A SPOOKY GHOST 第六十話 スプーキーゴーストの素顔(3)

 幽霊? と顔を上げたハルイチが目を向けた先で、橋野は寄りかかっていた車から、ゆっくりと体を起こし、「自分でも、何やってんだろーなあって思うよ」と歩道の縁石に足を乗せ、よじ登った。
「あの大学で今、臨時の事務員を募集してて、さっき面接を受けてきたばっか」
 湿気を含んだ重い空気をかき分けるように、彼は通りの向かい側に建つ校舎を指差した。
「ダメだろーな。面接官が履歴書を手にして露骨にイヤーなツラしてたし、できれば女性の方を採用したいんですが、なんて、バカ丁寧にいいながら、嫌味ったらしく笑いやがってよ」
 ありゃ落ちたな、と下ろした手を再びズボンのポケットへ、ぐいと押し込み、恨めしげに天を仰ぐ。
「そんでもって、面接を終えて外に出たら、さっきまでメシ食ってた、あの店。アソコが目に入ってさ。ほら、ムカつくと腹が減ったりしねー? 丁度いい具合に昼時だったし」
 どこか投げやりな彼の声を聞きながら、ハルイチも空を見上げた。刺すような夏の陽光にあふれていたはずが、いつの間にか灰色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。
「それにしても、タイミングが良過ぎたなー。店に入って席に着いた途端、テレビに手が伸びたのは、試合開始時刻も、中継するテレビ局のチャンネルも、ちゃーんと頭に入ってたからなんだけどさ。おっそろしい偶然でハルイチにまで再会しちまうあたり、手に負えねーよ」
 マジで出来スギ、と怒ったようにいい、「ボクシングを辞めてからも、結局はイイよーに、アイツに振り回されてんだ」と打ち明ける橋野へと、ハルイチは素早く視線を戻した。
「こんな偶然が重なっと、奈緒をボクシングの世界へ引きずり込んだ責任を取れと、神様にいわれてるよーな気がして、笑いたくなる」
 実際、橋野は縁石の上からハルイチを見下ろし、弱々しく笑った。
 水の匂いのする冷ややかな風が、すうと吹き抜けた。ハルイチは軽く身震いするのに合わせ、「橋野、さん……ボクシング、辞めたんすか」と、ぎこちない声を発した。
「やめたさ。キッパリとな」
 橋野はハンカチを取り出して額に当てた。
「奈緒と無様なスパーをした翌日、中倉ジムを退会して、それっきり。それでも、雑誌やスポーツ新聞を買っては、ボクシングの記事を読み漁り、奈緒のことを必死で追ってんだ」
 そう打ち明ける彼のハンカチで汗を拭う仕草に、疲れ切った様子が滲んで見える。
「彼女は……奈緒は、平凡な子だろ? そんな子が、フツーでないヤツばっか集まるボクシングの世界で、こうもトントン拍子に成功してるんだ。どうあっても、目が離せねーよ」
 路肩で車に寄りかかったままのハルイチは、自然と斜め下から、一段高いところに立つ橋野を、仰ぎ見る姿勢となっていた。
「ボクサーなんてのはさ、社会からハミ出た、落ちこぼれなんじゃねーの? フツー」
 口元を嫌な形に歪める彼のうらぶれた姿は、暗い梅雨空に溶け込んでゆく。
「川上みてーな学校を退学になった札付きのワルとか、奈緒が付き合ってた、あの世界チャンピオン……誰だっけな」
「安森さん?」
 ハルイチが敏感に反応し、わずかながらであっても、橋野は元気を取り戻したらしい。「そうそう。アレも元はヤクザだろ?」と縁石を下り、ハルイチの首に馴れ馴れしく腕を回してくる。
「ありえないでしょ」
 遠慮無く寄りかかってくる橋野を払い除けはしなかったが、わずかに眉根を寄せ、ハルイチは質問に答えることなく、いい返した。
「現役の世界チャンピオンの名前を忘れるなんて……しかも、こないだ十連続防衛を成し遂げたばっかの」
「知り合いじゃねえボクサーなんか、どうだっていいんだよ」そんなハルイチを軽くいなし、橋野は好き勝手に喋りまくった。
「それよかオマエも、そんな強えーチャンピオンと同じ、変わり種だってわかってんの? 父親が母親を刺して自殺。母親は助かったものの、やっぱり自殺。そんな、不幸を絵に描いたような家庭で育ったからこそ、ハルイチはボクサーになったんじゃねーのかよ。他にも児童養護施設出身とか、片親に苦労して育てられたとか、すっげー貧乏な家の子とか。そういうヤツが成り上がってこそ、ボクシングってのは、カッコイイんだろーが」
 のしかかってくる橋野の重さを、否定も肯定もしないまま、ハルイチは黙って受け止めた。すると突然、「でも、奈緒は正反対。平凡すぎて、つまんねーくらい」と、耳元で囁かれた。
「父親はいたってフツーのサラリーマン。母親も専業主婦だっけ。妹は私立のお嬢様学校へ行ってっし、奈緒だって落ちこぼれっつうほど、頭が悪いワケじゃない。性格だって内気で口下手なダケだろ?」
 かすかに笑いの入り交じった声で、「そんなヤツに、ボクシングは似合わねーよ」と、告げられたハルイチは、かろうじて首を傾けた。
