A SPOOKY GHOST 第五十七話 運命は扉を叩く(4)

 膝を深く曲げた右足のつま先がキャンバスの上を滑り、緩く畳んだ左腕が、捻った腰の回転に合わせ、空中で鮮やかに弧を描く。
 奈緒の赤いグローブは、パンと鳴る軽い音とは裏腹に、ランナの右脇腹を深くえぐった。
 さらに左フックを重ねて出し、テンプルを狙う。固く頭部をブロックするランナの右腕越しに無理矢理パンチを浴びせ、右ストレートへと繋ぐ。下、上と左のダブルを打ち込み、ガードが開いた隙間を縫って顔面を右で捉える、この攻撃は、奈緒のもっとも得意とする形だ。
 一秒とかからない、そんなスムーズな動作の合間に、奈緒はランナの笑みを見たような気がした。
 ほぼ時を同じくして、ランナが首をわずかに傾け、すっと前に伸びた奈緒の右腕は空しく宙を切る。
 咄嗟に後ずさりし、体がロープに触れた次の瞬間、顔面に衝撃が走った。
 全ての音が消え去り、視界の先に闇があった。幻覚ではない証拠に、リングサイドに居並ぶ人々の顔が、確かに見える。そして、彼らの頭上では、非常口を指し示す常夜灯の明かりが、ぽつりぽつりと緑色の光を放っている。
 奈緒が見入ったのは、真っ暗な遠くの景色だ。自分を取り囲む大勢の人間が、そこにいるはずだった。影さえおぼろなほど、真っ白に光輝くリングで、無数のスポットライトを自分は浴びているというのに、彼らは暗闇に覆い隠されたあんな場所で、いったい何をしているのか。
「あたしを、見ている……」
 我知らず声に出してつぶやき、突然ざあっと耳の中で雑音が鳴り響いた。その音に混じり、ワン、ツーと、遠くから声がする。奈緒はキャンバスに膝を突くと、ロープに腕を絡ませ、歯を食いしばった。
 視界から闇は完全に消え去り、目の前にはカウントをとるレフェリーの姿がある。彼が「セブン、エイト」と数え上げたところで立ち上がり、両腕を構えた。
「Are you OK?」
 奈緒のグローブを外側からがっちりと握り締め、訊ねるレフェリーへ、ファイティングポーズをとったまま、彼女はうなずいてみせた。
「Are you sure?」
 レフェリーに強い口調で問いただされ、「オーケイッ、アイム オーケイ!」と、声を張り上げる。目の焦点が定まらず、世界は未だ歪んでいたが、激しく肩で呼吸をしながらガードの下で顎を引き、意地でも構えを崩さなかった。
 耳の雑音が鳴り止まないばかりか、鼻からは生温かいものが流れ出、ぽつりぽつりと床へ落ちていく。構えたグローブの後ろで、奈緒は思わず舌打ちをしたが、問題なしとレフェリーは判断したらしい。「BOX!」と、試合続行のジェスチャーと共に、かけ声を発し、後方へ下がった。
 彼が退いたキャンバスの中央には、ランナが立ちはだかっていた。
 奈緒は足先に力を込め、膝の震えを抑え付ける。カバーリングアップしたまま、がむしゃらに飛び出し、ゴングの鳴る音を聞いた。
 すかさずレフェリーが二人の間へ割って入り、たまらず安堵の息を吐いた奈緒は、動きを止め、腕を下ろす。
 コーナーへ戻りかけ、何かに導かれるように振り返った。すると、ランナも首を捻り、こちらを見ていた。
 視線が交差した刹那、胸に込み上げるものがあった。奈緒は素早く顔を前へ戻し、コーナーに向かう。
 どっかと椅子に腰を下ろしてマウスピースを吐き出し、手早くうがいを済ますと、すぐさま鼻に綿棒が入れられた。
 詰まった血を取り除き、止血の処置を施す小川の技量は確かで、たちまち奈緒の呼吸も楽になった。全身の力を抜き、深呼吸を繰り返すと、心拍数の安定と体力の回復に神経を集中する。
「痛むか?」
 リングドクターが鼻の出血を見に青コーナーの外側まで来ているのか、小川は訊ねながら、ちらちらと奈緒の背後に目をやっている。
「痛くありません」
 後ろを振り返る余裕など無く、奈緒はわざと大声を出した。鼻血程度であれば、止血の作業を妨げてまで、ドクターがダメージの有無を確かめることなど滅多にないが、女子の試合は男子よりもストップのタイミングが早い傾向にある。
 試合に集中している限り、痛みを痛みとも感じないのがボクサーの常だが、負傷は深刻でないとアピールしておいて、損はない。
「だろうな。これくらいの出血であれば、すぐに止まる」
 すぐさま小川が応じ、リングドクターも立ち去ったようだ。
「次のラウンドも、打ち合うつもりか? すぐまた、出血するぞ」
 奈緒に視線を戻して小川は小声でいい、彼女のあごに指をやると、顔を上向かせ、綿棒を入れた鼻の穴をのぞき込む。奈緒は天を仰いだまま、ぎこちなく「はい」と返事をした。
「わかった。血は止めてやる」 
 目だけ下に向けた奈緒は、そう乱暴にいい放つ小川の顔を、じっと見つめる。
「考えてみりゃ、チャンピオンはムエタイ出身だったな。蹴りを受け続けてきた、あの打たれ強い相手を、どう攻略するつもりだ?」
 小川はぶっきら棒に奈緒へ問いかけ、あごから手を離し、今度は下を向くよう指示をする。
「インファイトしか考えていません」彼に従い、奈緒はうつむくと、キャンバスを見ながら答えた。
 ふん、と小川は鼻で笑い、「あんな思い切りのいい奴を相手にか?」と綿棒を鼻の穴から引き抜くと、再び奈緒にうがいをさせた。
