A SPOOKY GHOST 第五十八話 スプーキーゴーストの素顔

『激しい打ち合いとなっています! ポイントがどちらにあるか、それさえもわかりません。しかし、無敗の最強コンデンター、遠藤奈緒! チャンピオンにプレッシャーをかけ続けます』
 チャンピオンがロープを背負う、チャレンジャー優位な展開となり、会場の興奮も頂点に達したようだ。実況するアナウンサーも興奮気味に、奈緒を持ち上げる。
『盛り上げる横浜アリーナ! あまりの大歓声に、チャンピオン、チャレンジャー、両陣営の指示も聞き取りにくくなっている状態です。あっと、ここでチャンピオンが位置を入れ替えた! 激しい攻防です。互いに一歩も譲りません!』
 前のラウンドにダウンを奪われた、その事実を忘れさせるほど、積極的に手を出し続ける遠藤奈緒が、新チャンピオンになる――そう信じて疑うことのない観衆の熱狂ぶりが、画面を通し、伝わってくる。
『藤山選手、これは素晴らしい試合となっていますね』
『はい。遠藤選手のディフェンスが見事です』
『チャンピオンは打ち終わりに必ずパンチを返すんですが、盛んに首を振って、これを逃がす遠藤。スプーキーゴーストというニックネーム通りの、巧みなスリップですね』
『遠藤選手は心も強いです。チャンピオンの強打を浴び続けているのに落ち着いてそれをさばいているし……本当に凄いです』
 解説に呼ばれたWBC女子フライ級チャンピオンは、驚きを包み隠すことなく、感嘆の声を上げる。
(スゴイ……か)
 梅雨の合間に広がる青空が眩しい、土曜の昼下がり、期せずして、ハルイチはこの定食屋に腰を落ち着けた。
 駅からやや遠い場所にあり、奥に向かって細長い、狭くて古ぼけた店だが、値段の割に料理の味が良く、量も多い。平日なら、通りを挟んだ向こう側に建つ大学のキャンパスから、大飯喰らいの学生達が押しかけ、とっくに満席となっていたはずだ。
 ところが、大学が休講となる今日はパタリと客足が途絶え、閑古鳥が鳴いている。そんな週末であっても、律儀な店主は店を開け、ヒマを持て余す客が少々長居したところで、嫌な顔ひとつしない。
 会社に戻るのが億劫な土日の昼間であれば、のんびりと食事をしながら、この店で時間を潰すのも手だと、ずっと以前に同僚の長谷川から教えられたこともあって、立ち寄ってみた。午後一番に会う約束だった取引先が急な用事で予定をキャンセルし、次の訪問先へ行くまで、思いがけず時間が空いてしまったせいだ。
 そうしてハルイチは、出された定食にほとんど箸をつけないまま、店の奥のテレビに見入っていた。
「一ラウンドにダウンを奪われたもんだから、チャンピオンも本気になったってコトだよなー」
 店に入るとカウンターがあり、奥にはテーブルがふたつ並んでいる。その手前側のテーブルで、男がテレビを見ながら騒いでいた。
「二ラウンド目、ほとんど奈緒は一方的に攻められて、終わっちまったしさー」
 試合中継の始まる時刻になるや否や、店にあるテレビのチャンネルを変えたのも、彼であった。
「隙もあったよな。右から左からやたらと攻められて、ようやくボディーブローを入れたと思ったら、ああも呆気なく、お返しの右をもらっちまうんだから」
 ハルイチが座るカウンター席の中央から、一番奥の壁面に置かれたテレビへ顔を向けると、だらしなく片足を投げ出して座る男の後ろ姿が、嫌でも目に入る。
「まったく甘っちょろいよな。スプーキーゴーストってのは、名ばかりなんじゃね?」
 食べ終えた食器をテーブルの隅へ押しやり、頬杖を突きながら、うるさく独り言をいい続ける彼の声に、ハルイチは聞き覚えがあった。
