A SPOOKY GHOST 第五十六話 運命は扉を叩く(3)

 冷たいコンクリートの壁と、薄汚れたガラス窓に囲まれた、暗く色のない廊下には、それと同じ扉がいくつも並んでいる。奈緒を憂鬱にさせる、見慣れた光景だ。
 彼女自身、白い丸襟のシャツにジャンパースカートという、筑紫ヶ丘中の制服を着て、人っ子一人いない静まりかえった廊下に立っている。授業はとっくに始まっており、奈緒は早い話、遅刻をしたのだった。
 二年生へと進級し、すでに一学期の終わりが近い、初夏になっても、彼女は週に二度ほど、授業中の教室へ無言のまま入って行く状態が続いている。
 最初の頃は、黙って席に着く奈緒へ、「ひと言もナシかよ」と級友達は冷やかしをいい、教師達も「早く教科書を開きなさい」ときつい口調で諭していたが、最近は冷ややかに彼女を一瞥する程度で、わざわざ声をかけようとする人間など皆無だ。
 奈緒は別段それを気に病んでおらず、その日も悪びれることなく、ガラリと扉を開けた。
 教室の中は暗く、しいんとしており、脱ぎ散らかした制服やカバンの置かれた机が、乱れた列を作っている。どうやら体育の授業で、皆は出ているらしかった。
 拍子抜けしながら、自分の席にカバンを置き、奈緒が向かった先は、保健室だ。
「ベッドで横にならせて下さい」という申し出を、養護教諭は決して断らない。放っておけば、奈緒が勝手にベッドを離れ、いずれは教室へ戻ると、承知しているからだ。不登校になられるよりはマシと、割り切って考える学校側の姿勢も、好都合であった。
 奈緒はだらだらと保健室のベッドで横になりながら、体育の授業が終わるのを待った。
 やがてチャイムが鳴り、教室へ戻ると、もう自分の席から離れることは無い。残る授業を真面目に受け、昼食も一人で済まし、休み時間は机に突っ伏して過ごす。あとはホームルームが済んだのち、適当に掃除を済ませ、部活へ顔を出すだけだ。
 ――遠藤。掃除が終わったら、職員室へ来い。
 ホームルームを終えて、教室を出ると、担任から声をかけられた。命令口調だが、穏やかで、どこか不気味に聞こえるのは、語尾が上がる、妙な訛りのせいだ。
 そうでなくても、奈緒のクラスを受け持つこの女性は、教室にいる大勢の生徒達の中から奈緒を選び、「遠藤もそう思うよな」、「特に遠藤は気をつけるように」と、頻繁に話しかけてくる。
 女性でありながら男性言葉を好んで使い、しかも生徒達からタメ口で話しかけられるのを、喜ぶような教師だ。当人にしてみれば親近感を演出しているのだろうが、生徒に好かれたいと媚びる気持ちが透けて見え、気持ち悪いだけでなく、奈緒にとって質(たち)の悪い人間の典型でもある。
 「はい」と奈緒は神妙に返事をした。案の定、担任は彼女の素直な態度に機嫌を良くしたのか、しつこく言葉を重ねることなくその場を去り、奈緒をホッとさせた。
 それにしても、面倒なことになったとうんざりしながら、教室からほど近い階段へ行き、一階から二階をほうきで掃く。
 一緒に掃除をするはずの、同じ班の生徒達は、踊り場でおしゃべりに夢中だ。
 迂闊に不平をいったり、同じく掃除をさぼったりでもしたら、余計面倒なことになるとわかっている。奈緒は一人で、ちりとりを使い、ゴミを片付けると、手早く掃除を終えた。そして、ようやくおしゃべりを切り上げる級友達と入れ違いに、カバンを持って教室を出た。
 呼び出しに応じず、素知らぬ顔をして帰ってしまうことも出来るが、あの担任相手では、多少の厄介ごとも、我慢しなくてはならない。
 憮然としたまま、放課後を迎えた職員室に、足を踏み入れた。
 ――おお、遠藤! こっち来い!
 人でごった返しているのに、中は思いのほか静かだった。いち早く奈緒の姿を認め、発した担任の声は、異様に目立ち、何事かと振り返る者までいる。
 人知れず奈緒は舌打ちをし、早足で担任へと歩み寄った。
 職員室のほぼ中央にある、ごちゃごちゃと様々な物が積み重なる汚い机の前で、彼女は椅子にふんぞり返っていたが、奈緒が前に立つと、いきなり体を触ってきた。
 ――まずは、ポケットの中をチェックだな。おや、ハンカチも持ち歩かないのか? 不潔だな。
 驚き、声も出ない彼女へ、担任は意地の悪い笑みを浮かべながら、相変わらずどこかイントネーションが不自然な、妙なしゃべり方をする。
 ――よし。次はカバンの中を見せてもらうぞ。
 担任はひったくるように、奈緒のバッグを取り上げ、勝手に開けた。そして洗いざらい中味を取り出しては、丹念にチェックし始める。
 何が何だかわからないまま、奈緒は口を固く閉ざしたまま、担任の動きを見守っていたが、カバンの脇にある小さなポケットから封筒が出されると、顔を強張らせた。
 たまたま奈緒が見つけ、持ち歩いていたその手紙は、今朝の今朝まで、台所にある電話台の引き出しにしまわれていた。
 内容からして、一年近くも前に投函されたものらしい。
 恐らく母がポストに入っていたのを勝手に読み、奈緒の目に触れぬよう、隠したのだ。
 ――ううん? 何だ、コレは。
 担任は容赦なく封を開け、便せんを広げる。
 緊張に口の中が乾き、何もいえないまま、立ち竦む奈緒だったが、
 ――奈緒へ。いきなりの手紙で驚かせたらごめん。引っ越し先の住所を教えないままだったから、どうしても気になって、手紙を書きました。
 いきなり声に出して読み上げられたのをきっかけに、目の前の教師へと飛びかかった。
 ――何をするんだっ、遠藤!
