ジーニアス・レッド 第十三話 雪代の過去(2)

 気が付くと眠っていた。目が覚めた時、部屋には照明がともり、早くも夕食が配られていた。
「三浦さん」
 声をかけられ、雪代は布団から恐る恐る顔を出した。
「起きたのね。気分は、どう? 不自由はない?」
 佐々木という刑事だった。病院に運び込まれた直後から、雪代の事件を担当している。
 彼女はカーテンをひき、外から見えないようにすると、高級そうなブランド物のバックを開けた。
 中から袋を取り出し、
「はい、これは新しい下着。もうすぐ退院だから、古い下着は、その時に捨てちゃおうか」
と、脇にある小さな棚に、持ってきたものを手際よくしまう。
 家族の面会はなく、何も入院の用意がないことを伝え聞いたのか、仕事帰りに、こうして雪代の面倒を見てくれている。
「ナースステーションで聞いたわよ」
 彼女はイスを引き寄せて、腰を下ろすと、雪代に笑いかけた。
「学校の野球部員達が、優勝報告に押しかけて来たんですって? エースの仲田君は、私も新聞やニュースで見て、顔だけなら知っているわ。あなたとお友達なんて、少し意外だったけれども、いいところあるじゃない」
 良かったわね、といい、彼女は雪代の顔にかかる髪に触れ、やさしくかきあげた。
「今日はね、報告があるの。犯人の松山が昨日、殺人未遂で起訴されました。一ヶ月ぐらいしたら裁判も始まります」
 事務的な口調でありながら、顔には深い同情が、ありありと現れていた。
「残念だけど、あなたから聞かされた10年前の事件は、立件が不可能だったわ」
 わかっていたことだけど、と彼女は悔しそうに顔を歪める。
「いいんです」
 雪代はぽつりと、つぶやくようにいった。
「良くないわ。そのせいで、あなたは子供を産めない体になったのよ」
「つい、話しただけ。それに……あの時あたし、喜んでたから」
 バカをいっちゃいけないわ、と佐々木は語気を荒げた。
「あなたはまだ、小学2年生だったのよ。しかも相手は高名な画家で、何食わぬ顔して、今も画壇に君臨している。ご両親もお金でごまかされたか、相手の威光に恐れをなして、知らぬフリをしたのよ」
 いいすぎたと思ったのか、すぐに「ごめんなさい」と彼女は頭を下げたが、さらに声を震わせて、いった。
「私は絶対に許せない。そんな小さな子供に、乱暴するなんて」
 毎週のように通っていた、絵画教室を思い出す。母親にすすめられ、通い出したが、絵を描くのが楽しくて、しようがなかった。
 ある日、彼女は先生に別室へ連れて行かれ、服を脱がされた。
 ――絵のモデルになってね。
 あの時、先生は60代前半といった、年だったのだろうか。小さかった雪代には、良くわからない。
 教室へ顔を出すたびに、雪代は裸でキャンバスの前に立った。先生は美しい絵を描き上げ、彼女を抱きしめた。
 ――君は、可愛いね。
 雪代はその日、足の間を真っ赤に染めて、家に戻った。母親が半狂乱で、雪代を病院へ連れて行ったのを、覚えている。
「ご両親は、そんな事実はなかったって、いい張るけれど、あなたには生理がない。あまりにもひどい暴行を受けて、子宮が損傷を受けたのよ。ここのMRIで検査をした際にも、それがハッキリと映っていて、お医者様も、検査をした技師も、ひどく心を痛めていた。それは紛れようもない、事実だわ」
