ジーニアス・レッド 第十五話 だから、彼女を守る(2)

 携帯を手にして歩きながら、久志は顔を上げた。ぼんやりと三日月が浮かんで見える。
 気が付くと、空を見上げることが多くなっていた。ふとした瞬間、雪代もよく空を仰いでいたが、その影響かもしれない。
 ――冬の星が輝く夜空、遠い枝の先に咲く桜の花、窓の外に広がる青空。
 彼女と一緒に見た空が、無性に懐かしかった。
「もしもし、オレ」
 呼び出し音が数回鳴った後、電話は繋がった。
『ウチの息子は野球ばっかりで、電話なんか、してきませんっ』
 いきなり、耳元で聞き慣れた声が、きんきん鳴り響く。
 久志は携帯から耳を離し、
「オレだよっ!」
と、怒鳴った。
 通りがかった人が、何事かと振り返る。慌てて彼は、声をひそめた。
「その野球ばっかやってる、あんたの息子だよ!」
『詐欺じゃないの?』
 確かに自分から電話をしたのは、高校入学以来、初めてだった。それにしたって、あまりにも母らしい反応に、やれやれと思った。
『じゃあ、学校名と、今までに付き合ったことのある、女の子の名前をいってみなさいよ』
「学校は東光一高で、付き合った子は一人もいません」
『あら、久志。珍しいじゃない』
 母があっけないほど、簡単にいい、これでもモテるほうなんだけどなあ、とちょっぴりくやしくなる。
『どうしたの? 何か、あったの?』
「あー、ちょっとな」
 久志は自分の頼もうとしていることが、どんなに無理なものか、十分承知している。しかし雪代に関わることだ。家族を巻き込んででも、何とかしたかった。
 必死に切り出そうと、口を開きかけて、母に邪魔された。
『そうそう! 関東大会、優勝おめでとう!』
「ああ……ありがと」
『明日、病院で自慢するわー』
 ウチの母親も看護婦だったと、明るい声を聞きながら思い出し、久志はため息をつく。
「あのさ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
『え……頼み? 久志が?』
 母が戸惑い、緊張するのが、ひしひしと伝わってきた。
「すっげー、変な頼みなんだけど、他に頼める人がいないから」
 少しの間を置いて、
『いってごらんなさい』
と、優しくいわれ、一息に告げる。
「女の子をひとり預かって欲しいんだけど」
 さらに長い、間があった。電話の向こうで考え込む母の姿が、目に浮かぶ。
『誰なの? いったい、どういうこと?』
「事件、知ってる? 校門で、ウチの生徒が刺された」
「もちろん、知ってるわよ!」
 間髪を入れず、返事があった。
「ねえ! あんたは大丈夫だったのっ?」
 オレは平気に決まってんだろうが、といい返したかったが、ぐっとこらえる。
「その、刺された子なんだけど、あさって退院する」
『ちょっと、まさか……』
「三浦雪代って子なんだ。色々と事情があって、家に帰したくないんだ」
『妊娠でも、させたの? そうなのね?』
 勘弁してくれ、と電話を切りたくなった。
『ちょっとお兄ちゃん、大変よ、大変!』
 母は早くも大騒ぎしていた。
『もしもし、久志か?』
 いきなり兄の克己が電話に出た。
「おう。家に帰ってたんだな」
『夜勤が続いて、ちょっと長い休みができたんだ。独身寮にいてもヒマだし、家でのんびりしてた』
 助かった、と思った。母親の早とちりは、久志が小さい時から、変わらない。5つ年上の、この兄のほうが、冷静に話を聞いてくれそうだった。
『すごいな、お前。全国ネットのスポーツニュースでも、とりあげられてたぞ。関東大会4試合全てで完封したうえ、被安打数が、たったの8だって? 2試合目なんか、完全試合だったんだろう?』
「オレを神と呼んでくれていいよ」
『確かに。そんな神様が、女の子を妊娠させたって?』
「そんな神は、この世に存在しねーよ」
