A SPOOKY GHOST 第十話 プロへの切符

 奈緒は雨の中を、Tシャツとハーフパンツの上にレインコートを羽織った姿で、家からジムまで走ってきた。
 時刻は夜の七時をまわったばかりで、がさがさと音をたてながらビルの階段を上がると、大勢の人間がトレーニングに取り組んでいた。
 金曜日の夜はプロ選手を中心としたスパーリングが優先とあって、彼女がいつも練習する四時台や五時台とは、顔ぶれが全く違う。おまけに女というだけで場違いと感じてしまうほどに、ジムは男熱(おとこいき)れ臭かった。
 靴を脱いで、隠れるように練習場の脇を通り過ぎると、奈緒は三階へ上がった。
 女性用の更衣室には、予想した通り、人っ子一人いない。ホッとしながら肩からバッグを降ろし、早速着替えに取り掛かった。
 トレーナーの高口から、今日のスパーは試合だと思い、全力で挑むよういい含められている。とびっきり目立つ格好で来いともいわれた。
 ローブローガードとチェストガードを馴れない手付きでがっちり身に付け、白いタンクトップを着込むと、真っ赤なトランクスを穿く。
 赤を身に付けるのは、自らを奮い立たせるためだった。リングの赤コーナーがチャンピオンサイドと呼ばれるように、奈緒にとって赤は強さの象徴だからだ。
(あたしのボクシングは通用するんだろうか)
 スパーリングについていえば、男性が女性を相手にする場合、顔面への攻撃は禁止していた。いわゆる『姫スパー』と中倉ジムでは呼ばれている、体力差を踏まえたルールだが、奈緒にとってはあまり意味を成さないと高口は考えていたようだ。暗黙のうちに、実戦形式のスパーを奈緒に限り、認めていた。
 公式では禁止されている男女の組み合わせということもあり、奈緒なりにどんな動きをするか綿密に打ち合わせたうえで、かなり激しい攻撃をパートナー相手に繰り広げたことがある。そんなスパーであっても、ここ半年はハルイチとしかまともに打ち合った覚えが無く、女である奈緒を相手に、彼が本気を出していたとも思えなかった。
 寸止めが原則のマスボクシングについても、多少なら当たっても良いと大まかに捉えているジムもあるらしいが、絶対にパンチを当ててはならないと中倉ジムでは厳密に取り決めていた。距離感とコンビネーションを確実に体へと記憶させるためで、これならば男女で組んだとしても、さほど問題はなかったが、実戦とはほど遠いものだ。
 ジムに入門して一年と二ヶ月が経つが、試合に縁のない奈緒とって、これでは本当の意味で自分の強さを推し量る機会などなかったに等しい。
 ――― あの時を除けば……。
 彼女は床へ放りっぱなしだったスポーツバッグに腕を伸ばすと、中からクシとジェル、そしてヘアスプレーを取り出した。
 ランナ・コムウットのボディにめり込んだ拳の感触が記憶に蘇る中、奥の化粧台へ行き、鏡の前で丁寧に髪を結い直した。
(ランナはキレイだった)
 クシと整髪料を使い、きっちり頭を撫でつける。
(美人で、ボクシングも強くて……)
 タンクトップ、ハーフパンツ、ショートサイズのリングシューズ、全てが黒で彩られ、美しいピンク色の唇が笑みと共に妖しく光っていた。そんな彼女の姿が、いくら忘れようとしても、心に焼き付いたまま離れない。
(あたしは彼女に追い付ける?)
 買ったばかりの赤い口紅を持ってきて、ぎこちなく唇に塗り重ねた。
(どうやったら、彼女ともう一度打ち合える?)