 あの時以来、両親は喧嘩を繰り返し、父親は雪代を腫れ物にでも触るかのように接している。
   母は一年中、長袖の服と丈の長いズボンを雪代に着せ、絶対に肌を見せるなと、繰り返しいいきかせた。それは小学校を卒業するまで続き、中学校にあがってからは、ヒステリックに口やかましいだけで、雪代のいうことに、全く耳を傾けようともしない。
「お母様は、一度も病院にいらっしゃっていないそうね」
 雪代はうなずいた。
「私は、虐待もあったと思うの。だってそうでしょ? 年頃の女の子が、おしゃれもできず、一年中、男の子のような格好をさせられていたのよ。食事だって、一日にたった一度きりだったんでしょ?」
 あなたの体が小さいのは、そのせいだわ、と佐々木は憤懣(ふんまん)やるかたない口調でいう。
「でも、あたし……胸は大きい」
 何度も母親にいわれた。
 ――体ばかり大きくなって。どんなに勉強ができたところで、あなたはいやらしい子よ。
「誘ったのは、あたし。絵の先生も、松山先生も」
 違うわ、と佐々木は盛んに首を左右に振った。
「絵の先生は、少女を犯すことを何とも思わない、許し難(がた)い変態だった。松山は、美術部に払う部費がないからと、相談に来たあなたへ、美術部に入らなくてもアトリエが使えるようにしてあげると、言葉巧みにだまして、暴行へと及んだ」
 いいえ強姦だわ、と佐々木は唇を噛んだ。
「だから学校から処分されたのよ。なのに、あなたが新聞に載ったのを見て、逆恨みした挙げ句、学校の校門で、しかも大勢のメディアに囲まれた状態で、あなたを刺して、殺そうとまでしたのよ」
 でも、と雪代は目を伏せた。
「あたし、体も売った」
「性犯罪に走りやすい、解離性同一性障害も、レイプ被害者の典型的な症状よ。あなたは決して、望んでセックスをした訳じゃない。それに、あなたの両親は、娘であるあなたが、自由にお金を使うことを、全く許さなかった。楽しいはずの中学生活も、友達と遊ぶことさえなく、あなたは学校を往復するだけだったんでしょう? 売春が正しかったなんて、いわない。でも、絵を描きたいと自分の子が望むなら、それをさせてあげたいと思うのが、普通の親なのよ」
 いい? と、佐々木はそれまで何度も雪代へいったように、同じ言葉を繰り返した。
「性的犯罪の被害者は、自分が悪かったと思いがちなの。でも、それは違うのよ」
 雪代は佐々木の顔を、まじまじと見つめた。この人は本当に優しくて、いい人だ。仕事を離れても、こうして自分の心配をしてくれる。
 わかりました、と小さく返事をした時、
「あらー、仲田君!」
と甲高い声がしたかと思うと、看護婦によって、カーテンが開かれた。
 まくり上げた白いシャツの袖からのぞく、がっしりとした筋肉質の手を、黒いスラックスの両ポケットへ無造作に突っ込んだ、制服姿だった。黒のコンバースを履いた両足を開いて、身構えるように、立っている。普段でもキツめに見える、二重の目が、真っ直ぐに雪代を見ていた。
(久志!)
