ジーニアス・レッド 第十七話 家族(2)

 体育館とグラウンドを囲む高いフェンスの間に、こぢんまりとした建物があった。久志達が暮らす寮で、その裏手にあたる駐車場の隅に、車はとまった。
 自分のカバンから忙しくタオルを取り出すと、母親が真っ先にドアを開け、車を降りる。
「大丈夫? 濡れちゃった?」
「大したことねーよ。小雨だったし」
 大きな段ボール箱を抱え、両手のふさがっている久志の頭を、背伸びして拭きながら、
「元気そうじゃない!」
と、彼女は嬉しそうに笑った。
「久志! 約束通り、来てやったぞ」
 助手席を降り、克己が車のバックドアを開ける。
「オマエ、授業はどうした?」
「ちょっと抜けてきた」
 久志は持ってきた箱を、後部座席の後ろにあるスペースへと積み込んだ。雪代はシートからそうっと顔を出し、のぞき見る。
「よう。退院できて、よかったな」
 目が合い、久志からぶっきらぼうに声をかけられた。
「本当なら、監督の小宮山先生と部長の竹下先生、副部長の神崎先生や田中コーチにもご挨拶しなきゃいけないんだけど、こんな時間じゃ無理よねえ」
「田中さんは外出してるし、先生はみんな授業中だしな」
「どうせ、久志も秘密にしてんだろ? この事は」
「知られてもいいんだけど、色々めんどくせーから」
 克己も加わり、彼らは車の横で、立ち話を始めた。雪代は頭を引っ込め、シートへ寄りかかると、背中をまるめて、深呼吸をする。
 すると大きな音と共にバックドアが閉まり、久志が後部座席のドアを開け、中に乗り込んできた。
「運転、代わるよ」
「うん、お願い」
 目の前で克己が今度は運転席に座り、母親は助手席へと収まる。
「ほら、コレ全部さ、オマエの絵の道具だから」
 隣で久志がいい、シートの裏側を指差すと、雪代も慌てて後ろを見た。
「あの、絵を描くヤツ。キャンバスっての? オマエが使ってんのは、やたらデカくて車に積めないから、ちっこいのを持ってきてやった」
「どこから……持ってきた?」
「あ? 美術室にあったのを、かっぱらってきた」
(かっぱらって……)
 あぜんとする雪代の左手が、強く握られ、彼女は体を固くした。
「いいか、良く聞けよ」
 彼はシートの背もたれへ右腕を置き、斜めに雪代を見る。
「絵を描いてもいいけど、まずはキチンと体を休めろ。とにかく、横になれ。あと、メシはキチンと食えよ。一日三食、好き嫌いすんじゃねーぞ。それから勉強も、たいがいにしとけ。オマエ熱中すっと、まわりが見えなくなっからさ。元気になっても、フラフラ一人で遊びに行くんじゃねーぞ。特に海はあぶねーから。田舎だけど、変質者が出るって噂もあるし。夜は大人しく、家で過ごすんだぞ」
 彼の母も、兄も、何もいわなかった。素知らぬ顔で、耳を澄ませているのだろう。
「あと、何かあったら、とにかくウチの親にいえよ。遠慮すんじゃねーぞ」
 それから、と久志は声を小さくした。
「絵のこと、ごめんな」
 雪代は眉間にシワを寄せた。
「ぶたせて」
「は?」
 次の瞬間、ぱんっ、と派手な音が響いた。
「いってえーっ! いきなり平手打ちかよっ!」
 久志が騒ぐ横で、
「あの絵は、大切な絵」
と、雪代はつぶやいた。
「とっても、とっても、大切な絵」
 毎日あの絵を描きながら、自分が何を考えていたか。
「大事だったのに」
 思い出し、じんわりと涙がにじむ。雪代は指の先で、目尻を拭った。ぶたれた頬に右手を置いて、久志は顔を歪めたが、すぐに「わかってる」といった。
「雪代の、大切な絵だよな」
