ジーニアス・レッド 第十四話 だから、彼女を守る(1)

 ナースステーションへ顔を出すと、誰もが興味を押し隠すことなく、聞いてくる。
「ねえ、ねえ。仲田君って、三浦さんの何?」
「やっぱり彼氏なの?」
 この手の話題が得意ではないし、雪代との関係を、到底理解してもらえるとは思えなかった。答えず、ただ首の後ろに手をやり、床を見る。
 途端に始まった、
「かっわいいーっ!」
という、看護婦達の大合唱を耳にし、逃げるしかないと思った。
「とにかく、ゆき……三浦さんの点滴、お願いしますね」
 それだけ告げて、帰ろうとしたら、
「今日、三浦さんの裸も見ちゃったもんねー、仲田君!」
と、なぜか楽しそうにいわれ、振り返った。
「今日の午後、彼女が体を拭いていたら、ちょうど仲田君が来て、知らずにカーテンを開けちゃったらしいの。モロ見えだったらしいわよー」
「きゃー、やーらしいーっ!」
 昼間に勤務していた看護婦が、いいふらしたらしい。耐えきれなくなって、病棟を出ると、階段を2段抜かしに、下りていく。
 1階の受付には、これから面会へ向かうのか、患者の家族らしき人々が、大勢行き来していた。何人かが、久志に目をとめ、少し驚いたような顔をする。
 そんなことに慣れっこの彼は、そのまま正面玄関を出ると、病院の裏手にまわった。公園があって、小さな池を囲むように、満開のツツジが植えられている。
「仲田君!」
 ベンチで手を振る佐々木を見つけ、うなずいてみせた。
「どうだった? 三浦さん」
「うん、大丈夫だと思う」
「事件後、一度も泣かなかったのに。正直、びっくりしたわ」
「アイツは……」
 いいかけて、やめた。雪代が泣く理由は、たくさんある。安易に同情してはいけないと、久志はわかっていた。
「あなたの前でなら、泣くのね」
と、佐々木に遠慮がちな視線を向けられる。
 キスしたよね? と確認されているようで、うんざりした。後ろにいた彼女がそれを見ていたのか、見ていなかったのか、久志にはわからない。違う、あれは、といくらでも説明できたが、手っ取り早く、話題を変えた。
「佐々木さん、毎日来てるんですか?」
「毎日ではないわ。できる限り、来るようにはしているけれど」
 意外な気がした。雪代は正直、人から好感を持たれるような人間ではない。そういえば事件のあった、外国人の偉い博士が来た日をのぞけば、自分以外の人間とあんなに話している雪代を見たのは、初めてだった。佐々木も何か、雪代の心に響くようなものを持つ、特別な人間なのかもしれない。
「仲田君は? 大会は終わったんだし、明日も来られるでしょ?」
「それは、無理」
 佐々木から少し離れて、ベンチに腰を下ろすと、空を見上げた。野球漬けの生活が当たり前の彼にとって、間近に聞こえる街中の喧騒は、どこか物珍しい。
「夏の大会が終わるまで、もう雪代には会えねーよ」
「それって、神奈川大会が終わるまで、ということ?」
「オレ的には、甲子園の閉会式が終わるまで」
 久志は断固とした口調で告げた。
「すごいのね。恋愛よりも、野球が優先ということ?」
 いたずらっぽく笑う佐々木を、にらみつける。
「その恋愛っていうの、やめてくれよな」
「どうして?」
 ナースステーションの二の舞になりそうだった。
 横を向いて、
「別にオレ達、付き合ってねーし」
と、ふてくされながらも、ハッキリいい切った。
「会ったのだって……」
と、顔の前で、指を一本一本折っては、数えてみせる。
「2月に、最初はアトリエで。次の日の朝、ウィンドブレーカーを返してもらって……昼は教室で会って、グラウンドへいっただろ? 3月は甲子園から帰って来た日。4月は始業式。5月は、あの事件の前日、宿直室で会ったきり」
 全部で6回、と口にして、妙な気分になった。出会ってから3ヶ月で、それだけしか、顔を合わせていないのに、野球部のミーティングまで抜け出して、今こんなところにいる。
「宿直室?」
と、佐々木が突如、眉をひそめた。
「雪代は『誰も使わない、宿直室』って、呼んでたな。校長室の並びにある部屋で、雪代に連れてかれたんだ」
「あなた、そこで何があったか……知らなかったの?」
 あ? と面倒くさそうに生返事をして、佐々木を見る。
「別に、なにも……」
 そういって、久志の頭に浮かんだのは、古びた布団のかたまりだ。自分があれを見た時、何を想像したか。
「まさか」
「三浦さんが、松山に乱暴された場所よ」
 嘘だろ、というのが、やっとだった。
「ねえ。私……三浦さんが、怖いわ」
 長い沈黙の末、佐々木が口を開き、久志は顔をしかめた。
「怖い?」
「時々、思うの。この子は、演技をしているだけなんじゃないかって。じっと見つめられると、全て見透かされているような……そのうえで、相手に合わせて、口をきいている。そんな気がしてくるのよ」
 池の水面を眺めながら、耳が見えるほど短い髪を、落ち着かない様子で佐々木は触る。膝の上にはブランド物のバッグが置かれ、黒いスーツのスカートから出る足は、ほっそりとしていた。