『だよなー! ホントだとしたら、お前も大したもんだって、感心するところだけどな』
 両手で携帯を持ち、
「ソレ、どーいう意味だよっ」
と、声を張り上げた。
『とにかく、ちょっと説明してみな? あの事件の様子は、繰り返しテレビでも流されたけど、被害者が未成年というのもあって、ちょっとした報道規制がひかれたって噂だから。俺らの知らない話が、どうせあるんだろ?』
 少し悩んで、久志は佐々木から聞いた話を、正直に打ち明ける。母を、うまく説得してくれるのでは、と期待したからだ。
『なるほどなあ』
 久志が話し終えると、克己は納得したように、電話口でいった。
『お前さ、その話を全部、その佐々木って警官から聞いたのか?』
「まあ、聞こえちゃったっていうか、あとから説明されたっていうか」
『ちなみにさ、その警官って、年いくつ?』
「わかんねーな。聞かなかったし」
『お前、直感鋭いだろ。どうよ、正直いくつくらいに、見えた?』
 うーん、と久志は携帯を持ちながら、考えた。
「あまり年が離れてる感じは、しなかったな。せいぜい、よっつか、いつつ……」
『オレと同い年? うわ、その年で警部補かよ! キャリアだな』
「キャリアって?」
『東大の法学部とか出てるような、将来の警察庁幹部のことさ。エリートだよ』
 佐々木の顔を思い出す。確かに洗練された雰囲気はあったが、エリートと呼ばれるような、冷たさはなかった。
『恐らく初めて担当した事件で、のめりこんだんだろうなあ』
「本人も、そういってた」
『佐々木警部補の連絡先、知ってる?』
「ああ、知ってるよ」
 ちょっと教えろ、といわれ、携帯を操作すると、表示された番号を読み上げる。
『警察の任務からは外れるが、頼めば、立ち会ってくれそうな印象だな』
「立ち会うって?」
『オレが母さん連れて、その病院へ行くよ。退院の日は、向こうの親も来るだろうから、話をつけてやる』
 びっくりするほど事が簡単に進み、にわかには信じられなかった。
「ちょっと、いいのかよ」
『大丈夫。母さんは、絶対に断らないよ』
「何で?」
『お前が頼み事をしてくるなんて、初めてだから』
「ありえねーだろ、それ」
『久志は素直すぎるくらい、素直だからな』
 兄である克己が、監督と同じようなことをいう。
『小さい頃から、ずっと変わらない。お前は何でも素直に、いわれた通りのことを、一生懸命やりすぎる』
「悪かったな。負けず嫌いなんだよ」
『そんな久志の頼み事だ。どんな無茶な願いでも、きいてやるよ』
 ところで、と克己は急に口調を変えた。
『その子は、お前の何? 恋人?』
 今まで何度も聞かれた質問だが、兄のは違う。とても真面目で、興味本位や、からかいではなかった。
「オレさ、学校から雪代がいなくなって、すげー荒れたんだ」
『お前がっ?』
 ものすごく驚かれ、自分はそんなに温厚なイメージなのかと、久志は首をかしげた。
「後輩が練習で手え抜いたりすんじゃん。オレ、マジでおたまじゃくしだったよ」
『やがて手が出る、足が出る。そりゃ、久志らしくないなあ』
「寮でも備品を壊しまくった。洗濯機のフタを思いっきり乱暴に閉めて、ヒビを入れたし、風呂場で洗面器を蹴飛ばして、派手にガラスを割った」
『そこまでいくと、さすがにまずい』
「まずいだろ?」
 うんうんと、克己は相づちを打つ。
「オマケに寮でやる、秘密の大AV大会にも参加しなかった」
『楽しそうなこと、やってるなあ』
「全員参加が原則の、一大イベントだよ。厳選されたDVDを、4本ぶっ続けで見る」
『へえー。テレビの前で、坊主頭の大男共が夢中になって、画面を見ているサマは、ちょっと見ものだな』
「いや、ノートパソコンを持ってるヤツがいて、ソイツの部屋でやるんだ。オナニー厳禁、基本笑い飛ばす。勃起したヤツは途中退場。それがルール」