 アザは消えたが、顔面に受けた激しい痛みは、未だ奈緒の中でくすぶり続けている。
 ――― ボクシングを続けるしかない。
 化粧台の上を片づけて、再びバッグに手を入れた。
 マウスピースの入ったケースを、まずは取り出す。高口から紹介された歯科医院で作ってもらった、スポーツ用の特注品だ。そして昨夜磨き上げたヘッドギアやグローブ、リングシューズもバッグから出し、次々と床に並べた。
 奈緒は土日のバイトで貯めたお金を、これらの高価な品々に、惜しみなく注ぎ込んだ。人を殴り、傷つける為の対価だと考え、買い揃えることに、何の躊躇いもなかった。
 ――― ボクシングを続けて、いつか……。
 バッグをロッカーへしまい、リングシューズを履くと、全ての用具を腕に抱え上げ、更衣室を出た。
 ――― ランナ・コムウットと決着をつける。
 目指す相手はただ一人という、それは偏狭で無謀な考えだったが、ボクシングを続ける理由として何よりも分かり易かった。
 ハルイチから告げられた『高口から指導を受けていることの意味』についても、考えることを放棄し、どうでもいいと片付けていた。彼の勝手な思い込みや都合に振り回されることなく、奈緒自身がボクシングの世界でいかにして生き抜き、前へ進んで行くか、決意を固めることの方が、はるかに大切だった。
(今日のスパーリングで、恐らく何もかも決まる)
 階下へ下り、練習場に足を踏み入れた瞬間、痛いほど多くの視線を浴びた。試合さながらの格好で、しかも女の子が現れたら、注目されない方がおかしいと奈緒もわかっている。
 かまわず奥へ進み、空いている棚に道具を並べ終えると、練習場の隅にある休憩室へ入った。
「こんばんは」
 部屋には三人掛けのソファがあり、そこに腰かけていた西本美由紀から声をかけられた。
「こんばんは」
 小さく頭を下げて挨拶を返すと、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、腰を下ろした。
「変わったバンデージね」
 洗い古したガーゼの包帯を指に巻き付け始める奈緒を、美由紀は物珍しげに見ながらいった。
「ひょっとして、包帯?」
 ソファに座ったまま膝の上で頬杖を突き、「ねえ、どうしてそんなのを使うの?」と、しつこく訊いてきて、奈緒も根負けしたように答えた。
「バンデージは厚く、きつく巻きたいから」
「緩んできたりしない?」
「市販のボクシング練習用バンデージじゃ長さが足りないし、あたしはコッチの方が固く巻けるから好き」
「ふうん。人とは違うんだね、やっぱり」
 妙に突っかかるいい方をする美由紀から視線を外し、奈緒はバンデージを巻くことに専念した。
 下を向いたまま腕を動かし、「うっす。あれ、西本さん。なんで着替えてねえの?」と部屋に入ってきた者がいても、顔を上げなかった。
「今日は見学なんです。それにしても、ようやく名前を覚えてくれたんですね?」
 はしゃいだ声を出す美由紀へ、男は「俺も今日は見学」と、さして関心もなさそうに相づちを打っていた。
「本格的だな」
 男に手元をのぞき込まれ、上目遣いに顔を見た途端、奈緒の体に緊張が走った。
「どうせならテーピングするか。今テープとハサミ、持ってきてやる」
 そういって部屋を出て行った彼の後ろ姿を、奈緒は呆然と見送った。
 ――― 日本スーパーライト級王者、川上健二。
 彼を知らなかったら、さすがに同じジムの練習生として、恥ずかしい。
「日本王者の川上さんをパシリに使っちゃうんだ。すごいねー」
 美由紀に嫌味をいわれ、奈緒は我に返った。
「昨日さあ、高口さん、春山君、川上さんの三人がサパトノーボに来て、遠藤さんのこと噂してるの聞いちゃった」
 サパトノーボというのは、恐らく、彼女がバイトしている店の名前だ。うろ覚えだが、何度か小耳に挟んだことがある。
「どうしたら、そんなに気にかけてもらえるの? 大人しいフリして、影では男の人に甘えてるんでしょ。オマケに相手を選んで媚びを売るなんて、ちょっと卑怯じゃない?」
 高校生のクセしてちゃっかりしてるのね、と美由紀がいい放ったところで、一分間のインターバルに入ることを知らせる、ブザーが鳴り渡った。
