A SPOOKY GHOST 第五十九話 スプーキーゴーストの素顔(2)

「まるで、自分は奈緒を良く知っているとでも、いいたげだな。ハルイチ」
 橋野はフッと鼻で笑い、いっそう底意地の悪い目をした。
「だったら、いってみろよ。テメエこそ、奈緒について、何を知ってんの?」
「ざけんじゃねえぞ!」
 ハルイチは車のボンネットを力任せに叩き、怒鳴り散らした。
「さっき店で、好き勝手に奈緒をこき下ろしてたけどな、見当違いも甚だしいんだよ! 店を出る間際に、アンタも見ただろっ?」
 束の間の晴れ間を楽しんでいたのだろう。歩道を歩く親子連れが、路肩に停めた車の脇でいい争うハルイチと橋野から、慌てたように離れていく。
「四ラウンドにランナが仕掛けたアッパーはな、普通ならどうあっても当たらない距離からのパンチなのによ、どういうワケか届いて、奈緒はそれをブロックしてみせたんだ!」
 子供の手を引く母親は眉を顰め、すれ違いざま、露骨にハルイチをにらみつけた。そんな、他人の目にきちんと気付く、冷静さを持ち合わせていながら、構うことなく熱弁を振るった。
「あんな長距離からの唐突なアッパーを、グローブで受け止めたんだぞ? しかも、あの体勢からじゃ、出所も見えなかったハズだ。モーションを読んだにしろ、何にしろ、簡単にできるコトじゃねえよ」
 サラリーマン然とした背広姿の男が、道端で口角泡を飛ばし、ボクシングを語るのは、あまりに不格好だと、ハルイチも良くわかっている。けれども、話し続けることで、胸に浮かんだ一抹の不安を、彼は振り払いたかった。
「三ラウンドだって、奈緒は盛んに首を振ってた。見た目には、フェイントに引っかかって、スリッピングアウェーが空振りしてるように見えたのかもしんねえけど、ランナのわずかな動きを、きちんと目で捕らえている、何よりの証拠なんだ」
 フェイントは、レベルの低いボクサー相手にやったところで、何の効果も無い。フェイントとも気付かず、突進されるのがオチで、奈緒やランナのように、駆け引きの道具にすること自体、非常にハイレベルなことだ。
「そんな接戦の中で、奈緒は確実に、ランナを追い詰めてる」
 独り言のように言葉を重ねながら、ハルイチは遠くを見やった。多くの車が行き交う道路に沿って、大学の敷地を取り巻くフェンスや、民家、コンビニ、飲食店が並び、その先には青空が広がっている。
「ランナ・コムウットは、本当に王者らしい王者だよ。テレビの画面を通しても、めちゃめちゃ伝わってくるモンがある。自分より強い者を絶対に認めねえ、自信の塊のようなチャンプで、一ラウンド目の戦い方なんか、すっげえ象徴的だった」
 射すような日差しの下で、真っ白な雲が湧く、初夏の景色をぼんやりと眺めているうちに、熱を帯びた空気が、ひりひりとハルイチの喉を焼く。
「もともとムエタイ出身者は、距離を計るのが上手いんだ。インでもアウトでも、器用にこなせるんだろうけど、モデルなんてフザケた仕事をやってっから、よりリスクの少ない、距離を取るボクシングを、今までのランナは優先してたんだと思う」
 ハルイチはうつむき、軽く咳をすると、アスファルトからの強い照り返しに、顔をしかめた。
「恐らく、敵なんかいねえって、高をくくってたんだろうな。実際、国際式に転向して、吉山美香から呆気なく、世界タイトルを奪っちまったワケだし。それだけに、軽く応じたつもりのスパーで奈緒と出会い、闘争心に火が点いちまったんだ」
 思い出したように視線を戻し、「マジで、スゲエよな。運命の出会いってヤツだよ」と、橋野の目を覗き込む。
「ダウンを奪われて、チャンピオンは本気になった……橋野さん、アンタそういったよな?」
「違うのかよ」
「奈緒を相手に、ソレは無い。試合開始早々のラッシュは、本気そのものだった。度胸に任せた、力尽くの打ち合い……一ラウンドは駆け引きナシの、真っ向勝負だったよ」
 なんじゃそりゃ、と橋野は曖昧に首を傾け、笑った。
「男みてーだな」
「今日まで奈緒との対戦にこだわり続けてきたランナの、絶対に決着をつけてやるっていう、強い決意の現れさ」
「……ふうん」
 いい加減な相槌を打つ橋野が、さらなる笑いを押し殺そうと、不自然に口元を歪め、ハルイチは悟った。恐らく何をいって聞かせても、彼は一切、受け入れないつもりなのだろう。
「二ラウンド以降、アウトボックスに切り替えたのは、セコンドの指示もあると思う。ダメージが少なくて、足も動くうちに、ポイントで有利な状況にしておきたかったんだろうし、ランナには、状況に合わせてスタイルを修正できる力もある。そんな、今まで明かされることの無かったランナの引き出しを、奈緒は無理やり、こじ開けてみせたんだ」
 男でも滅多にねえよ、とハルイチは、それでも話を続けた。
「正面切っての打ち合いしか応じねえと、左右からの攻撃には一切反撃せず、距離が開けば、猛然と突っ込んで、スピード有利な展開に持っていこうとする奈緒……一ラウンド目のダウンを境に、多少のパンチであれば耐えられると覚悟して、一番得意な基本通りの真っ直ぐでカウンターを狙うランナ……」
