A SPOOKY GHOST 第七話 奈緒を語る

 梅雨入りし、朝から冷たい雨が降り続いていた。
 ジムを出た高口の向かった先は、メキシコ料理がメインのダイニングバーで、朝の四時まで営業している店だ。歩いて五分ほどの場所にあり、中倉ジムのスタッフやジム生達が年中集まっては、騒いでいる。
 駅前の大通りを外れた裏通りにある、壁がオレンジ色に塗られた派手な店の前で高口は傘を閉じ、中へ入った。
「いらっしゃーいっ、あれ? 高口さん!」
 西本美由紀がカウンター越しに元気良く声をかけてきた。中倉ジムの練習生で、大学に通う傍ら、講義が早く終わる平日や土日の昼間にトレーニングを積み、夜はこの店でバイトをしている。
「今日はずいぶんと早いですね。どうしたんですか?」
 トレーナーである高口は、普段ならジムの閉まった十時以降に、顔を出すことが多い。まだ八時をまわったばかりだというのにやって来たことを、彼女は不思議がっていた。
「ん、ちょっとハルイチと約束しててさ」
 カウンターから身を乗り出し、「春山君なら、もう来てますよ」と、美由紀が店の奥を指差す。高口は軽く右手を挙げ、一番奥まった場所にあるテーブルへと進んだ。
「待たせたな」
 黒いジャージの上下を着たハルイチともう一人、見慣れた顔が振り返り、高口は苦笑いをした。
「何でお前がいるんだ?」
 先月の試合でスーパーライト級の日本王者となった川上の肩を叩くと、椅子を引き出して座った。
「来週の祝勝会のために出した招待状の返事がたくさん来ていて、宮園マネージャーも出席者リスト作りに忙しそうだったぞ。少しは手伝ったら、どうだ?」
「そうしたいのは山々なんですけど……ジムへ行くと、どうしても体を動かしたくなるんで」
 川上は頭を掻いた。
「オマケに雨で仕事も無いですから。ヒマで、何だか落ち着きません」
 プロボクサーはファイトマネーだけで暮らしてはいけない。川上も例外ではなく、防水工事を専門に扱っている塗装屋の職人でもあった。高口としては、ジムのメインイベンターとなった彼が薬剤を多く使う危険な仕事に就いていることを、密かに危惧している。
 そうはいっても、タイトルマッチで挑戦者だった川上が手にした金は、十万円をわずかに越えるほどだ。王者となり、これからの防衛如何(いかん)によってはもっと収入も増えるだろうが、年に数試合しかできないことを考えると、彼に今の仕事を辞めろとは、決していえなかった。
 さらに厳しいことに、川上は中卒だった。ボクシングをすることに理解のある今の職場を除けば、職業を選べる立場になく、本人に勉学を志すような気概もない。
 雨漏りの多い梅雨時こそ忙しいはずの防水業者が、晴れなければ仕事もできないという今の状況に安堵し、結局のところ高口は、「今日は市役所へ行って、市長と会ってきたんだろ? 雑誌の取材もあったし、それなりに忙しいじゃないか」と、川上を持ち上げるしかなかった。
「市長?」
 ハルイチは無邪気に目を丸くしていた。
「表敬訪問ってやつさ。川上も王者として、きちんと仕事をこなしているんだよ」
「へえ、だからネクタイなんか締めてんだ。チャンプ格好いいですね」
「ボクシングやってなきゃ、ただの人だってえの」
 ふて腐れたようにいう川上へ、高口は厳しい表情を作ってみせた。
「ハムストリングの肉離れは休養第一だからな。とにかく休め」
 川上の負傷は、判定勝ちを収めたタイトルマッチの直後に、見つかった。疲労を蓄積したまま特訓を重ねたせいで、試合から三週間が経った今でも、右太ももの裏に若干の痛みを感じるらしい。
「すぐに治るから、無理せず今は我慢しろ」
 高口に諭され、川上は素直にうなずいた。
「ご注文は?」
 運んできた水をテーブルに置いた美由紀が、皆の顔を見回す。
「何だ、まだ注文してなかったのか?」
「暇だからハルイチを飯に誘ったら、ここに来いっていわれたんですよ。高口さんも来るっつうから待ってました」
「そりゃ、悪かったな」
 高口は笑みを浮かべ、「タコスとメキシコビール」と、美由紀に告げた。
「オレも同じの」
 いった途端、川上と高口に頭を叩かれたハルイチは、「飲みモンはウーロン茶でお願いします」と、肩をすくめた。
「川上さんは?」
「ハルイチと同じ」
 美由紀と川上のやり取りを聞き、「やっぱりオレ、ビールやめるわ」と、高口は首の後ろを触った。
「気にしないで下さい。もとから俺はアルコールが飲めない質(たち)だし」