 どやどやと部屋に入って来たジム生達が、奥の冷蔵庫へ向かう。それぞれが扉を開けては閉じ、すぐまた練習場に戻って行く。
 そんな人の流れから離れた片隅で、ひっそりと奈緒は右手のバンテージを巻き終え、左手に取り掛かっていた。
「よう、奈緒」
 肩を叩かれ顔を上げると、ハルイチが立っていた。反射的に彼の背後を見やると、美由紀はソファで隣り合って座る、見知らぬジム生と談笑していた。さして気にする必要もないのに、彼女の視線がどこへ向いているのか窺ってしまうのは、神経質になっている証拠だ。
「次のラウンドで出られっか?」
 汗まみれのハルイチは手にしていたペットボトルを傾け、中味を口にしたのち、荒い息遣いそのままに訊いてきた。
「出られる」
 左手にきつくバンテージを巻き付けながら、わざと奈緒は素っ気なく答えた。
「待たせたな。巻き終わったか?」
「あれ、川上さん! ホントに来たんだ」
「おう。それよかハルイチ、セコンドの邪魔すんな」
 川上がハルイチをふざけ半分に押しのけ、奈緒の右腕を取ったところで、再びブザーが鳴った。
「川上さん、奈緒、また後で!」
 慌ただしくハルイチが飛び出して行き、川上はバンテージの巻き終わりを、持ってきた白いテープで素早く止めた。残る左腕も強引につかみ上げ、あっという間に包帯を巻いてしまう。
「よし、握ってみろ。ズレはねえな? ハサミを入れた方がいい所あるか?」
 左手もテープで止めてしまうと、川上は真面目な顔つきで、奈緒に問いかけた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 椅子から立ち上がり、拳を前に突き出して具合を確かめた奈緒は、川上に頭を下げた。
「川上さんがセコンドに付くスパーって、何だかスゴそう」と、遠くから美由紀がいった。
「怯んで打ち合わなかったら、ボディに俺のパンチ、ぶち込んでやる」
「高校生の女の子相手にですかあ? 大人げないですよ」
 美由紀と川上が笑いながら話し始めるのを待たず、奈緒は部屋を出た。
 川上にとって奈緒は、顔にほんの少し見覚えがあるといった程度のはずだ。セコンドに付いてもらうほど親しくされるいわれはないし、美由紀に絡まれるのも、もうたくさんだった。
 練習場は蒸し暑く、様々な音に溢れていた。誰もが息苦しいほどに自分を追いつめ、真剣過ぎるほどに、真剣だった。
 奈緒はジムの壁に吊り下げられているロープを一本取り、空いているスペースを見つけると、ぺこりとお辞儀をした。
「練習始めます」
 お約束の言葉を口にして、縄跳びを始めた。ストレッチは家でみっちりとしてきたし、走って来たのだから、ある程度体も温まっている。しかし、男ばかりの集団にあって物怖じせずとも、緊張はあった。
 準備運動のつもりで、重い皮のロープを最初はゆっくりと飛んだ。次第に集中力が増してくると、スピードは速まり、床を叩く足のリズムも複雑になる。
 軽やかにスキップしながら、奈緒の心はリングへと飛んだ。
 すらりと伸びた、長い手足のランナが跳ねている。こまめに上体を揺らし、強弱をつけた左が次々と飛んで来る合間、信じられない速さのワンツーが的確に急所を狙ってくる。
 リーチにおいて分の悪い奈緒は、ガードを上げて彼女を迎え撃つ。上半身を低くしてランナの懐へ飛び込み、体に頭を押し付けながら、ボディに連打を入れる。
 ランナはひらりと体を入れ替え、見る見るうちに距離が開いていく。パンチを出せば、打ち終わりが狙われるだけでなく、カウンターまで合わせられる。
 ――― とてつもなく速い、右ストレートが来る。でも、もう一度飛び込もう。もう一度飛び込んで……。
「奈緒!」
 ロープの唸る音に混じり、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。グローブを触る人や、リングの周辺で話し込む人の姿が視界に入り、現実の世界へと引き戻される。
「奈緒っ!」
 もう一度名前を呼ばれ、ようやく動きを止めた。照明が反射する床の上を、人々が行き交っている。インターバルに入ったのだと悟った奈緒は、慌てて額の汗を指先で拭った。