 短く叫び声を上げ、椅子から転げ落ちる彼女へ馬乗りになり、奈緒は必死で手紙を取り返そうとした。ところが担任は、封筒と便箋をきつく握り締め、意地でも離さない。
 当然だが、職員室は蜂の巣を突(つつ)いたような、騒ぎとなった。揉み合う二人を引き離そうと、誰かが奈緒を羽交い締めにし、床へ抑え付けようとする。
 歯を食いしばり、抵抗しようとして、靄(もや)がかかったように世界が白くなった。
 ――ボクシングなんか、やめちまえ。
 ヒステリックにわめき散らす人々の声に、突如として安森誠の声が重なった。
 ――ふらりとやって来て、部屋に泊まっていくオマエが、目障りだ。
 それは気を許した相手にだけ、ふとした瞬間に彼が漏らす、高い声だった。
 ――寂しいなら、いくらでも一緒にいてやる。
 背が低く、子供っぽい己の容姿を、安森は密かに恥じている。だから常日頃、話す時は意識して、大人の男らしい低い声を、本物らしく発していた。
 でも、とそんな彼が、軽々しい声で話を続け、奈緒は泣きたくなる。
 ――ボクサー同士で傷を舐め合うような真似は、ご免だ。
 安森の冷めた態度は、コンプレックスの裏返しだ。けれども、偽ることのない自身の声で語られるのだとしたら、それは本音以外の何物でも無い。
 ――報われないよな、こんなに辛い思いをしてんのにさ。
 今度はハルイチの声がした。
 ――いっそのこと、ボクシングなんかやめて、フツーに暮らそうか。
 オマエと子供でも作ってさ、と吐息混じりに囁かれ、素肌を晒す上半身に、いっそうきつく、むき出しの太い腕が絡みつく。
 いかにも好いているように振るまいながら、安森もハルイチも、ボクシングにどっぷりと浸かり、足掻き続ける、『ありのままの』奈緒からは、目を背けようとする。
 体(てい)よく体だけを欲し、ボクサーでなくなったら一緒になろうと、甘い言葉を吐くのだ。
 朦朧としたまま奈緒は身をよじり、己を縛り付ける腕を、必死で振り解こうとした。すると、担任の姿がぼんやりと視界に浮かび上がった。
 彼女は悠然と立ち上がり、乱れた髪を指で撫でつけながら、勝ち誇ったよう笑っている。
 奈緒は声にならない声を上げ、固くまぶたを閉じた。
「Go to the corner!」
 野太い男の声が耳に届き、思わずハッとして目を見開いた瞬間、まぶしい光に包まれる。
 To the corner!――コーナーへ! と再び指示が飛び、奈緒は動くのをやめた。
 がっしりと彼女を抱え込んでいたレフェリーの腕が離れ、体の自由を取り戻したのも束の間、勢い良く胸を押される。
 よろめき、茫然としながら後ずさりをした奈緒は、飛び出してきた小川に、両肩をつかまれた。力任せにコーナーへ引きずり戻され、椅子へ腰を落とした途端、口の中に指を入れられる。
「いいかっ、大丈夫と答えろ!」
 マウスピースを取り出した小川が鋭くいい放ち、頭の上から水をかけられた奈緒は、我に返った。
「遠藤さん、いけますか?」
 声がかかり、慌ただしく振り返ると、ロープから身を乗り出す男性の姿があった。
「大丈夫です」
 リングドクターだと認識するよりも早く、答えた彼女の頬に、冷たいエンスウェルが押し当てられる。顔面にしびれが走り、奈緒は慌てて前を向いた。
「異常はありませんか?」
「この程度の腫れであれば、二ラウンド目は問題ないでしょう。意識もハッキリしています」
 小川が手際良く奈緒の顔を触っている間に、後方でリングドクターと佐々木が短く会話を済ます。
「初っ端の右クロスで、意識が飛んだな」
 小川は小声で吐き捨て、奈緒にうがいをさせた。
「一ラウンドは様子見だってのに、いきなり打ち合いやがって」
 オマエもチャンピオンも気が触れたか? と苛立ちも露わに、小川は慣れた手付きで、奈緒の顔にワセリンを塗り広げる。
(そっか。インターバル……)
 だんだんと事情が呑み込めてくるにつれて、冷静さを取り戻す。
 セコンド達が忙しく立ち働くのに任せ、奈緒はコーナーポストへ寄りかかり、呼吸を整えた。
(ホントに……記憶が飛んじゃうんだ)
 リングへ戻り、打ち合った記憶がないと語る選手の話は、彼女も耳にしたことがある。意識が無かったというより、受けたパンチの衝撃で、一時的な記憶障害に陥ったと考える方が自然だ。
