夏草薫る 第一話 雨上がる

 朝から降っていた細かい雨もやみ、庭の紫陽花が太陽の光を浴びて、鮮やかな色を放っていた。
 加代は花の稽古に必要な道具を入れた包みを手に、早苗の部屋へ向かう。
「お嬢さま、お支度のほうはお済みですか」
 ええ、と振り向いた早苗は、桔梗色に百合の花をあしらった単衣に身を包んでいた。おっとりとした顔つきに、隠しきれない喜びの笑みが浮かんでいる。
「では、参りましょう」
 加代がいい、二人は連れだって通りに出ると、坂下邸へと歩いた。以前は出稽古に来ていた師匠の志保が住まう屋敷で、すでに老齢となった彼女を、今では早苗が加代をお供に訪ねる形となっている。
 一町半を過ぎたあたりで、早苗がそわそわとしだし、加代も自然と地面を見る。やがて向こうから月代をそり、黒い紋付きの羽織に両刀を差した袴姿の武士が現れると、早苗は顔を赤らめて立ち止まり、丁寧に辞儀をした。
 やはり足を止めて、相手も頭を下げる。町奉行与力の江成良忠で、勘定方奉行である江成正治の次男だ。
 良忠は幼少より学問と剣の双方に優れ、藩主である大和守重久にお側小姓として召し抱えられるまでとなった、評判の人物である。若くして与力にあげられ、重久から命ぜられるまま様々な奉行所を転任していた。武家の次男としては異例の、役料まで与えられている。
(多一郎さま……)
 通りの脇へ寄り、加代は深く腰を曲げる。
 加代と同い年である彼は、幼名を多一郎といった。
 早苗付きの侍女を探していた鈴木家へ、ちょっとした用事で手伝いに行った際、機転の利くところを気に入られ、奉公することとなった加代は、かつて江成家の上女中であった。
(とても気さくで、お優しい方だった)
 元服する前の多一郎であった良忠を良く知る加代にとって、早苗の稽古に付き添い、出仕途中の彼と毎度のように顔を合わせることは、苦痛でもあり、胸躍ることでもあった。
(もう二度と、お会いすることもない)
 出世頭である彼は、すでに代々家老職を勤める鈴木家に婿入りが決まっている。加代が仕えている、鈴木隆久の一人娘、早苗と近々祝言をあげるのだ。
 複雑な思いを抱いたまま、それでも顔色ひとつ変えない加代の前で、早苗も良忠も、まったく言葉を交わさないまま、すれ違っていた。
(早苗お嬢さまの、引っ込み思案な気質と幼さには、困ったものだ……)
 良忠にひとめ会いたいが為だけに、こうして花の稽古へいそいそと通っているというのに、頬に手をあててうつむき、恥ずかしがるばかりだ。そんな早苗に加代は眉をひそめ、次いで立ち去った良忠を肩越しに振り返る。
「加代」
 同じくこちらを振り返っていた彼から名前を呼ばれ、加代は飛び上がるほどに驚いた。江成家を出て早苗の侍女となってから、彼に声をかけられたことなど、一度も無い。
「国元へ帰るそうだな」
 はい、と小さく返事をする加代に代わり、早苗が早口でしゃべり出す。
「良い縁談がまとまったのです」
 小走りに良忠へ駆け寄り、彼女は耳まで真っ赤にしながら、ようやく見つけた話題が途切れないよう、懸命であった。
「今までも縁談があったのに、加代は断り続けておりました。私よりもふたつ上ですから、もう20です。寂しくなりますが、そろそろ嫁に行かねばならぬ歳です」
 話し続ける早苗をさえぎり、
「在所は相良川の向こう、中津村だったな」
と、良忠は加代に視線を移し、問いかける。
「はい」
「ご隠居は息災であろうか」
 加代の実家である亀原家は領内きっての富豪で、年貢の取りまとめをも請け負っていた。隠居の文右衛門はなかなかの知恵者で、当主の座を加代の父に譲ったのちも広く力を発揮し、郡奉行でさえ何かあれば、必ず彼に相談するほどである。
「健在です。このたびの縁談も、祖父が世話してくれました」
 そうか、と良忠が腕を組んで、考え込む様子に、加代は不安を感じた。
「祖父が何か……」
「いや。殿がお忍びで領内を回られた際、大変世話になった」
 礼を申すよう頼まれ、うなずく加代を前に、彼はあるかないかの笑みを顔に浮かべる。
「加代は……鈴木家に仕えて何年になる。二年か、三年か」
「四年ですわ。良忠さまのところから、加代が当家に来ましたのは、私が14の時でしたから」
 そう告げる早苗は、良忠より格上にあたる家柄の娘でありながら、へりくだった態度で彼に接していた。惚れ込んだ弱みなのか、良忠が許嫁(いいなずけ)となった今も、甘ったるく、恋する生娘そのままな声を出す。
「そうか。うちを出て、もうそんなになるのか」
 良忠が低い声音でいい、加代も感慨深かった。14歳で村を出てから、すでに6年もの歳月が過ぎ去っている。
「本当なら、あなたさまと私の祝言を見届けてもらってから、送り出したかったのですけれども」
 無邪気な早苗に、良忠はいたわるような、優しい眼差しを落とした。加代にはそれが、どこか取り繕っているように見える。
「出立はいつになる」
 良忠に問われ、目を伏せた加代は、小声で答えた。
「明朝にお屋敷を発ちます」
「明日……ずいぶんと急だな」
 黙ったまま、加代はいっそう背中を丸める。
「早くに迎えが来るようです。卯の上刻には家を出たいと申しておりますから」
 早苗が口を挟んだところで、二人の若侍が通りかかり、良忠に対して丁寧な挨拶をした。それを機に話は打ち切られ、良忠は通り一遍の挨拶を済ますと歩き出し、路地を曲がっていった。
 早苗も加代を伴い、先を急ぎながら、
「今日は良忠さまと、たくさんお話ができました。加代のお蔭です」
と、頬を紅潮させたまま、浮かれている。
「いずれ毎日のように顔を合わせ、話をするようになりますよ」
 加代の適当な相づちを聞いても、早苗は袂で口元を覆い、初々しく笑っていた。目をそばめ、加代は道の両側に立ち並ぶ組屋敷に顔を向ける。
 そこかしこに咲いている可憐な卯の花が、目に痛いほど白く、ぼやけて見えた。