ジーニアス・レッド 第十二話 雪代の過去(1)

 風に揺れるカーテンのひだを、目で追う。ゆっくりと布が動き、微分方程式を体現するかのように、ベクトルが垣間見えた。
「三浦さん、また残したの?」
 正面に視線を移すと、看護婦が雪代をにらみつけている。
 宙に浮かんで見えたはずの、連続対力学を連想しながら思いついた数字や記号が、あっという間に消え失せた。
「もう動けるんだから、自分で片づけてください」
 ほとんど口もつけていない、昼食がのったトレイを、看護婦は面倒くさいとばかりに、派手な音をたてて、テーブルから下げていく。
 雪代はうつむき、体を固くした。
 入院して、もう10日になる。たまに現れる医師達は事務的な優しさで、しょっちゅう現れる看護師達は忙しさに苛立ちながら、接してくる。
 時間がたてば、事件の被害者であろうが、何であろうが、彼女は口をきこうともしない、扱いづらい患者でしかなかった。
「置いて行きますよ」
 違う看護婦がやって来て、今度は熱いタオルがテーブルの上に置かれた。
「白いタオルが、体用。青いタオルが、お下(しも)用」
と、繰り返し同じことを、毎日のように告げられる。
 ため息をつきながら床に足を着けると、雪代は点滴の針がささったままの腕を伸ばし、ベッドのまわりを囲むカーテンを閉めた。
 看護婦に体を拭かれる清拭よりはマシだが、使用済みのタオルを、廊下の決められた回収箱へ出しに行くのが、億劫だった。
 病院にはヒマな患者達が大勢いて、入院中の退屈しのぎとばかりに、雪代が現れるのを、廊下で今か今かと、待ちかまえている。
 ガウンのような、病院から着用を強制されている青い寝間着の前を開くと、雪代は嫌々ながらタオルを肌にあてた。
 入浴はおろか、シャワーさえ許されない今は、どうあっても我慢するしかない。
「うわーっ、 すごいじゃなーい」
「ほんとっ、スゴイわねー!」
「コレ持って、エレベーターに乗れたの?」
「ええ、本物っ? ねえ、見せて、見せて」
 病室の外で、にぎやかな声がする。騒がしさはどんどん増していき、さすがの雪代も、体を拭きながら、何事かと顔を上げた。
 すると突然、カーテンが勢い良く外側から開けられた。
「雪代! 見ろよっ、コレ!」
 あ、と互いの口から、小さな声がもれる。
 驚きのあまり、動けなかった。それは目の前にいる彼も一緒で、続いてやって来た看護婦は、硬直したままの二人を見て、すぐにカーテンを閉じた。
「ダメじゃない、仲田君。きちんと最初に声をかけないと」
「あはは。急いでたもんで」
 薄い布一枚をへだてた向こう側に、久志がいる。あの、『誰も使わない、宿直室』で、会って以来のことだった。
 信じられなくて、呆然としていたところ、
「ねえ! いい加減に服を着たら、どう?」
と、隙間から看護婦にのぞきこまれ、雪代はあたふたと、寝間着の前を閉じ、ヒモで結んだ。
 雪代の血管と、薬剤をつなぐ管をたぐり寄せ、キャスター付きの点滴台を倒さぬよう注意しながら、ベッドを降りる。
「よっ。元気だったか」
 カーテンを開けると、満面の笑みを浮かべた久志が、大きな旗を手に立っていた。土にまみれた試合用のユニフォーム姿で、紫色に東光一のイニシャルであるTの白い文字が入った、野球帽をかぶっている。
 試合後にスパイクから履き替えたのだろう。足元の白いシューズだけが、汚れひとつなく、まぶしくみえた。
「優勝したぞっ!」
 手にした旗を掲げ、久志が大声を出す。下手をすれば、天井に穴があきそうだ。はらはらしながら、雪代は旗を仰ぎ見る。
 金色のフサがたくさん付いた、緑色の巨大なもので、金の仰々しい刺繍が、ほどこされていた。先端にはたくさんの白く、細長い布がいくつもぶら下がっていて、そのひとつひとつに校名が書かれている。
『平成21年度 優勝 東光第一高校』と記された布を、久志はつまみ上げ、にっこりと笑った。