「この三ラウンドも、足が動いてねーし。もう息切れかよー」
 解説者を気取っている割に、見当違いなことばかりを語る、いい加減な態度にも、心当たりがある。
 ハルイチはそっと視線をずらし、テレビの画面に目を凝らした。
 大歓声に邪魔をされて、ほとんどゴングの音が聞こえないまま、奈緒とランナの間にレフェリーが割って入り、たった二分間の短い激闘に、いったん終止符が打たれた。
 第三ラウンドを終え、互いのコーナーへと退く二人が遠く映し出され、やがて会場全体の光景がテレビの画面いっぱいに広がる。
 フルで一万七千人も収容できるという、巨大な会場だ。遠くの席であっても選手の動きがつぶさに見られるよう、神々しく浮かび上がる白いリングの上部に、四方へ向けた大型の映像装置が取り付けられている。
 そんなビッグマッチに相応しい会場に集う、全ての人間が、スクリーンに大写しとなる奈緒の一挙一動を追いかけ、盛り上がる様は、圧巻だった。
(女子ボクサーにとって、これから先ずっと、語り継がれる試合になるはずなんだ)
 でも、とテレビに映った観客席に居並ぶ若い女性達を見て、ハルイチの胸に不安がよぎる。
(どれだけの人間が、このハイレベルな攻防に気付いてる?)
 とてもボクシングファンとは思えない、ワーワーキャーキャーと騒ぐ女の子の甲高い叫び声が、どこかちぐはぐで、耳障りでさえあった。
(……どうあっても、理解されない)
 リングサイドのボクシング関係者席には、空席が目立つ。女子ボクシングを未だ軽視する風潮もそうだが、芸能人のように売り出された、遠藤奈緒というボクサーに対する反感が、やはり相当根強いのかもしれない。
(奈緒も……他人に理解されようなんて、これっぽっちも思っちゃいないんだ)
 顔を前へ戻し、ハルイチは目の前にある料理をかき込んだ。
 テレビからは『ラウンドフォー』と告げる、リングアナウンサーの声が聞こえ、前のラウンドから続く緊迫した接近戦の模様や、各コーナーがインターバルの間にどのような指示を出したかを伝える、実況が流れ始める。
『チャレンジャー、遠藤サイドなんですが、大歓声に邪魔をされて、ほとんど指示が聞こえません。小川トレーナーによると、鼻からの出血はほぼ治まり、問題ないそうです。ただ、チャンピオンが思ったより足を使わないことから、手が届くギリギリの距離での戦いとなっており、遠藤にはリーチ差で不利とならないよう、さらに距離を詰めろとアドバイスしたとのことです』
『おおっとここで左ぃーっ、強烈なロングアッパーです! 遠藤、ふらついたっ、しかし、倒れない! 体勢を立て直す!』
 ちらりとテレビの画面に視線を向け、男と目が合った。横目にこちらをうかがう彼の口元には、意味ありげな笑みが浮かんでいる。
 ハルイチは顔をそむけ、箸を置くと、コップに手を伸ばして、水をごくりと呑み込んだ。
「すげー、偶然だな!」
 立ち上がり、席を離れようとして、背中を強く叩かれた。とっくに気付いていながら、今頃になって声をかけてくる、わざとらしさが鼻につく。
「すみません、お勘定」
 ハルイチはカウンターの内側へ声をかけると、「奈緒が引き合わせたとしか思えねーよ! なあ!」と馴れ馴れしく肩に回された腕を振り払い、会計を済ませた。
「おい、待てよ! 奈緒の試合を観てたんじゃねーのかっ、ハルイチ! ほら、二ヶ月前、四月にオマエが挑戦した、日本タイトルマッチ。オレ、後楽園ホールの観客席で応援してたんだぜっ? ほんっとオマエ、惜しかったよな!」
 店を出て、路肩に停めておいた車へ乗り込もうとドアを開けたが、息せき切って追いかけて来る男のしつこさに、呆れ半分、黙って頭を下げる。