「肉を切らせて、骨を断つ。コムウットは捨て身の攻撃も辞さない覚悟だぞ」
 ボディーブローを受け、そこからカウンターを合わせたランナの度胸を、小川は暗に褒めていた。
 口から水を吐き出し、前に向き直った奈緒は、鼻をさわって止血の具合を確かめる彼を、無言のうちに見つめ返す。
「とにかく、手数で勝負するしかないだろうな」
 目の前で小川がため息交じりにいい、後ろのプラットホームでは佐々木と井谷がロープ越しに汗を拭って、首の後ろや顔などを冷やしたり、ワセリンを塗り直したりするなど、手際良くセコンドの務めを果たす。
 天翔を代表するトレーナーであり、セコンドとして日本屈指の腕を持つ彼らだが、奈緒が質問でもしない限り、アドバイスを与えるために、貴重なインターバルの時間を費やしなどしない。
 本来ならボクサーにとって、セコンドは何よりも大切な存在である。常にリングの外から試合を見守り、勝利できるよう、選手を支える立場だからだ。選手とセコンドのチームワークが、時に勝負を左右することもある。
 しかし、指示らしい指示も出さないまま、淡々と作業を終え、コーナーから送り出すだけのセコンドであっても、さほど奈緒は不満に思わなかった。確かな技術と経験を持つ天翔のスタッフであれば、どういう状況であれ、最低限のケアは受けられるからだ。
 ジムにおいても、ベスルコフが去ってから後、三人で奈緒を担当していたといえば聞こえもいいが、天翔唯一の女子プロボクサーである彼女を扱いかね、たらい回しにしていたと表現したほうが、しっくりとくる。
 実際のところ、トレーナーによって、ミットでパンチを受けるタイミングも違えば、選手との接し方はもちろん、教えるスタイルまで異なる。それを重々承知しつつ、奈緒はその状況を甘んじて受け入れ、トレーニングに励んできた。
 結局はハワイまで飛ばされ、慣れない異国の環境で、世界戦に向けての調整を行う羽目となり、帰国後も、トレーニングについては彼女の判断に任され、捨て置かれたが、さして気に病まずに済んだ。
 練習を休むと不安に駆られ易く、過ごすにも難しい、世界戦まで残り一週間という時期に至っては、プロボクサーとなってから一番長い休息を取り、身の回りの整理まで済ませている。
 そうやって一人、苦悩のうちに恐怖を乗り越え、ラストステージまで上り詰めたのだ。
 奈緒は目を閉じ、視界から何もかも追い払った。このリングに、ランナさえ、いれば良かった。
 ――そう、彼女だけ……私が本当に必要とするのはランナ、あなただけ。
 インターバル終了十秒前を告げる、ホイッスルが鳴った。
 ぱちりと瞳を見開いて立ち上がる奈緒の口に慌ただしくマウスピースを押し込み、リングを出ようと小川が、ロープをくぐりながら、「化けの皮を剥がしたところで、そこにあるのが本当の姿なのかどうか、誰にもわからないけどな」と、つぶやく。
 ランナの本質がアウトボクシングではなく、インファイトにあるのだと、奈緒だけでなく、小川も含めて、気付いた者は少なくないはずだ。
 けれども、と小川から顔を逸らし、奈緒は赤コーナーを見やった。老齢の、恐らくタイ人と思われる、セコンドの男性が「セコンドアウト!」と警告を受け、忙しくロープをまたいでいた。去り際に彼は、異国の言葉で何かを叫びながら、奈緒を指差し、ランナも、そんな彼に向かい、力強くうなずき返している。
(ボクサーなら誰だって、リングの上とは違う、顔や姿を持っている)
 息を止めた奈緒は、数回瞬きをしたのち、息を吐きながら上半身を屈め、グローブを顎に添えた。
 ランナの素顔がインファイターであろうと、アウトボクサーであろうと、関係なかった。四年前に二人が出会った、あの時から、運命は扉を叩き続けている。
 ゴングが鳴り、上から下まで、黒ずくめの格好をしたチャンピオンは、肩を揺らして前後に腕を振りながら、飛び跳ねるようにステップを踏む。
 その顔に表情らしい表情はないが、強い光を帯びた彼女の瞳は、まっすぐに奈緒を見つめている。
(あなたがどんな顔をしようと、かまわない。その目が、視線が、私を追い続けている限り……)
 体を揺らしながら、ゆっくりとリング中央へ向かう奈緒とは対照的に、ランナはロープに沿って動いた。横っ飛びに奈緒の右側へと回り込み、目にも止まらぬ速さで、遠くからジャブを放つ。
 ムチのようにしなる彼女のパンチが、ぴしゃりと音をたてて腕を叩くのを合図に、奈緒は大きく左足を踏み出した。
 ボクシングに殉ずる覚悟を決めた奈緒の行く手を阻むものなど、何ひとつ無い。
 ――私が、扉を開く。
 頭を下げて、続けて出されたランナの腕の下をかいくぐり、一気に距離を縮めた。
(限界の向こう側へ……まだ見たことのない、向こうの世界へ)
 逃げようとバックステップを踏み、合わせて、いきなりの右ストレートで牽制を図るランナのパンチを、奈緒は上体を揺らしながら避けると同時に、左右のフックで攻め立てる。
 追い込まれるのを察知し、ランナはサークリングで攻撃をかわそうとするが、低い姿勢を保ったまま次々とコンビネーションを繰り出し、いっさい腕を止めようとしない奈緒に、主導権はあった。