A SPOOKY GHOST 第五十五話 運命は扉を叩く(2)

「お、こりゃ懐かしいね!」
 小川が真っ先に反応し、セコンドの三人は楽しそうに笑った。
 跳ねるようなテンポの音楽に合わせて、『Ghost busters!』というフレーズがリフレインで流れると、観客が調子付き、会場の賑やかさも増す。
「遠藤はマシュマロマン並の強敵ってことですかね」
「それにしたって、入場曲がゴーストバスターズのテーマとは、恐れ入ったな。あからさまじゃないか」
 小川だけでなく、佐々木と井谷までもが、次々と口を開く。
 ロープに両手をかけ、前のめりになりながら、奈緒は背筋を伸ばし、小さく息を吐いた。
「古い映画だよな? もう三十年近くも前か」
「落ちこぼれの科学者三人組が、幽霊退治をする会社を立ち上げて、大儲けするストーリーでしたよね。破壊神ゴーラが出てくるトコなんか、ハンパなく怖かった!」
「そう、そう、ゴーラ! 佐々木さん、よく覚えてるなあ」
「オレ小学生の時、映画館へゴーストバスターズ、観に行きましたもん」
「でも、最後の対決が笑えたよなあ。ゴーラがお前達の望む怪物で街をメチャクチャにしてやるとか何とかいって、おい! 何も想像するなよって、主人公がいうんだけど、仲間の一人が想像しちゃうんだよな」
 マシュマロのお化け! と三人は声を合わせていい、豪快に笑った。そして気が付いたように小川だけが、体を起こして振り返った奈緒に、タオルを放る。
「真っ白い、まん丸な化け物で、ビルを破壊しまくるんだ。見た目は可愛いのに凶暴そのものでさ、そのギャップに大爆笑モンだったよ」
 思い出すだけで可笑しいのか、井谷は体を揺らして話しながら、奈緒の肩に指を添え、小川がかけたタオルの上から乱暴に押した。
「あーあ、踊っちゃってるよ。まるでファッションショーに出てくる、モデルだな」
「ボクシングであのノリは、アリなのか?」
「女子ならでは、でしょ。それより、八度目の防衛戦だってのに、緊張はないんですかねえ」
 ランナ・コムウットに目が釘付けの彼らとは反対に、奈緒は赤コーナーに背を向けたまま、「水」と無機質な声を出した。ただちに給水ボトルが顔の前で傾けられ、うがいを済ませている間に、音楽も鳴り止んだ。
 目映い照明が点灯し、たちまちリングは真っ白に光り輝く。
 国歌吹奏をリングアナウンサーが告げ、小川に肩を叩かれた奈緒は、くるりと体の向きを変えると、会場の端にある巨大なスクリーンを仰いだ。
 向かいのロープ際に立つ、ランナ陣営が視界に入った。タイのコミッショナーと見受けられる、スーツを着た男性三人と、背中に『Team Komwut』と白い文字の入った黒いTシャツを着る、セコンドとおぼしき男性が、やはり三人並んでいる。
 奈緒に背中を向け、同じくスクリーンを眺めている、そんな彼らの真ん中に、ランナの後ろ姿があった。
 長い手足の先に見えるグローブからリングシューズに至るまで、全身黒ずくめで、四年前にスパーをした時と同じ色使いだったが、印象はまるで違った。彼女の着ているガウンが禍々しいまでに黒く目に映り、フードを被るその姿は、幽霊退治というより、命を狩りにきた死に神を連想させる。
(死に神、か)
 思わず眉をひそめる奈緒の向こうで、赤と白と紺が並ぶ国旗がスクリーンに映し出され、タイの国歌が流れた。
 すかさずランナ陣営の、スーツを着た男性が体の前でタイ国旗を広げ、セコンドの一人がWBAの黒いチャンピオンベルトを高々と頭上に掲げる。
 その様子は意気揚々として、ランナを支える人々の気迫に満ちていた。
 奈緒は目を伏せ、足を片方ずつ、ぶらぶらと交互に揺らした。