「めちゃめちゃ、久しぶりだな!」
 途端に嬉しそうな顔をする彼へ向かい、「ご無沙汰してます、橋野さん」と、ハルイチは決まりきった挨拶を返した。
「会うのは、ええと……4年ぶりかっ?」
 媚びるように笑いかけられ、はあ、とハルイチは曖昧にうなずき、「あれ? オマエって、ヒカリ文具に就職したの?」と、思いがけず質問された。
「いっつも試合用のパンフレットに広告を載っけてたトコだろ? 社長が川上の後援会会長で、激励賞も弾んでたっけなー!」
 間を置かずして、ハルイチは納得した。乗ろうとした営業用である、会社の白いワゴン車のドアには、大きく社名が書かれている。それを見て、唐突に話題を変える橋野の、強引で馴れ馴れしい振る舞いは、相変わらずであった。
「やっぱさ、試合の前後に休みとか貰えんの?」
「ええ、まあ……」
 返事をし、着ているシャツの襟元に手をやって、ハルイチはネクタイの結び目を緩めると、自分と同じスーツ姿の橋野を上から下まで眺め見た。
「恵まれてんなー、オマエ! ボクシングと仕事の両立って、マジあり得ねーからさ。ハルイチみてーに、後援会から仕事のクチを紹介されんなら、中倉ジムも悪くねーな!」
 脱色して長かった髪を黒に戻し、短く切り揃え、中倉ジムにいた頃より落ち着いた身なりとなっている彼が、以前と変わらない、どこか悪意の滲む粘っこい声を出し、思わずハルイチも身構える。
「まあ、オマエは中倉会長のお気に入りだったからなー。よく考えりゃ、オレとか奈緒のために、後援会絡みの就職なんか、ジムが取り持ってくれるワケねーよな」
 下手な人間は紹介できねえだろーし、と遠慮なしに会話を続ける橋野の口ぶりに、自らを嘲笑う響きが混じって聞こえ、ハルイチは顔をしかめた。
「なんでそこで、奈緒の名前が出るんです?」
「どーせ奈緒は、ヒカリ文具から誘われなかったんだろ? オマエと同じく高校でプロデビューして、卒業も一緒だったのにさ」
 図星だろ、と嫌味たっぷりにいい切る橋野は、試合を観ながら、さんざん奈緒をけなしていた。そんな彼の真意を計りかね、ハルイチは無言のままスーツの上着を脱ぐと、額に浮かぶ汗を手の甲で拭う。
(それが、何だっていうんだよ)
 両親がおらず、高校を留年までした。就職は容易でなく、それを知った中倉会長が、親交のあったヒカリ文具の社長へ、特別に口を利いてくれ、何とかなったというだけのことである。
(奈緒とオレじゃ、頭の出来が違う。進学だって、就職だって、奈緒は思いのままだったはずで……卒業後の進路が決まんなかったのは、アイツ自身の問題だろ?)
 連日の雨がやみ、にわかに照り付ける強い日差しのせいもあって、外は蒸し暑った。ハルイチに倣い、橋野も上着を腕にかけ、中途半端な長さの前髪をかき上げる。
「カワイソウになー。同じジム所属のプロボクサーなのに、扱いがこうも違うとさー。さすがの奈緒も、へこんだと思うぜえ」
 そうでなきゃ天翔へなんか移籍しねーよ、と訳知り顔にいう橋野を前にして、溜まっていた鬱憤が、一気にあふれ出した。
「何いってんすか? あんな大手から声をかけられたんだ。プロボクサーなら、喜んで申し出を受けんのが、普通じゃねえのか?」
「はあ? 奈緒が喜んで移籍したと思ってんの? オマエ、ぜんぜん奈緒のこと、わかってねえなー」
「……テメエにいわれたかねえよ」
 ハルイチは開きかけていた車のドアを、乱暴に音を立てて閉じ、「だいたい、アンタが奈緒の、いったい何を知ってるっていうんだ? スパーでタコ殴りにされた挙げ句、しっぽ巻いて、逃げ出したクセによ!」と、ついには声を荒げた。