A SPOOKY GHOST 第五十四話 運命は扉を叩く

 スタッフ用の黄色いジャンパーを羽織った男性が、緊張した様子で、ドアの間から顔をのぞかせた。
「時間になりました!」と、蛍光灯の白い明かりに照らされて、どこか冷え冷えとした控室いっぱいに響く、大きな声を出す。
「入場の用意をお願いします!」
 舌っ足らずながらも、一息にそういい終えた彼は、部屋の隅でパイプ椅子に腰掛けている奈緒と目が合い、ほんのり頬を赤らめた。
(大学生のアルバイトかな……あたしと同い年っぽい)
 奈緒はかすかな笑みを返し、椅子からゆらりと立ち上がる。
「行くか」
 チーフセコンドを務める男性が、慣れた様子で周囲を見回し、声をかけた。天翔ジムのチーフトレーナーであり、カットマンとしての腕も確かな彼は、世界戦の経験が豊富だ。
 アシスタントとして奈緒に付く、残り二人のセコンド達も、慌ただしく道具を手にする。
(ええと、チーフが小川さんで、あとの二人が佐々木さんと、井谷さん)
 全員が天翔専属のトレーナーで試合慣れしており、チームの布陣としては文句無いものだ。
(東洋太平洋タイトルマッチの時と同じ顔ぶれだけど……)
 短く刈り揃えた小川の髪は、黒々としていても、頭頂部が薄かった。四角い大きな銀縁眼鏡の下にある、目尻の垂れた細い目の周りや口元には、深いシワが寄っている。
(こんなにオジサンだったっけ?)
 眉毛やヒゲの濃い佐々木は、まぶたの片方が極端に垂れ下がり、右目を細く見せているのが、いかにも古傷の残る元プロボクサーらしい。細面で色白な井谷は、不自然に眉毛を細くしており、襟足だけを長く伸ばした奇妙な髪型も相まって、とても堅気に見えなかった。
(けっこう、強面だったんだ……)
 天翔へ移籍した当時から指導を受けていたベスルコフがロシアへ帰国したのち、担当トレーナーが決まらなかった奈緒は、この三人を相手にトレーニングを積んできた。そんな彼らの顔を、奈緒はしげしげと横目に見ながら、控室を出る。
(今まで、何とも思わず顔を突き合わせてきたけど、ボクシングをやってなきゃ、こんなコワそうな人達と、絶対に接点なんか無かったんだろうな)
 今日という日に限っては、出会う人、皆が強烈な印象を伴って、記憶へとインプットされる。控室を出た廊下で奈緒は目を細め、視界に入る光景全てを、眩しく見つめた。
 そんな彼女の隣に、黒いダブルのスーツに身を包む、金本会長が並んだ。彼の父親であり、天翔ジムの創立者でもある、故金本昭三の遺影を持っている。
「遠藤、精一杯やれ」
 会長は短く告げると、答えを待たずに後ろへ行き、控室から現れた奈緒達、チャレンジャー陣営を取り囲む、たくさんの人達と談笑し始めた。
 試合開始二時間半前となる午前十時半に、金本会長や天翔のスタッフと、奈緒は車で会場入りした。それから入れ替わり立ち替わり、様々な人が控室を訪れ、求められるままに、一緒に記念撮影をしたり、サインをしたりして、忙しい時間を過ごした。
 会長が話をしている相手は、こういった激励に来た人々で、今も横浜アリーナの広い廊下に溢れるほどいる。しかし、奈緒の側には誰一人として近寄らなかった。
 一時間前には控室から全員出て行ってもらい、着替えを済ませ、ウォーミングアップを行った奈緒は、顔にワセリンも塗られ、準備万端の状態となっている。試合を目前に控えた、そんな彼女に近付き、話しかけ、心の底から励まそうとする人間など、最初から存在しない。
(きっと茶番なんだ、今日の試合は)
 ぽっかりと穴が空いたように、群衆から遠巻きにされながら、最後の最後に抱きしめた、金本老人の細い小さな体を、奈緒は思い出していた。
(先代のワガママに、天翔も結局は振り回されただけ)
 先代会長である金本昭三の悪評は大変なものであった。理由は簡単だ。裏社会をも巻き込んだ強引なマッチメイクや、天翔ジム所属選手の対戦相手に金を渡しての八百長など、物騒な事件を何度も引き起こし、協会を除名になるほどの処分を受けたからだ。
 のちに復帰を認められはしたが、胃ガンを患い、手術をした金本老人は、すっかりボクシングビジネスから手を引いたはずだった。
 そんな彼が奈緒に目を付けたのは、三年前のタイトルマッチで防衛に失敗して以来、世界チャンピオンが不在となった、天翔ジムの将来を憂えた為といわれている。金本現会長の手腕不足を嘆いたからだとも、噂された。
 だからなのか、金本老人は一度たりとも奈緒の試合を、会場まで足を運び、観戦に来たことが無かった。息子のメンツを潰さぬよう、裏方に徹すると決めていたのだろう。
