ジーニアス・レッド 第十一話 ジーニアスレッド

 畳に触ってみる。ほんのりと、彼の温もりが残っていて、雪代はその上に、丸くなって、横たわった。
「バカ」
と、口にして、よくわからなくなる。
 ――どうして今になって、あんなことを久志に告げなければ、ならなかったのか。
 そっと唇に、指で触れた。
 ほんの一瞬、乱暴に唇をぶつけられ、離れていっただけだ。そんなキスをきっかけに、レギュラーになるまで会わないと、彼がいった、その理由を、彼女はずっと恐れていた。
 寝返りを打ち、色あせた畳の上に顔を伏せる。
(バカは、あたしだ)
 お互いの気持ちを確かめ合う必要なんか、最初からなかったのだ。時間を置いて、それが紛れもない事実となる前に、終わらせるべきだった。
 彼の笑顔が、見たかっただけ――そんなものは、いい訳に過ぎないと、何よりも彼女自身が一番良くわかっていた。
 野球強豪校の球児達はクリーンで、ストイックなイメージを押し付けられながらも、その中味は普通の高校生と、何ら変わりない。恋愛だってするし、羽目を外して騒ぐこともある。
(でも、あたしは彼と、付き合えない)
 過去に売春をした事実が、万が一にも世間に知れ、衆目を集めでもしたら、大変なことになる。
 もちろん野球部員である、本人の不祥事でない限り、高野連から罰せられるようなことはないだろう。
   けれども世間の目は違う。
 彼をそういう醜聞に、絶対巻き込んではならなかった。
(そんなこと、最初からわかっていたことなのに)
 ゆっくり起きあがると、頭が重くて、体も思うように動かなかった。それでもようやく部屋を片づけ、ブレザーを羽織り、バックパックを背負うと、まぶたを閉じる。
 アイボリーブラックを薄く、白いキャンバスに広げ、ウルトラマリンブルーを重ねた上に、カドミウムレッドをのせ、混ぜ合わす。
 鮮やかな赤は紫色に染まり、やがて黒と化して闇にのまれ、雪代はひとり、残される。
 暗い世界へ何もかもが、消えていき、まわりは静寂に包まれた。
 雪代は目を開ける――そう、全ては元に、彼と出会う以前に、戻っただけ。
 上履きをはくと、ためらうことなくドアノブをひねり、部屋を出た。
「三浦君! こんなところにいたのか」
 声をかけられ、何事かと顔を上げた。少し先にある、校長室前の廊下には校長や、他にも大勢の人がいて、一斉に彼女を見ていた。
「君、一人か?」
 校長が用心深く、雪代の出てきた部屋の方を見やった。そこで過去に行われた出来事を、決して忘れていないと、その目が語っている。
 彼女はただ何もいわず、黙ってうなずいた。
「三浦さん、探していたんだよ」
と、別の男性がいったのを皮切りに、
「ブライアン・トーマス博士が、君の名前を謝辞に載せたんだ。たった今、新聞社から連絡があって、大騒ぎになっている」
「前代未聞だよ、日本の高校生が、フィールズ賞最有力候補の学者が発表した論文に、謝辞とはいえ、名前を連ねるなんて」
周囲にいる者達が、矢継ぎ早に興奮した声を出し、雪代へと身を乗り出してくる。
 怯えたように、彼女が胸の前で両手を固く握り締めているのに気付き、
「酒井事務局長も、蒲田先生も、副校長も。みんな、ちょっと落ち着きなさい」
と、校長がその場をいさめた。
「君はハーバード大学の、トーマス博士を知っているね?」
 聞かれ、雪代は首を縦に振る。
 ブライアン・トーマスのことだと思った。フラクタル幾何学の研究者で、彼の論文を読んだ記憶がある。
「去年の夏、彼宛にレポートを送ったそうだが」
 間違いないね、と再び念を押され、ようやく彼女は思い至った。
 レポートというよりは、手紙のようなもので、いくつかの疑問点を書き送っただけだ。どうせ相手にされないだろうと思いつつ、せっかく思いついたのだからと、ハーバード大学の住所に、博士の名前を記して郵送しただけの、簡単なものだった。
「トーマス博士は今、来日していて、講演を行う予定なんだが、君のことを探しているらしい」
 ぽかんとした顔の雪代へ、事務局長の酒井という男が、さらに早口でまくしたてる。
「封筒には、うちの学校名と君の名前が記されていただけで、博士は連絡先がわからず、来日に際してインタビューを受けた先の新聞記者に、君のことをたずねたらしい」
「この新聞記者から、うちに問い合わせがきたんだよ。今日の夕刊で、君のことを取り上げたいとも、いっているんだ」
 彼女の担任である蒲田が、顔を紅潮させて、いった。
「午後の授業は出なくてかまわないから」
 とにかく校長室へ、と雪代は背中を押された。
(トーマス博士のアクノリチに、あたしの名前が?)
 アクノリチというのは、論文の最後に記される、謝辞のことだ。たいていは資金を出資してくれた団体や、大学関係者、もしくはディスカッションを行った相手など、論文の執筆に貢献した人々に対する、感謝の言葉がつづられる。
 雪代が校長室で、さらに知ったことを要約するならば、博士は彼女が送った手紙を読んで、新しい理論を思いついたらしい。そこで著名な数学専門誌にも掲載されることとなった、その論文のアクノリチに、雪代の名を記したのだ。
「いやあ、うちの学校始まって以来の快挙だ。そういう高名な学者に連なる形で、新聞に生徒が紹介されるなんて」
「本当に、素晴らしいですね。これで進学校としての名声も、ますます高まります」
と、誰もが満足げに会話を交わす。
 その中にいながら、胃のむかつきが酷くなるのを、彼女は感じた。
 やがて新聞社から電話があり、受話器を渡されると、たちまち床へと座り込む。もしもし、と向こうの声が聞こえる中、たまらず胃の中のものを吐きだした。
 当然のことながら、校長室はハチの巣をつついたような騒ぎとなった。
 校長が受話器を拾い、状況を説明する横で、雪代は自分の指先がどんどん冷たくなっていくのがわかる。
(天才は常に孤立して生まれ、孤独の運命を持つ)
 雪代の脳裏に、突如として、ヘッセの「ゲーテとベッティーナ」の一文が、浮かんだ。
 ――嫌だ!
