A SPOOKY GHOST 第九話 奈緒を語る(3)

「高口さんもいっちゃいなよ。奈緒が好きだって」
 口の中で氷を噛み砕きながら、悪びれることなくハルイチがいい返し、川上は歯を見せて笑った。
「今日のハルイチは、妙にテンション高えな。高口さんはトレーナーだからわかる。でも何で、お前まで絡む? 同じ学校だからか?」
「うーん。やっぱアイツのコト認めてるからかな。オレは何度も奈緒とマスやスパーをやってんだけど、ワンツーからボディとか、左フックから右ストレートとか、きちんと決めてやるんだよ。傍目には何をトロトロやってんだろって感じなんだろうけど、すっげえ勉強になるんだ。だから自然と名前で呼び合うようにもなったし、ケッコウ親しいつもりだったんだ」
 でもさ、とハルイチはほんの少し頬をふくらませた。
「リングの外じゃ無口だし、ムスっとしてて愛想もねえし、まるで他人っていう雰囲気なんだよ。高口さんと奈緒のことについて話してた時、同じ高校だって知っただけでもスゲエ驚いたんだけど、いざ登校したらクラスまで一緒でさ。ホントびっくりしたな」
「学校で、どんな風よ?」
 川上が興味津々に質問すると、ハルイチは椅子の背に寄りかかり、しばし口をつぐんだ。
「空気みたいっつうか……全然目立たねえよ。ハブられてる感じもすっかな。女ってさ、ちょっと気に入らねえと無視すりゃいいのに、わざわざ意地悪したりすんじゃん」
「いじめられてんのか」
「イジメってホドでもねえけど……」
 歯切れの悪いハルイチの返事を聞き、何となく想像できたのか、「あの子、空気読めねえんだ、きっと」と川上は苦笑混じりにいった。
「それ以前に人の顔を覚えねえんだよな、アイツ。最初に学校で会った時なんか、オレのことわかってなくてさあ。正直ムカついた」
「奈緒は他人に興味ないからな」
 いつも口をへの字に結んでいる彼女の顔が思い出され、高口は口元に小さく笑みを浮かべた。
「そうなんだよなあ」と、ハルイチは感じ入ったようにうなずいた。
「それにアイツ、ボクシングやってんの、学校で内緒にしてたみたいなんだ。ソレを大っぴらにバラしちまったオレも悪いんだけど、ますます変わりモン扱いされてるのが、何だかなあ」
「いつかばれるものさ。そもそもオレが、学校での奈緒の様子を見てくれと、ハルイチに頼んだのが事の発端だしな。悪かったよ」
 気まずそうに打ち明けるハルイチに同情し、高口は横から言葉を添えた。
「ああ、ソレはいいんですよ。お蔭でオレも学校へ行くようになったし、少しだけど奈緒とボクシング以外の話をするようになったしね」
 アイツ案外いいヤツですよ、とハルイチは恥ずかしげにタコスをつまみ上げ、口に運んだ。
「ふうん。面白い女」
 川上がいい、高口も首を縦に振った。
「ジムでも学校でも大人しい奴なのに、拳を振り回すとああも変わるところが、奈緒の不思議なところだな」
「本当です。俺とハルイチが惚れるのに、相応しいヤツです」
 吹き出しながらも、川上へうなずいてみせ、「まずは明日だな」と、高口はいった。
「さっきも明日がどうとか……何だ?」
 川上が問い質し、ハルイチは食事を頬張りながら返事をした。
「奈緒が完膚なきまでに、叩きのめす」
「誰を」
「橋野さん」
「よりによって、橋野?」
 驚く川上が視線を移した先で、高口は涼しい顔をしてみせた。
「スパーリングだよ。例の、金曜恒例のさ」
「橋野はプロテスト経験者です。体格差もありすぎる」
「テストは落ちたけどね」
 皮肉めいた口調でいい、狭い店の中をあっちこっち忙しく立ち回る美由紀を、ハルイチは見やった。
「女同士でやんなら西本さん相手が一番イイんだろうけど、彼女じゃレベルが違い過ぎるからさ」
「そういう問題じゃない」と、混乱した顔つきで川上はいい返した。
「橋野と奈緒は……そういう関係なんだろ? こないだの飲み会で、橋野もいってたじゃねえか」
「オレは、あり得ねえと思うな」
「ジムで奈緒と噂になっているのを知っていて、いっている事さ。注目されるためなら、何だってする奴だからな」
 ハルイチと高口が次々と答えては深くうなずき合うのを見て、川上も納得したらしい。
