夏草薫る 第二話 梅雨の晴れ間

 中津村から、加代より三つ年上である兄の加平が、鈴木の屋敷まで彼女を迎えに来た、その日は、梅雨の時季には珍しく、朝からよく晴れていた。
 二人は揃って鈴木家を後にすると、武家屋敷を抜け、にぎやかな商家の立ち並ぶ通りを歩いた。やがて寺町に入り、道は雑木林の中へと続いていく。
 加代は林の中の緩やかな下り坂を歩きながら、兄から結婚相手について、色々と聞かされた。
「半田村宮大工の棟梁、長野徳右衛門家次の長男で、名を荘吉という。二十六になる、宮大工としての腕も立つと評判の男だ」
 連日の雨でぬかるんでいる道を注意深く進む加代は、黙ってうなずく。
 じいさまの隠居所も彼が手がけた、と説明されたところで思い出し、兄にたずねた。
「中津村の隠居所へ、大和守さまが、お忍びでお寄りになったとか」
「殿さまが? じいさまの隠居所へ?」
 そんな馬鹿な、と笑い出す加平に、
「江成さまが、そうおっしゃていました」
と、加代が付け加え、ようやく兄も思い至ったようであった。
「以前、加代が奉公していた江成家の、良忠さまのことか」
「ええ」
「確かに隠居所へ参られたことがあった。昨年の春、大和守さまが江戸からご帰国された折のことだ」
 そうか覚えているぞ、と興奮した口ぶりになって、加平は語り出した。
「思えば妙な身なりだった。筒袖の百姓じみた格好をした、あれが……。江成さまとお二人で、じいさまを前に水路の話を、熱心にしていらした」
 実はな、と兄が声をひそめ、加代もいっそう耳を傾ける。
「近いうちに小屋が建てられ、人足や道具も集められる。相良川から水を引く、かなり大きな工事が始まるのだ。藩をあげての大事業になるだろう」
 中津村はたびたび洪水に襲われ、水田が砂に埋もれていた。復興させるには、かなりの難工事となるが、成功すれば3万坪もの荒地が水田となる。
(江戸へ行かれた際、堤防と用水路の新しい工事法を、多一郎さまは学んでいらっしゃった)
 思わず足を止める加代に気付き、
「どうした、加代」
と、加平が訊いた時、遠くで馬の駆ける音がした。ひづめが激しく地を蹴り、近づいてくるのを察すると、二人は慌てて林の中に足を踏み入れ、道を空ける。
 たちまち現れた見事な馬が、目の前でいななき、動きを止めたかと思うと、乗っていた武士が、飛び降りて来た。
 常着に袴を着け、脇差だけを腰にした、何者かわからぬ風体である。
 彼はすぐさま加代に目を留め、
「なるほど。これは器量良しだな」
と、馬の手綱を持ったまま、白い歯を見せた。
 続いて小姓なのか、やはり馬に乗った武士がふたり、姿を見せ、そのうちの一人が良忠と気づくや否や、加代は地面に膝をつき、平伏した。与力である彼が、火急の用に馬を駆ってまで、伴(とも)をする人物など、容易に想像がつく。
 ほう、と最初に馬を降りた男は、加代の頭上で面白そうにいった。
「おまえは、おれが何者かわかっているのか」
「はい。御城主の大和守重久さまにございましょう」
 彼女が答えた途端、後ろで何事かと見守っていた兄も、地面に両手をつき、頭を擦りつけた。
「良忠っ、この者に違いないな!」
 大声で笑いながらいう藩主に追い付いた良忠が、馬を下り、駆け寄って来る。
「おまえがいったとおり、賢い娘のようだ。あとのことは、頼んだぞ」
「それでは……」
「良い! 気に入った!」
 たったそれだけを良忠へいい残し、重久は再び馬に乗ると、手綱を鳴らした。上り坂を苦ともせず、疾駆する馬を、良忠と連れだって来た、もう一人の別の小姓が追いかける。
 残された加代は立ち上がり、去りゆく二頭の馬を見送った。
「これは、一体どういうことですか」
 ふらふらと立ち上がった加平が、戸惑いも露わに良忠へ問いかけ、加代も馬の首を撫でる彼に顔を向ける。
