ジーニアス・レッド 第十六話 家族(1)

 病院に運び込まれた時、身につけていた制服や靴は、証拠品として警察に押収されたまま、戻ってこない。退院の日、着るものがない、そんな雪代のために、父親は服を持って来た。その黒い、大きすぎるトレーナーと、色あせたジーンズを着て、彼女はベッドに腰かけていた。
 外に目をやると、空を覆う雲は厚く、雨がぽつぽつと降り出している。
 靴を父親が忘れたため、佐々木から入院中に差し入れてもらった、ピンク地に水玉の模様が入ったスリッパを履いて、雪代は帰るつもりだった。雨で濡れるだろうが、どうしようもない。
 かたわらには学校から届けられた、通学に使っている黒のバックパックがあった。その隣には、白いエナメルのバッグが置かれている。
 白いバッグは、駅のコインロッカーに雪代が隠し持っていたもので、男と待ち合わせる時に使っていた。派手な服と下着が数枚、そしてカツラやサンダルも入っていたが、化粧品や歯ブラシといったものを除いて、中味は全て、捨ててしまっていた。佐々木に鍵を渡し、取り出してもらったが、持ち帰っても二度と使うことはないだろう。
 父親は退院の手続きをしに、病室を出たまま、なかなか戻ってこず、雪代は所在なげに、指の爪を触っていた。
 廊下では看護婦が、忙しそうに立ち働いている。新しい患者が来るのか、病室の入口にあった雪代の名札は、とっくに外されていた。
「三浦……雪代さん?」
 声をかけられ、後ろを見る。眼鏡をかけた、背が高く、体格もがっしりとしている、短髪の男性が立っていた。どこかで見たような気もするが、思い出せない。
 続いて佐々木と並び、年配の女性も病室に入って来た。大柄で骨太な彼女は、雪代の格好に目を留め、変な顔をする。思わずうつむき、雪代は目を伏せた。
「三浦さん、こちらは仲田君のお母さんと、お兄さん」
 佐々木に紹介され、顔が強張る。何か、悪い冗談のように思えた。
「初めまして。久志の母です」
 はっきりとして、良くとおる声だった。
「佐々木さん、この服はあんまりよねえ。ぶかぶかで、大き過ぎない?」
 まさか久志の? と矢継ぎ早にいわれ、雪代は床を見つめたまま、動けなかった。
「母さん、久志の服だったら、もっとデカイよ」
 大きな笑い声をあげ、近づいてきた男性は、雪代の前でしゃがみ込むと、真っ直ぐに目を合わせて、いった。
「緊張しているのかな? 久志の兄、仲田克己です」
 似ている、と雪代は思った。笑うと、途端に人懐っこい印象へと変わるところは、久志にそっくりだった。
「ねえ、佐々木さん。荷物はこれだけなのかしら。あら、靴は?」
「お父様がお持ちにならなかったみたいで」
「俺が下までおぶっていくよ」
 三浦さん、と横から佐々木が、雪代の顔をのぞきこむ。
「仲田さんのお宅で、あなたを預かって頂くことになったの」
「お父さん、は」 「お帰りになられたわ。大丈夫、このことはちゃんと、ご存知だから」
 体の傷が、ずきずきと痛んだ。事件をきっかけに、自分はますます家族から、距離を置かれようとしている。
 自分でも気付かないうちに、雪代は顔色を失っていた。佐々木と久志の家族から、痛ましげな視線を向けられたが、そんな同情は彼女にとって、苦痛でしかない。
「行こうか」
 久志の兄、克己がいい、背中を向けられた。
「あ、歩ける」
 雪代は慌てて首を左右に振った。ベッドから床に足をつけ、スリッパを履くと、立ち上がる。
「雨が降ってきたから、あたしは先に行って、正面に車を回しておくわね」
 克己、頼んだわよ、と久志の母は、ベッドの上にあった雪代のバッグを手早く持つと、あっという間に病室から姿を消した。
「ゆっくり行きましょうね」佐々木は雪代と並んで、歩いた。
「どうも大変お世話になりました」