「佐々木さん、あんま警官らしくないね」
「え? ああ、そうね。よく、いわれるわ」
と、彼女は力なく笑った。
「まだ、なったばかりなの。警察大学校を出て、警部補としては、初めての勤務地なものだから」
「雪代の事件が、初めて?」
「そう、大きいものはね。殺人未遂だけれど、性犯罪がらみで、被害者がまだ高校生でしょ? 女である私の出番だと思ったんだけど……」
 難しいわね、と佐々木は、頭をかいてみせる。
「どうしても、感情移入してしまうわ。上からは、もう会うのはやめるよう、いわれているんだけれど」
「わかるよ。被害者に同情し過ぎると、捜査に支障がでるからだろ」
「良く知っているのね」
 彼女は目を丸くした。
「アニキが、静岡県警の警察官なんだ」
「本当? 仲田君、お兄さんがいるんだ」
 へえー、と何が嬉しいのか、佐々木は横で、にこにこしている。久志はじっと、池の中を見つめた。暗い水の中で、鯉が静かに泳いでいる。
「佐々木さん、そんなに間違ってないよ」
 え? と彼女は声をあげた。
「雪代はものすごく、頭がいい。ものすごく頭がいいから、上手く生きていけない」
「何だか、禅問答みたいね」
「オレには、わかるんだ。アイツの頭ん中には、こむずかしいことが、イッパイ詰まってっけど、それがアイツを、ワケわかんなくさせてるだけなんだ」
 かたわらで佐々木は首をかしげ、じっと考え込む。
「それって……彼女が絵を描くことと、何か関係がある?」
 思いついたように彼女がいい、久志は笑った。
「頭イイね。やっぱ刑事って、感じかな」
「大人をからかわないで」
 佐々木は立ち上がると、久志に笑いかけた。
「捜査をしながら、東光一高関係者から色々な話を聞いたけれど、誰もが口をそろえて、彼女は天才だって、いうの。でもそれは数学の話よね」
「アイツが本当にスゴイのは、絵だよ」
 久志は足元から小石を拾い上げると、池に投げ入れる。ぽしゃん、と小さな音がして、水の上に丸い輪が広がった。
「自分の絵ばっか、描いてる」
「自画像ね。上手なの?」
「上手かって?」
 久志は片眉を吊り上げ、佐々木に鋭い目を向けた。
「上手いなんて、モンじゃないよ。オレは絵のコトなんて、わかんねえけど、アイツの絵を見てると……」
 少し間を置いて、久志はいった。
「真っ暗い場所で、何かを見て、笑ってるんだ。思わず、その世界へ引きずり込まれそうになる」
「彼女は……何を見ているのかしらね」
「知らね」
と、素っ気なく答えて、久志はベンチから立ち上がった。
「オレの絵も、描いてた。雪代らしくねー絵だったけど、すごく、すごく、いい絵だった」
 ――オレが台無しにしちまったけど。
 そういって、大きく伸びをすると、久志は制服のポケットから携帯を取り出し、時間を見た。
「そろそろ、戻らねーと。反省会、抜けてきちまったし、今から寮に戻ってメシ喰ったら、走り込みもしなきゃなんねーから」
「午前中、試合をしたのに、まだ練習するの?」
 驚いたようにいう佐々木へ、久志は笑っていった。
「あったりめーだろ。運だけで、甲子園の土、踏めるワケねーよ。そういう野球バカしか、行けねートコなんだから」
「口が悪いのね」
 佐々木は笑い声を上げた。
「何かあったら、連絡しても、いいかしら」
 いいよ、と久志は佐々木と、携帯のメールアドレスと番号を交換した。
「ねえ」
 佐々木は携帯をバッグにしまいながら、久志にたずねた。
「あなた、女の子と付き合ったことないんじゃない?」
 少しドキリとして、
「どーして?」
と、平静を装い、聞きかえす。
「だって、恋愛じゃないだの、付き合ってないだの」
 ミエミエなのに、と佐々木はクスクス笑う。
「好きって、ちゃんといってあげるのよ」
 またね、と去っていく佐々木を見送りながら、久志は顔を赤くしたまま、
「お疲れっしたっ!」
と、大声を出した。
 佐々木が振り返り、右手を振る。久志も左手をズボンのポケットに入れたまま、残る右手だけを、ほんの少し、あげてみせた。
(好きだなんて、オレにはいえない)
 今日、病室で半裸の雪代を見た。大きな胸のふくらみと、少し開いた足の間が目に入り、久志はひどく、動揺したのを覚えている。
 ――アイツも、女なんだ。
 当たり前のことが、あまりにも生々しくて、上手く納得できなかった。
 雪代にとって一番の不幸は、女に生まれたことではないだろうか。男に生まれていれば、心も体も傷つけられるような目に、遭わなかったかもしれない。
 そう考える一方で、自分も彼女の中に入れば、思う存分気持良くなれるのだと、わかっていた。雪代が女で、久志が男である限り、必ずぶち当たる、壁のようなものだ。
 だからこそ、口にしてはいけない言葉があった。
 病院を離れ、学校へ戻る途中、久志は再び携帯を取り出すと、一番最初に登録している番号を呼び出す。静岡で暮らす母親に電話をし、雪代のことを頼むつもりだった。