「いや、今度の祝勝会で盛大に飲むとするよ。こないだジムの仲間だけでお前のお祝いをした時も、浴びるように飲んだからな」
「それじゃ、注文は以上ですね」
 美由紀が去ると同時に、「そういえば、こないだの飲み会。すごい噂になってましたね。遠藤奈緒っていう、高校生」と、川上がいい、高口は頭をさするハルイチを睨みつけた。
 何もしゃべっていませんとばかりに首を左右に振るハルイチの横で、「今さらだよな」と、川上はぽつりとこぼした。
「彼女のコト、気になりますか? オレ、奈緒と同じクラスなんですよ」
 ハルイチが調子良く合わせ、「へえ」と川上はテーブルに肘を突き、わずかに身を乗り出した。
「ハルイチと一緒ってことは、戸波高校だ。会長が以前、あの高校のボクシング部へボランティアで教えに行ってたよな。ハルイチも指導を受けたんだろ」
 ハルイチは首を縦に振り、「ボクシング部は跡形もなく、なくなっちゃいましたけど」と、グラスの中にある水を口に含んだ。
「奈緒って子もボクシング部?」
 川上に訊かれ、ごくりと水を飲み込んだハルイチは、顔の前で手を振る。
「アイツが入学した時はもう、廃部状態でした。学校の練習場で、サンドバッグ打ちをしたことならありますけど」
「俺もジムで何度か見た。結構な迫力だったな」
「オレが学校で見たのは左ジャブのトリプルと右フック。ジムと違って、アップ無しでかましたんですけど、めちゃくちゃバッグが揺れてましたね」
「重いフックは武器になんぞ。あの子の場合、フォームも見事だしよ。やっぱり基本が大事ってことだよな」
 手放しで他人を褒める川上は珍しい。チラリと高口を見やったハルイチが、目配せをしてくる。
 椅子に深く腰かけ両腕を組んでいた高口は、渋い顔をしながらも、「川上」と彼を呼んだ。
「奈緒の噂って、何だ?」
「そんなの高口さんが、一番良く知ってるはず」
 川上は怪訝な顔をしたが、すぐに指折り数えて話し出した。
「橋野と付き合ってるっつうのと、すげえ嘘くせえんだけど、女子ボクシングの世界王者と顔見知りで、ライバルらしいってのと……。何か、新聞に載ったんですよね? 俺は減量がきつくて、それどころじゃなかった時だから、全然知らないんですけど」
「ライバルというと変だが、女子ボクシングWBAミニマム級王者だよ。誰か、知っているか?」
「すんません、勉強不足で」と川上がいい淀み、高口はあっさりと言葉を継いだ。
「ランナ・コムウット。タイのボクサーだ。奈緒は四月に彼女とスパーで打ち合った」
「そんなことが? 初耳です」
「ここだけの話にしてくれ。ジムの連中でも、知ってる人間はごく限られているからな」
「はあ。でも、世界王者とスパーリングか……夢のような話ですね」
 驚く川上を見て、ハルイチは口の端を上げた。
「世界王座のベルト、見たくないですか」
「ハア? ハルイチ、寝言いってんじゃねえぞ。俺はまだ防衛さえしてねえよ」
「お前の事じゃない」
「奈緒の話だよ、川上さん。チャンピオンが待つといったんだ。新聞のインタビュー記事にありますよ。奈緒と決着をつけるとか何とか、ほざいたんです」
 高口とハルイチが同時にいい、川上は口元に手をやった。話が飛びすぎて、ついていけなかったのかもしれない。
 考え込む彼を、ハルイチはテーブルに頬杖を突き、高口は腕組みをしながら、じっと観察する。
「お待たせしましたー。あれ、ずいぶんと静かですね」
 平日の夜にもかかわらず、店内は大勢の客でにぎわっていた。そんな中で、中倉ジムの屈強な男達が三人そろって黙り込んでいるさまは、異様ともいえる。
 美由紀は苦笑しつつ、テーブルに料理を並べた。
「そういえば、あっちにいるお客さんが、さっきから川上さんと写真を撮りたがってますよ」
 彼女が目をやった先で、若い学生らしき四人連れが、盛んにこちらを見ていた。顔を向けた川上と目が合い、愛想良く会釈までしてくる。
「俺はかまわねえよ」
「さすが日本王者! そう伝えてきますね」
 嬉しそうに美由紀はいい、テーブルを離れた。
「ボクシングも、まだまだ人気があるってコトですかね」
 白い大きな皿に盛られた料理の中から、餃子のようにチーズを包んで揚げたケサディアスをつまみあげ、ハルイチは笑った。
「ジムのことを知ってる、近所の連中だろ」
 しらけた顔で高口がつぶやき、サラダをフォークで突いている間、川上は近寄って来た見知らぬ客達に、携帯のカメラを向けられていた。
「ちぇ、冷めてんなあ。高口さんは」と、ハルイチは小さく舌打ちをした。