 声にするよりも早く、校長室を飛び出していた。
 夢中で走り、気が付くとアトリエにいた。幸いなことに美術の授業は、行われていない。自分をのぞけば、誰もいないことがわかり、胸を撫で下ろす。
 いつもの場所に座り、深呼吸をした。胸に油絵の香りが満ち、混乱した頭も落ち着きを取り戻す。
 最近描き始めた自画像を前にしながら、ふと、その先の壁が視界に入り、息を止めた。
 わずかに赤い部分が残る、真っ黒な絵が立てかけてある。それは間違いなく、つい3日ほど前に筆を止め、描き上げた証拠としてサインを入れた、あの絵だった。
 ぺしゃんこになったアイボリーブラックのチューブが、すぐ足元に転がっているのを見つけ、呆然と拾い上げる。
 やがてすぐに立ち上がると、急いで下描き中の絵を降ろし、黒くなってしまった絵をイーゼルの上に置いた。
 ナイフを使って、黒い絵の具をそぎ落としていく。さらにオイルで黒色を薄め、ぼかしていくと、タオルやペーパーで吸い取った。
 長い時間を費やし、考えつく限りの作業を繰り返したが、鮮やかな赤は、もう戻らなかった。
 ――本当に消えてしまった。
 雪代がさっき想像していた、赤が黒と化し、闇にのまれていく、その暗い世界が、今まさに、目の前にあった。
 ――オレとオマエだけは違う。
 雪代の絵を認め、そういってくれたのは、誰だったか。思い出そうにも、頭がそのことについて考えることを、拒否していた。
 どうしたら、いい? どうしよう。
 醜いほど、彼女はうろたえた。
 ――もう絵なんて、描けない。
 自分を成していた大切なものは|露《つゆ》と消え、どこにでもいるバカな人間に、自分は成り下がってしまうのだ。絵を描くために、体さえ捨ててきたのに、気が付けば、心までも、どこかに置き忘れてしまっている。
 雪代の中で、何かが壊れた。
 彼女は校長室へ戻ると、きちんと謝り、再度、新聞社へ電話をして欲しいと、頼んだ。そして記者と話をし、博士の連絡先も教えてもらう。
 校長の許しを得て、彼女は博士の滞在先に電話をすると、英語できちんと挨拶をした。新しい理論の登場を歓迎し、それが世間に向けて発表されたことに対する、お祝いの言葉をのべる。そのあと博士とは、ひとしきりメンガーのスポンジを語り、その生みの親であるカール・メンガーを称え、数式のやりとりまでした。
 受話器を置いた時、周囲にいた誰もが、彼女の流ちょうな英語に、そして何よりも、初めて聞く、雪代の堂々とした話し声に驚き、感嘆していた。
「明日の夕方、博士は成田からアメリカへ帰られるそうですが、その前に、この学校へ寄られるそうです」
と、彼女は告げた。
 誰もが我に返り、博士を迎える準備や、プレスリリースをどうするかといった、相談を始める。雪代が教室に戻っていいか、たずねると、あっけないほど簡単に、それを許してくれた。
 それから後のことを、雪代はよく、覚えていない。
 教室へ入ると、拍手で迎えられたし、家に帰ったら、珍しく父親が興奮した面持ちで、彼女を待ちかまえていた。『日本の高校生、快挙 著名数学者にひらめき与える』と見出しのついた新聞記事を指差し、雪代の背中を何度も叩いたかと思うと、冷めた顔の母親をけしかけ、あちこちに電話をさせた。普段なら近寄っても来ない妹が、学校で自慢するのだと、親しく声まで、かけてきた。
 この後は、ごっそりと記憶が抜け落ちている。次にはっきりと覚えているのは、翌日の、校門での出来事だ。
 光沢のある、派手なスーツとネクタイに身を包んだ、ずんぐりとした体型の黒人男性を、雪代は校門で出迎えた。
「I finally found you, Yukiyo!」
「It's very nice meeting you, Dr.Thomas」
 前日の新聞記事が早くも話題となり、博士のまわりには、様々な新聞や雑誌の記者、果てはテレビ局までもが同行していて、盛んに雪代と博士が談笑する様子を、カメラにおさめていた。
 その時だった。彼女は誰かに肩を叩かれ、後ろを振り向く。すると何かが音もなく、雪代のお腹へ吸い込まれるように、のめり込み、離れていった。
 真っ赤な水滴が、あたりに飛び散り、光を浴びながらキラキラと輝く。それを見ながら、彼女は激しい痛みに襲われた。
 今度は胸に刺さるものを、見つける。それがナイフだと気付いた時、雪代の目に映る世界は傾いていた。
 にぶい音をたてて、コンクリートに頭を打ち付ける中、激しい悲鳴と、あたり一帯に響き渡る怒号を聞く。人々が走り回り、大声を出す様子が、真っ赤な世界を通して、見えていた。
(この色は、何だろう)
 見たことのない、赤色だ。あまりにも、美しくて、ぴったりの言葉がみつからない。
 だったら、こう呼ぼう。
 A genius red――非凡な赤。
 自分だけが見つけた、この色に、これ以上ふさわしい名前は、きっとない。