 驚いたのは雪代だけではなかった。かたわらの佐々木も、
「いつから、そこにいたの?」
と、顔色を変えた。
「少し、前から……」
 彼らしくない、曖昧な言葉づかいだった。
 佐々木はすぐに立ち上がったかと思うと、病室の真ん中に突っ立っている彼の腕を取り、廊下へと連れ出した。
「血圧を測りますよ」
 看護婦が、いつになく優しい声でいうのを聞きながら、雪代は右腕を出す。
 慣れた手付きでカフを巻き、空気を注入すると、すぐに又、空気を抜く。その間、雪代の腕に聴診器を押し当て、耳を澄ましている。
「次は検温です」
と、カフを外し、彼女は体温計を雪代に手渡した。
 手にしていたカルテへ数値を書き込みながら、廊下に目をやり、
「仲田君、なかなか帰ってこないわねえ」
と、ため息混じりにいう。
 体温計が音を発すると、雪代はそれを、つっけんどんに突き返した。
「はい、おしまいです。ちゃんと、食事を済ませてね」
 彼女が病室を出て行く時にいい、雪代はテーブルの上を見た。試しに|器《うつわ》のフタを取って、中味を調べてみる。どろっとしたお粥が見え、スプーンで触れてはみたが、ほんの少しかき混ぜただけで、口にしなかった。
 スプーンを放り投げ、ベッドへ寝ころぶと、病室を見渡す。口の中で、二倍角公式、三倍角公式、半角公式と、思いついた公式を順番に唱えた。
 退屈を持て余し、雪代は点滴の針が刺さる、左腕を見た。薬剤が流れる管の中に、逆流していく血が、うっすらと渦巻いている。その色が、雪代の心を落ち着かなくさせた。
 力ずくで針を腕から抜き取ると、ベッドの下へ投げ捨て、立ち上がった。
 食器がのったトレイを持って、廊下へ出ると、久志と佐々木の姿を探す。
「あの娘だよ」
と、無遠慮にいう声が聞こえた。
 振り返ると、廊下に長イスが置かれていて、年配の女性が3人、雪代と同じ青の寝間着姿で座っていた。
「刺されて重体だって、ニュースじゃ、いってたけれど、ぴんぴんしてるじゃない」
「外国のエライ先生と知り合いなんだよ。テレビで見たけど、外国語をベラベラしゃべっていたからね」
「テレビで見た方が、よっぽど美人さんに見える」
「実物はまあ、小さいこと。やせっぽちで、浮浪児(ふろうじ)みたいじゃないの」
「でも、よく見てご覧なさいな。おっぱいも、お尻も大きい。ありゃ、安産型だね」
「あんな子供に熱を上げて、学校をクビになるなんて、バカな教師がいたもんだ」
「自慢の生徒だったんだろうけど、あんな綺麗な子に言い寄られたら、先生も断れないよ」
「最近の高校生は怖いねえ」
「刺したのは、ほら。有名になったあの子を新聞で見て、先生も逆上しちまったんだろ?」
「まあ、あの子のせいで、人生を台無しにした訳だから」
「これだから、ませた子供は困るよ。まあ、いい薬になっただろうね」
「本当だねえ。子供が大人をからかっちゃいけないよねえ」
 ひそひそとしゃべっているつもりだろうが、耳の遠い年寄り達だ。おのずと声も大きくなりがちで、話している内容も、全て筒抜けだ。
 彼女達を無視し、配膳用のワゴンにトレイを戻すと、雪代は洗面所へ向かった。
 蛇口を開けっ放しにして水を流しながら、洗面台に両手を突くと、頭を垂れる。吐いても、吐いても、むかつきは治まらなかった。
 深く体を曲げたせいか、手術をした傷口までもが、ずきずきと痛み出す。
「大丈夫か?」
 背中をそっと、さすられた。
 激しい呼吸を繰り返しながら、床へとしゃがみ込み、肩越しに振り返る。自分を覆い尽くしてしまうほど、大きい体をした久志が、雪代の後ろで膝を開き、しゃがみ込んでいた。
「無理やり点滴を抜いたな。血が出てんぞ」
 見ると右腕の針を刺していた場所から、赤い線を描いて、血が流れ出ていた。
「病室戻って、看護婦さんに入れ直してもらえよ」
 必死で頭を左右に振ると、
「世話のやけるヤツだな」
と、膝の後ろと背中に腕を回され、抱きかかえられた。
 雪代は腕を伸ばして、首にしがみつき、
「絵が、描きたい」
と、いった。
「もう少し、我慢しろよ」
 なっ、と体を揺すられる。
「病室で、久志をフルボッコにしてやる」
「優等生の使う言葉じゃないなー」
「絵を黒くされた、仕返し」
「いちお、ピッチャーだからさ。体は勘弁な。顔だけにして」
「ふつう、ぎゃく」
 ははは、と笑う彼の肩に、雪代は顔を埋め、しゃくりあげる。
「泣いて……なんか、いない……から」
「そういうことに、しといてやる」
 子供のように、むせび泣きながら久志の背中を叩くと、彼の唇が額に触れた。