「なるほど……標的は橋野ですか」
 ため息混じりにいうのを聞いて、高口が小さく笑みを洩らし、川上はさらに首を横に振った。
「……アイツも不器用なヤツだ」
「不器用っつうより、ボクシングをバカにしてる」
 ハルイチは憤慨した口ぶりとなった。
「奈緒には絶対いわねえけど、アイツの嘘は最低だよ」
「何でいわねえの?」
 訊いてすぐわかったのか、「なるほど」と、川上は声を出さずに笑った。
「優しいじゃねえか、ハルイチ。奈緒を傷つけたくないってか?」
「別に……そんなんじゃねえけど」
「上手い事だまされてんだろ。ヤツの本当の姿を、奈緒は知らねえんだな」
「知ってたら、好きになるワケねえよ」
 不満も露わにいうハルイチがテーブルに頬杖を突き、口を尖らせる。川上は楽しそうに、そんな彼の様子を眺めながら、「俺も明日はジムに顔を出そうかな」と、高口を横目に見た。
「どうしたんですか?」
 声を押し殺して笑う高口に気付き、ハルイチは眉をひそめた。
 いや、と右手を軽く顔の前で振り、「明日は大丈夫なんだな?」と、高口は口元に笑みを残したまま、訊いた。
「小林の出稽古に付き合って、さっき帰ってきたばかりだから、今日は奈緒と顔を合わせてないんだよ」
 わかり易い焼き餅を目の前にして、つい笑ってしまったのだと告げては、ハルイチもばつが悪いだろう。高口はさりげなく話をすり替えた。
「知っての通り、奈緒は目立つのを極端に嫌がる子だから、不安といえば、不安なんだ」
「いつも通り六時に上がってたけど、帰り際にちょこっと声かけたら、明日はいったん家に帰って、七時頃ジムに来るっていってました」
 合点の行かない表情をしながらも、ハルイチは素直に答えた。
「なるほどな。とうとう覚悟したか、アイツも……」
 安堵した声で高口がいい、サラダを口に入れると、川上やハルイチもテーブルの上にある料理を平らげた。
「今日は豪華な顔ぶれですね。日本王者に、ジム一番のホープ、そして敏腕トレーナー」
 ピッチャーを手に美由紀が現れ、グラスに水を注ぎながら、いった。
「ジム一番のホープ? オレが?」
 口の中の食べ物を飲み込んだハルイチは、きょとんとして、彼女を見上げた。
「そうよ。中倉会長が新人王を狙える逸材だって、この間の飲み会で春山君のコト、すっごい褒めまくってたんだから」
「へえ……」
「嬉しくないのか?」
 川上が意外そうに訊ね、美由紀もピッチャーを持ったまま動きを止めた。
「いや、嬉しいです。でも……」
「でも、なあに?」
 美由紀が眉根を寄せて訝しみ、ハルイチも鼻の頭を掻く。
「変な春山君」
 美由紀は曖昧な笑みを残し、テーブルから離れて行った。
「オレが新人王を狙えるなら……」
 ハルイチが小声でいい、「そうだな」と高口は腕を組み、仰々しく告げた。
「奈緒は日本王者か」
「でも女子は日本ランキングがない……東洋太平洋王者、いや、世界王者だ」
 川上が続き、テーブルは笑いの渦に包まれた。
「オレだけじゃなく、奈緒にも目を向けて欲しいよなあ。噂するばっかりじゃなくてさ」
 ひとしきり笑い、やがて悔しそうにハルイチは片眉を吊り上げた。
「だからこそ、会長と宮園マネージャーが二人揃ってジムにいる日を選んで、明日と決めたんだ」
 自らへいい聞かせるように、「きっと上手くいく」と、高口は声を強めた。
「大丈夫。強えヤツが絶対だから。ボクシングの世界は」
 川上が断言するようにいい、高口もうなずいた。
「絶対か……。だったら、あの薄気味ワリィ強さに、どうしてみんな気付かないんだ?」
 どこか刺々しくいい放ち、ハルイチは顔を背けた。ずっと不可解に思っていながらも、回答を見つけることができない。そんな彼の苛立ちが垣間見える横顔に向かい、「男より強い女なんて、幽霊みたいなもんだ」と川上が答えた。
「見えるヤツには見える。見えないヤツには見えない。でも一度見たら、絶対にその存在を信じる」
 高口は苦笑いをしたが、川上のたとえが突飛でもない事を、心の奥底では認めていた。
 ――― 幽霊のような、奈緒。
 店の窓を叩く冷たい雨の音を聞きながら、高口だけでなくハルイチと川上も、いつしか押し黙っていた。