A SPOOKY GHOST 第八話 奈緒を語る(2)

 チャンピオンの姿を写真に収め、にこやかにお礼をいい、去っていく人々を見送った川上は、野菜とポークビーンズがはみ出しそうなぐらいたんまりと入ったタコスに手を付けた。
「注目されて、悪い気はしません。でもボクシングが人気っつうのは、嘘です」
 食事をしながら川上がいい、高口もうなずく。
「どこも興行が厳しいって話だからな」
「資金集めも苦しい。世界戦も話題にならなきゃ、チケットをさばけない。それが現実です」
「マッチメイクも難しいだろうな。世界戦はファイトマネーだけじゃなく、渡航費や滞在費の問題もある」
「そこへいくと、奈緒の場合はチャンピオンが待つといってます。こっちがやる気になれば、何とかなるかもしれないです」
 川上もいつしか奈緒のことを呼び捨てにしていた。おまけに『世界』という言葉がポンポン飛び出してくる。
 ハルイチは吹き出し、手にしていたフォークで皿を叩いた。
「高口さん、川上さん。かなりヘンだよ、ソレ」
 ジムの先輩を前にして、ずっと丁寧な言葉遣いだったハルイチだが、あまりにも可笑しかったのか、ざっくばらんな口ぶりとなっていた。
「誰だってプロになるヤツは世界を目指すんだろうけど、いきなり世界戦をやるっつう前提でプロになるヤツなんか、フツーいねえよ」
 高口も川上も口をつぐみ、やがて一斉に笑い出した。
「おめえが世界王座のベルトとかいったろ、馬鹿」
 照れたように笑っていい、川上はタコスに喰らい付く。
「本当だな。プロの連中が聞いたら、怒り出すところだ」と、苦々しく笑いながらも、高口は低くつぶやいた。
「でもな……アイツは本物だと思う」
「わかりません。スパーだけやたら強くて、試合じゃ全然だめ。そんなヤツ、珍しくねえから」
 川上へうなずいてみせた高口は、「とにかく明日だな」といい、ハルイチを見た。
「奈緒の様子はどうだ?」
「すっげえ気合い入ってますよ。体重まで絞って、今ヨンナナらしいです」
「四十七キロ……奈緒の身長は?」
 川上が首を傾げ、ハルイチを見る。
「オレとほとんど変わんねえかな」
「ハルイチ、おめえはよ」
「オレ? 百六十三です」
「女と男じゃ違うし、個人差もある」と、高口は話に割って入った。
「一概にはいえないが、奈緒の場合はパンチ力を着けようと、筋肥大を狙って、体重を増やし過ぎた時期があったからな。多少の減量は必要かもしれない」
 ハルイチは深く首を縦に振った。
「オレ、アイツの弁当見たことあるけど、めちゃくちゃ量が多かった。プロテインも飲みまくってたみたいだし、ちょっとヤリ過ぎな感じはしたなあ」
「ボクサーが体重に気を付けるのは当たり前。だけど、プロでも何でもない奈緒がウエイトを気にするのは、無意味です」
 プロボクサーには付き物である減量に毎度苦しめられている川上は、呆れたようにいった。
「川上のいう通りだ。それにアイツの身長や女子ボクサー達の現状から考えると、ヨンナナっていうのは少し無理があると思う。体脂肪率が八パーセントっていうのも……」
 そういって口を閉じた高口が顔をしかめ、ハルイチと川上は顔を見合わせた。
「体脂肪率?」
 川上が訊き、高口は「生理がないと相談された」と答えた。
「生理……」
 いってすぐにハルイチが頬を赤らめ、川上も答えに窮したのか、困ったように視線を泳がせる。
「奈緒がいうには、体脂肪率を低く抑える選手に良く見られる症状で、本人もあまり気にはしていないようなんだけどな……」
 説明をしながら高口も目を伏せたが、思い直し、顔を上げた。
 女子ボクシング担当トレーナーがいないジムの女性は、プロテストを受けられない。奈緒の育成に本気で取り組むつもりなら、医事講習会へ参加し、専門知識を身に付ける必要があった。生理など女性特有の話題からも、男だからといって、逃げることは許されない。
「女子は妊娠反応検査が義務づけられているし、コミッションドクターで女性を診る医師もいる。いずれは診察を受けて、問題があるかどうか、確認するつもりだ」
 川上はテーブルの上にあるナプキンを一枚抜き取り、口を拭くと、長い息を吐いた。
「驚いた。高口さんが、そこまでいれこむなんて」
 奈緒が好きなんですね、と続け、片方の耳を高口から強く引っ張られた。