 まるで家族のように、佐々木がナースステーションへ声をかけ、克己までもが深々と、頭を下げた。
「どうぞ、お大事に」
 看護婦は笑顔で答えたが、雪代達が背中を向けた途端、ひそひそと噂し合う。エレベーターに乗り込むと、雪代は力なく壁へ寄りかかった。
「大丈夫?」
 克己がいい、佐々木も心配そうな顔をする。黙ってうなずきながら、動き出すエレベーターの中で、雪代は目眩を感じた。
「おい、どうした」
「三浦さん、しっかりして」
 ずるずると床へ倒れ込む雪代の体を、佐々木と克己が驚き、支えた。
「ma=m dt2/d2r=f」
と、雪代は口にした。体が浮き上がるような、エレベーター独特の感覚が、手術後の雪代には思いのほか、つらい。
「何の式?」
「慣性の……法則」
 克己に聞かれ、雪代は答える。
「なるほど」
 克己はうなずき、雪代を背中にのせると、エレベーターを降りた。
「克己! いったい、どうしたの?」
「エレベーターの中で、倒れちゃったんだよ」
「とにかく車へ運んでちょうだい」
 エンジンをかけたまま止まっていた、黒い大きなワゴン車の後部座席に、雪代は乗せられた。
「退院なんて、まだ無理なんじゃないの?」
「本当はね。でも安静にするだけだから、病院としては、家に帰したいのよ。次から次へと急患が来るから、ベッドも空けなきゃいけないし、人手もないし」
 大きい病院はどこも大変なのよ、と関係者のように、久志の母は、事情を話す。きびきびとした動きや話しぶりから、彼女も看護婦なのだと、簡単に想像できた。
「それでは佐々木警部補。確かにお預かりしました」
克己が笑いながら敬礼し、
「やめて下さい、仲田巡査部長」
と、照れたように笑いながら、佐々木も敬礼を返す。
(警察官……)
 意外ではなかった。克己の、ふとした瞬間に見せる鋭い視線は、警官独特のものだ。
「静岡に着いたら、連絡を下さい」
 佐々木がいい、久志の母はうなずいた。
「行こうか」
 そういって助手席に克己が乗り、久志の母も運転席に座った。
「三浦さん、早く元気になってね。また、会いましょう」
「ありがとう」
 雪代がお礼の言葉を告げると、佐々木は目を丸くした。
「ありがとう、佐々木さん」
 繰り返すと相好を崩し、瞳まで潤ます佐々木へ向かい、雪代は手を振る。佐々木も手を振り返し、後部座席のドアを閉めてくれた。
「じゃあ、行くわね」
 久志の母がいい、ゆっくりと滑り出すように、雨の中を車は走り出す。
「学校までの道、わかるの?」
 助手席の克己がたずね、
「去年だけで4回、東光には行ったからね。ここまで来れば、もう大丈夫」
と、久志の母はハンドルを握りながら、笑った。
「4回も? 何しに?」
「合宿と寄付金集めの手伝い。父母会で、手分けして食事を作ったり、あっちこっちにお礼状を出したり」
「静岡くんだりから、わざわざ?」
「慣れてるわよ。久志が小学生の時から、あっちこっち遠征について回ってたからね」
「子が必死なら、親も必死だなあ」
「必死よう。でなきゃ子供をプロになんて、してやれないわ」
 会話を小耳に挟みながら、雪代は窓に当たる、小さな雨粒を見つめる。
(プロ……プロ野球のこと、なんだろうな)
 甲子園だけでなく、久志には、その先まで、はっきりとした目標がある。そこへたどり着くために、彼は野球のことだけを考え、周囲の期待に応えてきた。
 ――あたしは……どうなるんだろう。
 雪代はそっと、窓のガラスに触れる。雨はいつの間にか、やんでいた。
 見慣れた景色が窓の外に広がり始める。車は広大な学校の敷地を回ると、裏の通用門から、職員用の駐車場へ入った。
「ああ、いたいた。久志のヤツ、相変わらずデカイなあ」
と、克己が駐車場の奥を指差す。
 雪代はぎゅっとトレーナーの裾を握り締めた。自分の外見が、こんなに気になるのは、初めてだった。