 そりゃきついルールだ、と克己が笑う。
「ソレをすっぽかしたお蔭で、翌日トイレ掃除をやらされた」
『なるほど。さすがは団体行動が基本の、体育会系だな』
「だろー? ホントは途中退場したヤツ用の罰ゲームで、新入生に嫌な仕事を押し付ける、口実だってのにさー」
『それ全部、雪代っていう女の子が、事件に巻き込まれたせい?』
「事件のことだけじゃなくて、色々あんだけどさ」
『例えば?』
 そうだな、と少し考えた。
「その前に、アイツから売春のこと、聞かされた」
『裏切られたと思った?』
「その時はな。今は、そう思わねーよ」
『へえ。どうして?』
「オレ達きっと、一番お互いのことを、良く知ってるから」
 おお、と克己は大げさに、反応する。
『久志が、女の子のことを? そりゃ、興味あるね』
「ちゃかすなよ」
『普通の男は、売春する女を許したりしない』
「アイツは自分が本当にやりたいことを、やりたかっただけなんだ。だから手段を選ばなかった。絵を描くためなら、好きでもないヤツと平気で寝たし、それを悪いとも思ってなかった」
『そりゃちょっと、佐々木って警官がいってる事と、違わないか?』
「オレには、わかる」
『えらい自信だな』
「アイツも、オレが本当は野球なんか好きじゃないって、知ってた。だからオレにいったんだ。野球をやめるなって。他に行く場所なんか、ないって」
 電話の向こうで、克己は無言になった。何をどう伝えるべきか、逡巡しているような、そんな沈黙だった。
『その雪代っていう子は、破滅に向かって生きてるようなもんだ。実際、殺されかけてもいる。そういう人間が高校を卒業して、まともに社会で生きていけると思ってんのか?』
 やがて警官らしい口ぶりになって、克己がいった。
「オレがそばについてさえいれば、もう二度と売春なんてしない。アイツもそれが、わかったはずだ」
『親でさえ、見放してる』
「だから、助けたいんだ」
『本気なのか?』
「でも、今のままのオレじゃダメだって、わかってる。アイツは本物の天才なんだ」
『天才』と、克己がつぶやいた。
「オレはもう絶対、誰にも負けられない。雪代と肩を並べるには、本気で野球をやんなきゃ、意味ないんだ」
 アイツが絵を描くように、と久志はいった。
「雪代は生きるのが下手クソだし、オレは人にいわれるまま野球をやってた。でも知り合って、わかったことがある。オレ達はきっと」
 そこまで口にして、唐突に悟った。
 ――出会ってから3ヶ月で、何回も雪代と会った。
 野球を長いことやって来て、まともに休んだことなんか、数えるほどしかない。雪代も人と話さず、自分だけの世界で、ずっと生きてきた。
 そんな二人がどうして、わざわざ時間を作ってまで、会おうとしたのか。
 ――オレ達、どうしようもなく、孤立していた。
 限界が、すぐそこに迫っていた。それを乗り越えるため、久志には雪代が必要で、雪代には久志が必要だった。
『わかった』
 克己は、きっぱりといい切った。
『その子はお前にとって、とても大切なんだな』
 きっとすごく、といい足しもした。
 心を見抜かれた気がして、ごまかすように、
「照れるよーなコト、いうなよ」
と、久志は笑ってみせた。
 ところで、と克己は聞いてきた。
『大丈夫なのか? その子には、お前の部屋を使ってもらうことになるけど、昔付き合ってた彼女の写真とか』
「わかってて、聞いてんだろ」
 ムカツク、という久志へ、明るく克己がいう。
『まあ、任せとけ。もう野球が嫌いだなんて、いわせないぞ』
「わかった。頼むよ」
 久志は電話を切ると、真っ直ぐに前を向いた。
 ひときわ目立つオレンジ色の照明が見え始める。東光一高のグラウンドにある、ナイター設備の明かりだ。
 あと一ヶ月も経たないうちに、選手権大会地方予選の抽選会がある。
 夏はもう、すぐそこだった。