 緩めたネクタイの結び目に指を沿え、深く息を吸ったハルイチは、興奮を呑み込む。
「変則的な技術戦に見えて、相打ち覚悟のガチンコ勝負でもある、この試合は……マジで、男以上かもしんねえ」
 好き放題いい終え、ハルイチが口をつぐむと、橋野はゆったりとした動作で歩道から下り、車のドアに寄りかかった。
「バッカじゃねえの。オトコ以上のオンナって、何だよ」
 感情を抑え込むかのように、低い声を絞り出した橋野が、「オマエが奈緒について知ってるコトなんて、そんなモンなんだな」と突然、背中を反らして笑い出し、ハルイチは漠然と胸に広がる不安の正体に思い当たった。
 ――もう二度と、奈緒に関わるな。
 高口から釘を刺され、ハルイチも彼女のことは、出来る限り考えないようにしてきた。しかし、それでいいのかと、未だ納得せず、迷う自分が、ここにいる。
 橋野は? と並んで車に寄りかかる彼の横顔を、そっとハルイチは窺った。
(今でも奈緒を、恨んでるんだろうか……)
 ハルイチの心を見透かしたように、突如として橋野は笑うのを止め、「オレはな、ずうっと気に入らなかったんだよ。オメーも、高口も、川上も」と、強く吐き捨てた。
「オレはマジで、奈緒のコトを心配してたのによ。オメエ等みんな、変なちょっかい出しやがって。思い出すダケで、腹が立つ」
 上着を腕に引っかけたまま、両手をスラックスのポケットに突っ込む、崩れた外見どおりの、荒れた口調だった。
「どーせ、いずれは見捨てられると分かってたハズなのに、まんまと上手いコト乗せられて、プロボクサーになっちまった奈緒も、どーかしてたんだ」
 ひどく橋野は怒っていると、端から承知していたが、自分はともかく、かつては『さん』付けで呼んでいたトレーナーの高口やジムの先輩にあたる川上まで呼び捨てて、激しく罵る彼の様子に、ハルイチは唖然とした。
「すげえ、いいがかりに聞こえる」
 何とか小声で返すと、橋野は顔を引き攣らせた。
「いいがかりなモンか」
 我に返ったのか、ごまかすようにニヤけた優男風の笑みを、口元に浮かべてみせる。
「ちっとばかしボクシングが上手いからって、物珍しい動物を飼うみてーに、ちやほやしてよ。お陰で奈緒は、やがて中倉ジムから追い出されるとも知らず、浮かれちまったんだ」
 ふざけんな、とハルイチは語気を強め、傍らの橋野を見た。
「アンタと違って、奈緒はプロボクサーになるだけの、十分な実力を持ってたんだ。オレと高口さんと川上さんで、オンナ口説いたみてえないい方される、筋合いはねえよ」
「でもよ、ハルイチ。オメエは奈緒が好きだったんじゃねーのか?」
「……アンタはどうなんだよ。見捨てるだの、追い出すだの……奈緒が天翔へ移ったのは、アンタがジムを辞めた後の話だろうが。今さらみてえに蒸し返して、心配してたと、いえる義理かよ」
 もたれ掛かっていた車のボンネットから体を起こし、目を伏せたハルイチは、「奈緒はアンタのことが好きだったのに」と投げやりに告げ、顔が熱くなる。
「ナニ、ほっぺた赤くしてんだよ。ガキじゃあるまいし」
 小馬鹿にした茶々を入れただけで、橋野が黙りこくってしまい、ハルイチも無言となった。
(……好きだった、はずなんだ)
 もうずっと、ハルイチの頭の中では何度も何度も、あの夜の過ちが繰り返されている。
 カーテンを通して差し込む、外の薄明かりを頼りに、怪我をした下唇が痛まぬよう、そっと彼女と口吻を交わし、二人してベッドの上へと倒れ込んだ。そして、母親の形見である、奈緒が着ていた浴衣の前を開くと、その下にある滑らかな肌に触れ、彼女を思うがままにした。
(好きだったから……お互い、そうなることを、望んだのか?)
 違う、と心の中で、ハルイチは首を横に振る。
 ――世界戦を前に気持ちが落ち着かなかったけれど、明日からきっと、あたしは立ち直れる。
 あの日、ベッドへ腰掛けていた彼女は甘い声を出し、晴れやかな笑顔を、隣に座るハルイチへ向けたのだった。
 ――ハルイチに会って、心が決まったの。ランナに勝って、本当の強さを手に入れたら、立派な王者になる。ボクサーとして、名を残してみせる。
 作り笑いなど到底出来ないと思っていた奈緒の、雑誌やテレビでしか見たことのない、華やかな笑みは、ハルイチの奥深くで眠っていたものを、いとも容易く揺すぶった。
 ――ありがとう、ハルイチ。ありがとう……。
 そういって重ねられた、彼女の緊張に汗が滲む手の平の、冷たい感触を無視して、乱暴な欲求に身を任せたのは、試合のたびに強いられる、辛くて苦しい節制とプレッシャーから逃れるためでもあった。
(ボクサーとして、一番軽蔑されるべきことを、オレはした)
 でも、と悔しさに奥歯を噛み締める彼の後ろを、ごうと音をたてて、ダンプカーが通り過ぎて行く。すると、「……しょせん、幽霊でしかないさ」と、熱風が吹き付けるのに紛れ、つぶやく声がした。