキャッチャーミットへぴたりと収まった。
 投球は完璧過ぎるほど、完璧だった。打者を全て三振に打ち取ると、東光一高の攻撃が始まる。
 一塁側スタンドに陣取る、東光一高の大応援団は、吹奏楽部が奏でる音楽に合わせて、声を張り上げた。
 先頭バッターの栗原が右中間を抜くヒットを放ち、2塁へ進んだかと思うと、2番の家長がセンター前の長打でランナーを返し、あっという間に先取点が入る。3番佐藤がホームランを放ち、4番の長谷川は早くも敬遠され、5番角倉が内野安打と、打線はとどまるところを知らなかった。
 1回だけで12点も取り、打者一巡の攻撃がようやく終わると、その後も久志の好投は続き、一本のヒットも許さない。
 試合は2時間にも及び、5回が終わると、48対0という大差がついた所で、ゲームセットとなった。
「ぜひ勝って、甲子園に行ってくださね」
 最後に両チームは握手を交わしたが、相手校の選手から、そう声をかけられた久志は、冷ややかな態度で「どうも」と答えたに過ぎなかった。
「仲田、超怖えー」
と、背後でいわれたが、何とも思わなかった。
 スタンドに挨拶し、道具を片づけてダウンも済ますと、球場の外で大勢の人に囲まれた。もみくちゃにされながら、応援にまわっていた控えの選手達も合流して、ようやく全員、バスへと乗り込む。
「忘れ物はないなー。きちんと確認しろよー」
 杉浦がみんなに呼びかけながら、通路を歩く。手にはたくさんの荷物を持っていて、久志は彼と一緒に、それらを上の棚へしまうと、彼を窓際に座らせた。
「恥ずかしいのか?」
「別に。写真を撮られるのが、ウザイだけ」
「それにしても、終わってみれば、三振15個の完全試合か」
 感慨深げにいう杉浦の隣に座ると、久志は頬杖を突いて、目を閉じた。
「疲れた?」
「んー。試合で疲れたんじゃない」
 バスがクラクションを軽く鳴らし、発車する。外で黄色い歓声があがり、久志の名前が呼ばれていた。
 杉浦はごったがえす人波を見ながら、
「考えてみれば、開会式もすごかったよな。別室に案内されて入場行進を待つなんて、ウチが初めてだったんじゃないか?」
と、まんざらでもない口ぶりだった。
「去年も夏の初戦あたりは取材が多いかったけど、今年はスゲー異常」
 座席で久志がふてくされ、杉浦はそんな彼をさとすようにいった。
「今なら、まだ日程に余裕があるしね。学校も宣伝になるから、野球部には、なるべく取材を受けて欲しいんだよ」
「昨日の取材なんか、参った」
「ん? あのテレビ局の?」
 綺麗な記者さんだったよね、と杉浦が脳天気なことをいい、久志は薄く、目を開ける。
「オレんトコは、死んだ親父が元プロ野球選手で、母親が一人でオレとアニキを育てたからな。何かとマスコミ受けがいいんだよ」
 久志なりの皮肉だった。去年の夏、甲子園で活躍し、広く名前が知られたことで、私生活をとやかく書き立てられたことが、久志には一番の衝撃だった。
 中でも父親の夢を受け継ぐべく、必死に息子を育て上げた母については、繰り返しテレビや新聞で取り上げられ、久志をうんざりさせた。どれも美談仕立ての、感傷的で、いかにも大衆受けするような内容だった。
「お蔭でオレも、野球一筋の孝行息子みたいに思われて、すっげー困る」
「でも、それは事実だろう?」
 杉浦からハッキリと告げられ、久志は何もいい返せなかった。
 ――本当に野球しか、興味がないんですね。
 昨日やって来た女性記者が笑っていたのを、思い出す。寮の部屋までカメラが入り、あれこれ取材された時に、いわれた言葉だ。
 野球の本や雑誌だけでなく、鏡や眉毛を整える道具、男性化粧品といった、いかにも年頃の男の子がそろえそうなものから、教科書、ノート、参考書や問題集など、学生らしいものまで、他の部員達は机の上に、色々と並べていた。
 ところが久志の机には、野球関係の本と、グラブを磨く道具しか置かれていない。おまけに机の中まで勝手に開けられ、放りっぱなしだったテストの山を見られた。国語だけはかろうじて赤点を免れていたが、他は0点まである始末だ。
 綺麗に化粧をし、高価そうなスーツを着こなす、大人の女性である記者から、バカにするような笑みを向けられ、久志は複雑な気持ちだった。
 中学までは成績も中の上ぐらいで、決して落ちこぼれではなかった。高校に入ってからも、テストの答え合わせだけは熱心にやり、いつか見直そうと思っていた。その一方で、入学時は寮の部屋へ持ち帰っていた教科書やノートが、今では筆記具まで全て、教室のロッカーに入れっぱなしなのも事実だ。
「クソッ」
 久志がつぶやくと、杉浦は前方で部長と話をしている、小宮山監督を指差した。
「去年もそうだったけど、夏大も2回戦以降は、あの監督が学校敷地内での取材を許すことはないよ」