 加代は、といいかけ、加代どのは、といい直した良忠は、
「城中へ召し上げられます」
と、加平へ振り返り、告げた。
「追って城より沙汰があると思いますが、彼女は今から、本多さまの家にお預けとなります」
「それは、まさか……」
 顔色を変えた加平へうなずいてみせる良忠の口から、
「殿の御側室となられるのです」
と、言葉が発せられ、加代は目を伏せた。
(私は重久さまの側女となるのだ)
 彼女が預けられる先は、城代家老を勤める本多和正が当主である、本多家なのだろう。恐らく加代はそこの養女となり、身分を整えたうえで、御殿にあがるのだ。
「加代殿の連れには、急ぎ中津村の亀原家へ知らせて欲しい」
 重々しい口調に圧倒されたのか、加平はただおろおろするばかりである。
 兄さま、と加代はりんとした声でいった。
「父さまと母さまに、よろしくお伝え下さい。おじいさまにも、せっかくの縁談を断らねばならないことを、深く詫びて下さい」
 加代、と彼女の名を呼び、兄は目に涙を浮かべた。
「わかった。これが今生の別れとなるのかもしれないのだな」
「兄さま」
 加代と加平は互いの両手をとり合った。
 どうか達者で、といい、涙を拭う加平に、
「くれぐれも内密に願いたい。亀原家の者以外に、口外は一切ならぬ」
と、いう良忠の声は苦しげで、表情にも二人を憐れむ様子が見てとれた。
「荷物はどうしましょう」
 肩越しに背中を見る加平へ、
「持ち帰るがいい。加代どのは、身ひとつで向かわれる」
と、良忠はただちに答えた。
「それでは、くれぐれも加代のことを、よろしくお願いします」
 深く腰を曲げる加平に、良忠も深く首を縦に振り、応じてみせる。そうして彼は、加代の視界から兄の姿が消えてなくなるまで、何もいわず、その場に留まり続けた。
 雨が木々の葉を叩き始め、加代は空を見上げる。あんなに青かった空が、いつの間にか厚い雲に覆われていた。
 馬の手綱を手近な木の幹へとくくり付け、良忠は加代の手を引く。
 二人は大きなケヤキの下で、しばし雨をしのいだ。
「許してくれ」
 長い沈黙のあと、不意に良忠が口を開いた。
「私は加代を、出世の道具にした」
 泥に汚れた着物の裾へ、加代は視線を落とす。
「鈴木家が一人娘のために、侍女を探していたことは知っていた。加代をそれとなく鈴木の家に目通りさせ、侍女として上がらせたばかりか、それをきっかけに私は早苗どのと親しくなった」
 いわば婿入りの話を引き寄せたのだ、と良忠は自嘲気味に語った。
「側室の話も同じだ。江戸にいらっしゃる殿の御正室つる姫さまは、ご病弱で、結婚して五年になるが、未だ子ができない。殿は跡継ぎが欲しいと焦っておられる。だったらと、加代を推したのは、この私だ」
 雨はまもなく弱まったが、道には細い水の流れが幾筋も出来ていた。良忠と並び、木の下に立っていた加代は、それを見ながらいった。
「中津村で、相良川の堤防と水路の工事が始まるそうですね」
 夢のよう、とつぶやき、良忠を見上げる。
「多くの民(たみ)百姓が救われることでしょう」
「相良川の治水は藩の急務だ。中津村の工事は、ほんの手始めにしか過ぎない」
 彼の返事は冷たく、突き放すようなものだったが、加代にはわかっていた。
 ――部屋住みの私には、彼らのつらい気持ちがよくわかる。田畑のない者に、何とか開墾する土地を、分け与えたい。そのためにも、加代がいった中津村の荒地を、何としてでもよみがえらせたい。
 若き日の良忠がいった言葉を、今でも覚えている。
 ――良忠さま、あなたは決して加代を出世の道具になど、していません。
 加代は胸の奥で、そう彼に語りかけながら、あの夏祭りの日のことを思い出していた。