 頬から指を離し、その手で髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど乱暴に、雪代の頭を撫でた。
「オレ、オマエの絵に負けない、野球やっから」
 力強くいったかと思うと、彼はドアを開け、車から降りた。
「待ってろ。夏の大会が終わるまで」
 久志はいい、後部座席のドアを閉めると、助手席へ向かい、窓の外からぺこりと、頭を下げた。
「ごめんな。面倒なコト、頼んじまって」
「いいのよ! 任せておきなさい」
 久志の母は、とても元気な明るい声で、返事をした。
「体に気をつけてね」
「アニキも……ありがとな」
 久志が運転席へ手を上げると、克己も笑顔で答えた。
「頑張りすぎて、体壊するんじゃないぞ。またケガでもしたら、野球どころじゃないからな」
「おう!」
 母親も、兄の克己も、走り出す車の中から手を振る。雪代は窓に、両手を置いた。
 ズボンのポケットに手を入れ、どっしりと足を広げて立つ、いつもの久志が見える。照れくさそうに、小さく左手を掲げてみせた、大きいその姿は、車が駐車場を出ると、あっという間に見えなくなった。
 髪の毛を手でおさえながら、雪代は体が熱くなる。久志の家族がいる前で、彼を殴り、恥ずかしいこともたくさん、口走った気がする。
 ふと前に目を向けると、二人が小さく、肩を揺らしていた。
「びっくりしたわあ」
「うん。びっくりした」
 助手席で母親がいい、隣の克己が答えると、二人は一斉に大きな声で笑い出した。
「アノ子が頭を下げるなんて!」
「明日は雪だよ。間違いなく」
「ごめんね、雪代ちゃん」
と、母親が笑いをこらえながら、後ろへ振り向き、身を乗り出した。
「久志ったら車の中で、ずっとあなたの左手を握っていたでしょう」
 気付かれていたと知り、雪代は顔を真っ赤にした。
「雪代ちゃんのことが、好きなのねえ」
 なぜか安堵するような、しみじみとした口調だった。
「誰だっけ? 以前、久志はホモじゃないかって、心配していたのは」
 克己が笑いながら口を挟み、母親は反論する。
「だってアノ子、ホントに人気あったのよ。バレンタインデーやクリスマスなんて、プレゼントをいっぱいもらって、大変だったんだから! 家に押しかけて来た子だって、いたのよ。なのに、誰ひとり女の子に興味を示さなかったら、やっぱり疑うわよ」
「アイツ、母さんには内緒にしてたけど、ラブレターもいっぱい、もらってたんだ」
「知らないと思ってたの?」
「あれ、知ってた?」
「部屋のゴミ箱に、平気で突っ込んだままなんだもの。野球ばっかりで、育て方を間違えたかと思ったわ」
 それがねえ、と母親は、雪代をしげしげと見つめた。
「驚いたわ。あんな風に口うるさく、女の子に向かって、延々としゃべり続けるんだもの。それに、あの話し方! いつの間に、あんな大人みたいな、偉そうな口の利き方をするようになったの?」
「アイツは亭主関白タイプだな」
 そして平手で口を閉じる、と克己は再び大笑いした。
「雪代ちゃんは、どう? 練習ばかりで、デートする暇もないでしょ。あんな野球バカの、どこがいい?」
 母親に聞かれ、雪代は困惑する。
「 e iθ=cosθ+i sin θ」
 思いついたことを、雪代がそのまま口にすると、母親は怪訝な顔をして、運転席の克己を見やった。
「その式は、何?」
と克己がたずね、雪代は答えた。
「オイラーの、公式」
 ――あたしが一番好きな、美しい公式。
 助手席で母親が肩をすくめ、克己は微笑むと、アクセルを踏み込む。車はスピードを上げ、青い海が眼の前に現れた。雲は消え、降り注ぐ太陽に、波間がキラキラと輝いている。
 雪代は目を細め、その光景を眺めた。