「優勝旗に負けず劣らず大きいわねー、仲田君」
「病室が異様に狭く感じられるわ」
 いつの間にやって来たのか、大勢の看護婦達が彼を囲み、談笑し始める。気が付けば雪代の病室は、たくさんの人で、あふれかえっていた。
「まさか試合後、そのままここに来たの?」
「試合って? 今の時期は甲子園じゃないでしょう?」
「ええっ、じゃあコレ、なんの優勝旗なの?」
 彼らの質問には何も答えず、久志はただ、雪代の手をとり、窓際へと連れて行く。
「おーいっ!」
 彼女の隣で、窓の外へ身を乗り出すと、久志は帽子を手にし、振り回す。おーっ、と地響きのような声が返ってきた。
 病院の前にバスが一台とまっていて、東光一高の野球部員達が、そのまわりで久志に向かい、こぶしを振り上げていた。
   突然のお祭り騒ぎに、病院へ出入りする人達が何事かと彼らを振り返り、あちらこちらの窓からも、次々に人が、顔を出す。
「春季関東大会で東光一高、優勝しましたーっ!」
 部員の誰かが大声でいい、病院中から盛大な拍手がわき起こる。
「ありがとうございましたーっ」
 部員達が一斉に帽子を取り、頭を下げると、「おめでとう」の言葉が、方々から飛んできた。
「うっわー、派手な報告会だな」
と、久志は嬉しそうにいい、窓から離れた。
「閉会式が終わって、学校に帰る途中なんだ。監督に無理いって、寄ってもらった」
 つばを後ろに、帽子をかぶり直し、
「真っ先に、雪代へ報告したかったからさ」
と、照れくさそうにいう。
 何と答えればいいか、わからず、雪代は床を向いた。
「ここって面会時間、何時までっすか?」
 久志が聞き、
「9時よ」
と、看護婦が明るい声で、答える。
「雪代、また後で」
(また、後で?)
 慌てて顔を上げた彼女の前で、
「おじゃましましたー」
と、大きな声で挨拶しながら、肩に優勝旗をのせ、彼は病室を出て行った。
「ちょっとーっ! 三浦さん、仲田君と付き合ってるのっ?」
「ええー、ちょっと、やだ、ホントーっ?」
 雪代は窓の外に、目を向ける。早くも外に出た久志が、こちらを見上げたかと思うと、手を振り、バスに乗り込んだ。
 今度来たらサインもらおうよ、と無邪気に騒ぐ看護婦達を尻目に、雪代は窓から離れ、ベッドへもぐりこんだ。
 裸まで見られたうえ、下着もつけていない、薄い寝間着一枚の姿で彼の前に立たねばならなかった。
 お腹と右胸に貼られた、大きな白いガーゼを痛ましそうに眺めたあと、彼の視線がほんの一瞬、どこに向かったか。思い出しただけで、恥ずかしさに全身が熱くなる。
「三浦さん、タオルさげとくわね」
 看護婦の、この言葉を最後に、部屋はあっという間に静けさを取り戻す。
 雪代はベッドの中で固く目を閉じ、うずき出す傷の痛みをこらえた。
 10時間以上に及ぶ手術の末、何とか一命は取り留めた。幸い、傷の治り具合も良く、あさってには退院できるといわれたが、自宅に戻っても、1ヶ月は安静を保つよう、指示されている。
(家に……帰りたくない)
 邪魔者扱いされるのが、わかっている。
 病院からも、救急に搬送されてから丸一日経って、ようやく父親だけが現れ、入院の手続きをしていったと、聞かされた。病室にも一度顔を見せたきりで、母親と妹にいたっては、姿も現さない。
 看護婦や医師から、退院の日にはご家族が迎えに来るんだよね、と困り顔で念押しされていた。
 Ploymonial-time、そして Nondeterministic Polynomial-time を、考える。
 ――P≠NP or P=NP
 証明に至っていない、数学の難題だ。どんな問題にも解決法があるのだとして、それを見つける過程が単純なのか、複雑なのか。それさえも、予測不可能ということだ。
 数字の世界でさえ、そんなものだ。自分の悩みをいくら嘆いても、そう簡単に解決なんか、できるはずもない。
 雪代は枕に顔をうずめ、考えることをやめた。