「ち、違う! 恋愛とか、そういうんじゃなく……!」
 あたふたと騒ぎ出した彼は、上着こそ脱いでいたが、濃紺のスーツに黒いシャツを合わせ、紫色のネクタイをしていた。頭は丸刈りで、眉を剃り、アゴにヒゲを蓄えている。
 ハルイチと高口はジャージ姿だったが、川上を囲んでいると、荒くれボクサーの集まりにしか見えないのだろう。店にいた客達が何事かと三人に目を向け、慌てたように、すぐまた視線を逸らす。
「じゃあ、なんだよ」と、高口は耳から指を離し、凄んだ。
「俺は奈緒が好きです」
 赤くなった耳をさすりながら話す川上は、威圧感のある外見とは裏腹に丁寧ないい方をしただけでなく、大胆な台詞を吐いた。
 面喰らって固まる高口とハルイチへ、「ボクサーとしてです」と念を押すようにいい、「見て下さいよ」と店の中を見渡した。
「若い女の子がたくさんいんじゃないですか。みんな綺麗で可愛い格好をして、楽しそうに話をしながら、食事をしている」
 ハルイチが黙ったままうなずき、高口はグラスを持った。中の水が揺れるのを、ただ静かに眺めながら、川上の話に耳を傾ける。
「きっと奈緒は違う。生理が止まるくらい激しいトレーニングを、一人でしてんです。しかも毎日なんじゃねえかな」
「ボクシングをやってる奴なんて、みんなそうだろう?」
 高口はグラスを置き、椅子の背もたれに肘をかけると、川上を斜めに見た。
「奈緒だけが特別じゃないさ」
 突き放すようないい方をしながらも、頬が緩んだ。川上は奈緒の本質を良く捉えている。誰に認められる訳でもなく、確かに彼女は一人で努力を重ね、その才能を開花させようとしていた。
「男ならわかる。鍛えた体と力を見せつけてリングの王様になるのは、格好いいです。プロボクサーは男を売る商売だし」
「わかる。すっげえわかりますよ、川上さんのいってるコト」
 ハルイチのあどけない反応を横目に、わざと高口は投げやりな態度でいい放った。
「でも奈緒は女だ」
「だから俺、思うんです。あの子、ボクシングが根っから好きなんだろうって。格好いい、悪いを抜きにして、ボクシングにハマりまくってるんです、きっと」
「確かにハマると強烈ですよね。パンチだけでもすっげえ種類あるし、ディフェンスワーク、ステップワーク、コンビネーション。とにかく覚えることがたくさんあって、ひとつモノにするたびに次はコレ、そんでもって次はコレ、みたいに延々と練習し始めたら最後、やめらんなくなる」
 瞳を輝かせるハルイチが、高口の中で奈緒と重なった。
 ランナ・コムウットとスパーをして帰途につく車の中で、ハンドルを握る高口を、助手席に座っていた奈緒は、何かいいたげに見つめていた。その目は眩しい光を放っていて、迂闊に話しかけることを躊躇ったほどだ。
 目を細めてハルイチに見入る高口の前で、川上が派手に両手を打つ。
「やれる。最後はそう思う。気が付くと、ボクシングのない毎日が、想像できなくなっちまう。そういう奴は話をしなくても、練習を見てればわかる。」
 川上は暴力事件を起こして高校を中退し、ボクシングの世界に飛び込んできた、典型的なやんちゃ坊主である。根気強く高口は彼を指導してきたが、強くなるにつれて言葉遣いや態度まで変わっていき、ついには日本王者となった。中倉会長のスポーツ理論に基づいた教えと、生活態度から改めさせる育成方法が功を奏したのだが、川上自身が持つ天性の勘の良さによるところも大きい。
「俺はジムで、女の子が可愛くないボクシングやってんの、ずっと気になってました。うざいぐらい、殴り合うのが好きって叫んでましたから」
 そんな彼だからこそ、饒舌に物事を語ることのない奈緒の、聞こえるはずのない叫びが聞こえたのかもしれなかった。
「実際に強いかどうかはわからない。でもボクシングに惚れ込んで心の底から頑張ってるヤツ、俺は好きです」
 高口とハルイチを交互に見据え、いい切った川上は、タコスを再び口にし、ニッコリとした。
「オレも……奈緒のコトが好きだな」
 水に浮かぶ氷をつまみ上げたハルイチがはにかんでいい、高口は腕を伸ばした。
「お前がいうと、今ひとつシャレにならないな」
 ハルイチの額を軽く叩き、「変な噂、立てられんなよ」と、以前に会長からいわれたことを、そのまま口走っていた。