 続いて日の丸が大きくスクリーンに写し出され、君が代が会場に流れた。
 この試合の前に、人気男性アイドルグループによるパフォーマンスがリング上で行われたと、奈緒は聞いている。
 彼らに君が代を歌わせる案もあったらしいが、生前の金本老人はそれを断固拒否し、撥ね除けたのだという。スポーツ競技の場で国歌は歌無しの吹奏と決まっており、その荘厳さこそが世界戦に合っていると、彼にしてはまともな主張を押し通したらしかった。
 それだけ世界タイトルマッチは特別なのだろうが、日の丸を背負って戦うこと自体、奈緒にとっては無意味で、馬鹿げていた。この試合は天翔の政治力によって組まれた興行で、単なる見世物だ。
 日本を代表する気概に乏しい彼女は、冷めた目でスクリーンを見つめた。
 国歌吹奏の後、JBCによるコミッショナー宣言が行われ、いよいよ選手紹介となった。『これより、女子世界ミニマム級タイトルマッチ、十回戦を行います』と、リングアナウンサーの独特な節回しが、会場中に響き渡る。
 赤コーナー、と王者側から浪々と読み上げられた。
 時折シャドーボクシングを交えながら、青コーナー側で、奈緒はキャンバスの上を落ち着きなく歩き回る。
『二十八戦、二十八勝、無敗。二十八勝全てがノックアウト。公式計量百五パウンド、タイ王国出身。二〇一〇年、吉山美香に勝利して以来、四年にわたって王座に君臨し、未だダウンを知らない、絶対王者』
 今日のリングアナは、饒舌であるだけでなく、"絶対王者"という最高の賛辞をランナに贈った。
『IFBA女子世界ミニフライ級チャンピオン、そして、WBA女子世界ミニマム級チャンピオン、ランナァア、コムウットーォ!』
 奈緒は顔を上げ、射るような視線をランナへと向ける。この会場にあって、初めて彼女を正面に見た瞬間だった。
(変わってない……ランナは全然、変わっていない)
 黒いガウンを脱ぎ捨て、観衆へ向かい優雅に手を振る彼女は否応無しに美しく、奈緒も思わず息を呑む。
 足の膝から下が異様に長く、引き締まっており、ほっそりとしていた。そんな細い足や腰とは反対に、肩から腕にかけての上半身は肉が盛り上がり、男顔負けの筋力を思わせる。そんなボクサーとして最上の体を持ちながら、胸や腰回りはふくよかで、いかにも女性らしいランナの容姿は、瞬時に奈緒を圧倒した。
(キレイで、ボクシングも強くて……)
 顔は小さく、輝けるような浅黒い肌艶に浮かぶ、ぱっちりとした大きな目は、いかにも優しげで柔らかい眼差しに満ちており、少し大きめの鼻が、かえって愛らしさを醸し出している。
(あたしなんか、足下にも及ばない)
 薄いピンク色の唇を微笑んでいるかのように結ぶ、真向かいのランナを見れば、死に神どころか、天使とも思えた。
『九戦全勝、全ての勝利がノックアウト。公式計量百五パウンド、天翔ジム所属。これが世界初挑戦、未だ無敗のOPBF女子東洋太平洋ミニフライ級チャンピオン』
 青コーナーの紹介へと移り、奈緒はランナに引き寄せられたかの如く、ふらふらとリング中央へ歩み寄った。
『エンドォオ、スプゥキィゴーストッ、ナオォオ!』
 奇しくも彼女が天井を見上げ、降り注ぐ光の洪水を浴びながら固く目を閉じた刹那、名前をコールされた。
 力一杯両手を高く伸ばし、上を向いたまま、涙をこらえる。観客の注目を一身に浴びて戦う、この試合の主役は、ランナでなく、奈緒だ。
 ――誰もが自分を持ち上げ、褒め称える。
 ボクシングをやっていればいつかそうなるのだと、プロになる決心をしたあの夜、夢に思い描いた通りとなった。リングの真ん中で両手を振り上げ、雄叫びを放つ奈緒の声に、観客の声援が重なり、横浜アリーナが揺れる。
 でも、と腕を下ろし、目を開けた彼女は、満面に絶望の笑みを浮かべた。