「そう願いてえよ。恋人はいますか? なんてアホな質問、二度と受けたくねーからな」
「へえ。昨日も聞かれた?」
「聞かれたよ」
「で、何て答えた?」
 わかりきっていることを、杉浦は面白半分にきいてくる。
「……いません。募集中です」
「それは確かに、マスコミ受けするよな!」
 お腹を抱えて笑い出す杉浦の首へ腕を回し、久志は締め上げた。
「どーせオレは、清く正しく美しい、高校球児だよっ」
「うわっ、やめろ、久志!」
 杉浦はそう叫んだかと思うと、携帯を制服のポケットから取り出し、電話帳のメモリーをめくっている。
「あ? 部活中は携帯禁止のはずだぞ」
 腕を緩め、久志が顔をしかめると、杉浦は「まあまあ」となだめるように、いった。
「あった」
 携帯を耳にあて、
「ちょっと、待ってろよ」
と、意味ありげに久志を見やる。
「こんにちは。東光一高野球部の杉浦です」
 相手が出たのか、杉浦は上機嫌な声を出す。
「うわ、もう知ってるんですか! あ、インターネットの速報で? じゃあその、パソコンに詳しい人と、代わってもらえませんか?」
 久志は嫌な予感がして携帯を取り上げようとするが、杉浦は体を丸めて彼の攻撃を器用にかわし、ニヤリと笑う。
「あ! 俺、野球部の杉浦です。お久しぶり。いきなりで悪いんだけど、ちょっと久志と話をしてやってくんないかな」
「オマエ、誰と話してんだよっ」
 必死に割り込むが、杉浦は意にも介さない。
「アイツ、ちょっと落ち込んでるっていうか、元気がないんだ。ほら、マスコミの取材がすごくてね。練習だけじゃなくて、寮の部屋を見られたり、球場入りまでくっついてきたり。おまけに野球に関係のない質問までされて、かわいそうなんだ」
「やめろって……この、杉浦っ」
 携帯に久志が腕を伸ばすと、思いっきり額を指で弾かれた。
「いってーっ」
 帽子を取り、額に手を置くと、久志は天井を仰いだ。
「恋人はいますかって、聞かれたんだって」
 あはは、と杉浦は笑ったが、
「あれ? もし、もし!」
と、横で携帯を持ち替え、慌てたように呼びかけている。
「いきなり切られちゃったよ」
 がっかりした声になって、杉浦がいった。
「オレの家に電話したんだろ」
 久志は杉浦をにらみつける。以前、緊急連絡先として、番号を教えていたはずだ。そのうえ雪代のことを、彼にだけは、打ち明けてある。
「相変わらず、勘がいいね」
 携帯を制服のポケットへしまうと、参ったとばかりに杉浦は両手を挙げた。
「アニキがパソコンを買ったって、ちょっと前に連絡してきたけど、どーせ使ってんのは、アイツだろ。インターネットと聞いて、ピンと来ねーほうがおかしいよ」
「あ、最初に久志のお母さんが出てね。おめでとうって、いわれた」
 地方大会は準決勝から観に行くと、母は張り切っていた。甲子園にいたっては、早くも全試合、決勝まで応援しに来るつもりでいる。今日の試合結果も気になって、雪代をせっつき、インターネットにかじりついていたのかもしれない。
「次に三浦さんが出たんだけど、もしもし、って声しか聞けなかった」
「アイツは、そーいうヤツだよ」
「お前をなだめられるのって正直、三浦さんしかいないんだけどな」
 久志は片眉を上げ、「あー?」と声を上げた。
「今日のオレは15奪三振だよ? 文句ねーだろ」
「やめろ、久志」
 とがめられ、久志も唇を結ぶ。杉浦が自分の苛立ちを察し、心配しているのが、わかったからだ。
「連絡とか、取ってないの?」
 杉浦に聞かれ、「全然」と久志は、首を左右に振った。
「オレ達、未だにお互いの携帯の番号もメルアドも、知らねーんだ」
「お母さんとかに聞いて、教えてもらえばいいじゃないか」
「いーんだよ、別に」
 久志が横を向き、ふくれると、杉浦は、
「つくづくお前らって、変な組み合わせだと思うよ」
と呆れたようにいった。
(そんなコト、オレが一番わかってるよ!)
 雪代とは5月に駐車場で会って以来、2ヶ月もの間、何も会話がない。気になって実家へ何度か電話したが、出るのは母親ばかりで、彼女が雪代のことを、えらく気に入っていることぐらいしか、わからなかった。
 佐々木からもメールがあった。彼女は兄の克己と連絡を取り合っているようで、何も問題はないと、彼から聞かされたらしい。静岡で雪代がうまくやっていることを、とても喜んでいた。
「学校に着いたぞ」
 前方に座っていた竹下部長が立ち上がり、大声で知らせた。
「バスを降りたら、ちゃんと帽子を取って、挨拶すんのを忘れんなよ!」
 監督の指示は絶対だ。はいっ! と負けず劣らず大きな声で、部員全員が返事をする。
 無表情に久志は立ち上がると、荷物を肩に、バスを降りた。