「奈緒が……平凡?」
「いっつも人の輪の中心にいて、誰からも好かれる人気者の春山クンからしたら、変わってるって、やっぱ思うモン?」
「変わってるというより……」
 いい淀むハルイチの肩に回していた腕を外し、橋野は後退った。
「オレはな、フツーに就職して、結婚して、家庭を築く……そんな決まり切ったレールの上を走んのがイヤだったから、ボクシングの世界に足を踏み入れたんだ。九州くんだりの田舎から上京して、プロボクサーを目指したのは、人と違ったコトがやりてーと思ったからなんだよ」
 車から離れ、歩道へ足を踏み入れた彼は、きつく両手を握り締め、感情を押し殺すような低い声を出す。
「それがさ、神様ってのは、よっぽど根性ワリイんだな。奈緒みてーに皆と同じになりたい、普通でイイと願ってるヤツには、世界戦っつう華やかな舞台を用意して、オレには結局、決まった仕事にもつけねー、サイテーな生活を押しつけやがる。こんな皮肉ねーよ……」
 ハルイチは車に寄りかかったまま、いっそう暗い雲が垂れこめる遠い景色を眺め、深いため息を吐いた。
「どうってことねー、ありきたりの生活。そんなモンを望んだところで、今更どうしようもねーけど……」
 中途半端にいい、橋野は口を閉じた。
 ハルイチは上着から取り出した携帯電話を開き、画面に表示されている時刻を見た。そろそろ次の取引先へ向かわねばならず、長居が許されるはずもない。
「橋野さん、携帯の番号とメアド、以前と変わってますか?」
 思い付いて携帯を操作し、「いや? 変えてねーけど」という橋野の返事を受け、メールを打った。
 歩道に立つ橋野が着信音に気付き、抱えていた上着から携帯を取り出す。
「ハルイチ、コレ……」
 届いたメールを開き、顔を上げた橋野へ、「奈緒の実家の番号です」と、ハルイチはいった。
「連絡を取ってやってもらえませんか。天翔へ移籍してからは、どこに住んでんのかも知んねえけど、実家に電話をすれば、上手いコト、繋がるだろうし……」
 きっと奈緒も喜びますよ、とさしたる確信もないまま告げ、橋野の表情を注意深くうかがう。
「考えてみりゃ奈緒よか、ハルイチの方がよっぽど親しいよな。お互いの携帯の番号や住んでる場所も知ってるしさ」
 彼は上着を抱え直すと、肩をすくめ、苦々しく笑った。
「実は奈緒のヤツ、一年以上もオレと朝のロードワークを一緒にやってたのに、一度も連絡先を教えてくんなかったんだ。携帯も持ってねー、いうしさー」
「アイツらしいっすね」とだけいい、ハルイチは車のドアを開けた。
「オレもう、仕事に戻らないと」
 上着と携帯を助手席へ放り投げる次いでに、汗を払おうと短い前髪をかき上げ、橋野を見やる。
「大丈夫ですよ、橋野さん。そのうち、いい仕事が見つかりますよ」
 そうかあ? と、照れを押し隠すように、橋野は間延びした返事を寄越した。
「落ち込んでちゃ、らしくないです」
「いうなあ、オマエ」
「明るくて、人懐っこい橋野さんだからこそ、あの気むずかしい奈緒も気兼ねなく話が出来たんだろうし、憧れたんだと思いますよ」
「そりゃ、昔の話だろ?」
 今のアイツは、と不安げな表情を浮かべる橋野へ、「奈緒はきっといつまでも、内気で口下手な女の子ですから」と、ハルイチはいい、笑ってみせた。
「ここでオレに再会したのも、何かの縁です。橋野さんと奈緒は切っても切れない何かで繋がってるのかもしれない、そう思いませんか?」
 橋野は滑稽なほど、大仰にうなずいた。
「オレさ……奈緒にとってオレは、幽霊みてーなモンでしかねえんだろーなって、思ってたんだ」
 不意を突かれた気がした。ハルイチは動きを止め、体を滑り込ませたドアの内側から、目を凝らす。
「実際には存在してんのに、まるでいないかのように、アイツの世界から消し去られて……」
 でも、と軽く首を左右に振り、「そんなの、単なる僻みなのかもしんねーな」と、晴れやかな顔つきとなった橋野からハルイチは視線を逸らし、車のドアを閉めた。
「元気でな、ハルイチ。オマエのコトも、応援してるからな。いつか、世界チャンピオンになれよ」
 別れ際、窓越しに橋野から励まされ、「橋野さんも。お元気で」と、軽く右手を挙げて応えたハルイチはエンジンをかけ、車を出した。
 バックミラーに映る橋野の姿が、みるみる小さくなってゆく。
 ――しょせん、幽霊でしかない。
 虚ろにつぶやかれた言葉が、暗い残像を伴って、頭の中で鳴り響いた。
 ――実際には存在しているのに、まるでいないかのように、奈緒の世界から消し去られた、幽霊のようなもの。
 ハルイチは見知らぬ交差点を曲がり、細い裏道を選んで走る。そして、小さな公園の脇に広い路肩を見つけるとブレーキを踏み、そのまま停車した。
「そうか……。そうだったのか」
 うなりを上げて風を吹き出すエアコンの音を聞きながら、車のハンドルに顔を伏せ、ハルイチは呻いた。