(誰も、あたしを助けてはくれない)
 ――ランナが……彼女だけが、あたしを救ってくれる。
 くるりと踵を返し、コーナーへ引き返す奈緒を、セコンド達は皆、怪訝な表情で出迎えた。彼女らしくない笑顔と派手なパフォーマンスに、驚いた風だった。
「自信満々な、いい顔をしているぞ」
 奈緒が着る、普通なら有り得ないほど贅沢な、金本老人の置き土産でもある京友禅のガウンを脱がせながら、小川は取って付けたようにいった。
「観客は全員、お前の味方だからな」
「頑張れよ」
 ジャッジとレフェリーを紹介するリングアナの声をバックに、佐々木も井谷も、天翔のトレーナー達は、ありきたりな励ましを口にした。
 奈緒は何も答えず、小川に背中を押され、リングの中央へ行く。同じようにランナもやって来ると、アメリカ人のレフェリーを挟んで、奈緒と向き合った。反則行為について英語で注意が与えられ、無表情のままグローブを合わせた二人は、すぐまた離れる。
 戻ったコーナーで、奈緒はうがいだけ済ますと、ゴングが鳴るのを待ちながら、じっと赤コーナーのランナを見つめ続けた。
 脇に白いラインの入った黒いトランクスとブラトップを、彼女は身に着けている。黒く長い髪を編み込み、綺麗にまとめた髪型も、相変わらずだった。
 対して奈緒は、アスリート用の新素材を用いた特注の、プロテクターも兼ねる白いアンダーと真っ赤なブラを重ねた上衣に、牡丹の花々が咲き誇る華やかな絵柄のトランクスを合わせ履いている。
 シューズも赤で、キラキラと虹色の光沢を放つ表面が、けばけばしかった。
 体重をリミットいっぱいに落とすため、気休めでしかなかったが、髪はすっぱり耳が出るほど、短く切っていた。そのうえ、周囲からの勧めに従い、明るく染めたため、より子供っぽさが増し、小生意気に見える。
 単純に見比べれば、奈緒の方が断然きらびやかで目立ちもするが、品に欠けているといえた。
 その証拠に、黒一色のリングシューズも含め、ランナのウェアには全て、彼女自身がモデルを務める、有名スポーツブランドのロゴが入っている。トランクスの裾にもタイの国旗が縫い付けられ、さほど目立ちもしないそれらは、一流の人間にだけ許される、シンプルで威厳に満ちた装いであった。
 ランナに見劣りすることを恥とは思わないが、奈緒は人目を惹くだけで特に意味のない、虚飾にまみれた自身の外見を嘲笑った。
 これで今日の試合、無様なボクシングをしたら、これまで以上の袋叩きにあうだろうことも、容易に想像できる。
(打ち合うんだ)
 ゆっくりと鼓動を刻む心臓からほとばしる血が全身へと行き渡り、熱を帯びた奈緒の頭は、今にも爆発しそうだった。
 そんな彼女へ、ランナは顔に塗ったワセリンの具合を確かめ終えると、準備万端とばかりに体を向ける。
 時が満ちた――『ラウンド・ワン』とアナウンスされ、ゴングが鳴ると同時に、「BOX!」と叫ぶレフェリーの声を聞く。
(とことん、打ち合う……!)
 奈緒がキャンバスを蹴り、リング中央で構えるランナも、長い左で迎え撃つ。
 ジャブを額に受けながら、奈緒は低い姿勢からボディー目がけて、左フックをダブルで打った。
 すると、素早く距離を取り、正面切って向かい合うことを避けるはずのランナが、肩と肘でパンチを防ぎ、踏み込んでくる。それはボクサータイプである彼女にあるまじき、インファイトへの呼応であった。
 怯んでなどいられない奈緒が、躊躇することなく、ストレートを放ち、ランナも左腕を振り回す。
 フックを右に被せる、ランナの見事なカウンターブローを決まり、一瞬にして視界が真っ白になった奈緒は、気が付くと、薄汚れた扉の前に立っていた。