「とにかく、あのランナ・コムウットから、ダウンを奪ったんだ。一ラウンドは取ったから、二ラウンド目も、何とか持ちこたえろ」
 そう告げる小川の目を、信じられない思いでのぞき込む。
「ダウン? どうやって……」
「カウンターを合わせたのはいいが、さばき切れなかったんだろうよ。オマエの右をさ」
「あたしの……踏み込みの方が、早かった?」
 いいか、と小川は手を止め、上目遣いに奈緒を睨み付けた。
「ダメージなんか無いぞ、あの女。笑いながら、立ち上がりやがった」
 気を緩めるな、といい含める小川へうなずき返し、再びマウスピースを口に含んだ奈緒は、ゴングの鳴る音を聞いた。
 すっくと立ち上がり、ゴングが鳴ると、ガードを上げて慎重にステップを踏み、やはりコーナーを離れたランナの動きを、じっと見つめる。
(あたしを、笑った……)
 鮮明なフラッシュバックの中にあって、自分を見下し、悪魔のような笑みを浮かべていたのは、確かにあの教師だ。しかし同時に、あの残像は、ランナの姿でもあった。
(笑いながら、立ち上がった……)
 左のガードを下げて近づいて来る彼女の顔は、美しいままだ。ダウンを奪ったとはいえ、小川がいった通り、ダメージを与えるには至らなかったのだろう。
(そんなに、あたしを打ちのめしたい?)
 思い出すことさえ躊躇われる、中学時代の記憶まで甦り、全身が熱くなる。
 意識を刈り取られたとはいえ、頬が赤い程度で、出血もなければ、まぶたをふさぐ、腫れもない。
(だったら、さっきみたいに打ち合おうよ)
 奈緒は迷わず踏み込んだ。
 未だ遠い距離から、デトロイトスタイルそのままに、リードブローが放たれる。ランナが得意とする、ノーモーションからの美しい左ストレートだ。
 どうあっても届かないはずの長い左は、いつだって相手選手の顔面を見事に捉え、キャンバスへと沈める。だが、奈緒は決して倒れない。首をひねってパンチの威力を殺すと、ランナの懐へ飛び込んだ。
 膝を深く曲げ、アッパーを繰り出すが、ランナはひらりとそれをかわし、外へ逃げる。
 ぐるりと体の向きを変え、ランナの正面へ立ち塞がると、奈緒は上下左右に早いコンビネーションを繰り出した。
(正面から、"あの"右を出しなよ)
 パンチを全て見切り、スウェーとバックステップを用いて、華麗に避けてみせたランナが、さらに距離を取ろうとするのを、奈緒は執拗に追いかけた。
 ランナはいつもの、ヒット・アンド・アウェイでポイントを稼ぐ、アウトボクシングのスタイルに戻っている。力任せに両腕を振り回す奈緒は、カウンターの、格好の餌食だ。
 それでも、愚直に突進し続けた。正面で打ち合わねば、意味が無いのだ。
 やがて、ランナは左へ回り込み、奈緒が放ったワンツーの打ち終わりを狙って、右を返す。
 彼女の真っ直ぐに伸びるストレートは、申し分のない速さで、奈緒の頭を跳ね上げた。
 勝機と見て取り、ラッシュを仕掛けようとしたランナだが、やはり奈緒が倒れず、ガードも崩さずにいると、すかさず、ロングレンジからの攻撃に切り替えた。
 一ラウンド目とは打って変わって、正面から打ち合おうとしないランナに、奈緒は興ざめした。
 ディフェンスに徹し、距離が開いた状態から放たれるブローを、片っ端からさばいてみせる。
 左右のストレートはグローブで防ぎ、フックも腕を使って、払いのける。
 膝を曲げて、体重を片足に乗せると、ランナが出した腕の下へ入り込み、内へ外へとステップを踏む。
 合間にキレのあるパンチを何度も浴びたが、ダウンすることなく留まり続け、ひたすらランナの動きを、奈緒は目で追い続けた。
 彼女は打たれるのを嫌うあまり、盛んに左右へと動く。
 正面から来るパンチと比べて威力の劣る、横からの攻撃など、自分には通用しないと、いい加減教えてやらないといけない。
 奈緒の我慢は頂点に達していた。
 一瞬の隙を突き、ステップインから、ジャブでガードをこじ開ける。そこから出す、振り抜くことのない右フックは、フェイントだ。
 しかし、ランナはいとも容易く反応した。
 腕を上げ、頭を守ろうとする彼女のボディーが、ガラ空きとなる。
(ね? 正面からでなきゃ、あたしを倒せないでしょ?)
 奈緒は声を出さずに笑った。