 そして金本会長は、話題を集めるためなら、どんなことでも厭わない父のやり方を、暗に嫌っていた節がある。ボクシングというスポーツの正当性や将来性を考える彼にとって、これから行われる世界戦は、金本老人が生前お膳立てした通りに進められ、終えられる、一日限りのお祭りみたいなものだ。
(会長は初めから、あたしに興味なんて、無かったもんね)
 金本会長の奈緒に対する無関心は、移籍当初から変わっていない。娘の同級生の姉――その方がまだ、彼にとって馴染み易いのかもしれなかった。
 象徴的なのが、金本老人の代理として、彼がアメリカへ出向いた際のことだ。ランナ・コムウットとのマッチメイクをまとめ、帰国したが、詳細は全て、マネージャーの高橋と金本老人を通してのみ、奈緒へと伝えられ、会長自身はそれについて何も語らなかった。
(あたしと同じで、きっと会長も先代に乗せられ、ここまで来てしまったんだ……)
 何もかも今日でおしまいと考え、それさえも金本老人の筋書き通りだと、奈緒は思い至った。違っているのは、肝心な彼が奈緒の腕の中で息絶え、この世を去ってしまったことぐらいだ。
(最期はヨボヨボで、水を絞りきった雑巾みたいだった)
 異型狭心症と呼ばれる、心臓の血管に異常が起こって収縮する病気をきっかけに、心筋梗塞が進み、死に至ったのだという。
 亡くなった日、朝から金本老人は胸の痛みを訴えていたらしく、よくあるパターンの突然死であったと、奈緒はのちに説明を受けた。
(そう……人の命なんて、大したことない)
 金本老人の葬儀に、奈緒は出席しなかった。会長夫人が付き添い、救急車で彼が病院へ運ばれている間、慌ただしく自宅へ駆け付けた金本会長の指示で、予定通りハワイへ旅立ってしまったからだ。世界戦に備え、ホノルルで一ヶ月間の合宿を行うためであった。
 そうして、グラント・ウィニックという日本人ボクサーを千人以上も受け入れ、鍛え上げた名伯楽をコーチに特訓を行い、日本へ戻った頃には、天翔ジムで行われたお別れの会さえ済んでいた。
(弱くて、ちっちゃい虫とおんなじ。死んでしまったら、それで終わり)
 奈緒はストレッチをするように首を回すと、やがて天井を仰ぎ、何度も瞬きをした。
 ――数少ない理解者を、お前は平然と裏切る。
 金本老人は、死ぬ直前にいった。
(裏切ったというなら、裏切ったのかもしれない)
 でも、と奈緒は思い、床を見ると、固く目を閉じた。
(どうせ、いつも独りだもの)
 ボクシングを始めるキッカケをくれた橋野、奈緒に目を留め、プロへ進む機会を作ってくれた高口、練習を共にし、支え合った川上、中倉ジムで知り合った彼らは、もう奈緒にとって遠い存在だ。
 友人として、そして異性として、あまりにも近くなり過ぎてしまい、ついには間に深い溝が出来てしまったハルイチや、プロボクサーであるが故に奈緒を遠ざけた安森――一時でも心を許し、頼った男達は、奈緒が望むパートナーとはなり得なかった。
(独りがいい。そう……全て、あたしが望んだ通り)
 数少ない本当の理解者であったはずの家族や、幼い日々を共に過ごした篤志も、今の彼女には、どう接したら良いのか見当も付かない人々と化している。
(死んだところで、悲しむ人なんか、いない)
 ぱちりと瞳を見開き、顔を上げた彼女の前には、黒いスーツ姿の男性がいた。
「それでは青コーナー側、遠藤選手をご案内します」
 セキュリティー担当と思われる彼に促され、奈緒は両手のグローブを胸の前で打ち合わせた。ヒモが外れないよう巻かれたテーピングの上には、すでにインスペクターのサインも入っている。
 選手によっては円陣を組んだり、派手なかけ声を発して、気合いを入れ直したりするが、ただ静かに奈緒が歩を踏み出し、続いてセコンドと、先代の遺影を抱えた会長も後に続く。
 廊下にはマスコミだけでなく、前座を務めた選手達や、その関係者と思われる者も大勢いた。彼らは奈緒の姿を認め、潮が引いてゆくように、次々と道を開ける。
 以前なら公然と無視され、ひどい時には邪魔だと罵倒されたこともあったが、今の彼女は世界戦に挑む、メインイベンターだ。
 赤いグローブに合わせて用意された、鮮やかな薄桃色の牡丹が染め抜かれている、真っ赤な着物風の長いガウンの裾をたなびかせ、ただ睨み付けるように前を向き、歩く奈緒の行く手を阻む者など、誰一人として、いるはずも無かった。
 体を揺らすでもなく、拳を突き出すでもなく、姿勢を正し、無言のまま人垣をすり抜ける彼女に倣い、誰もが無口だった。
 足音だけがこだまする、静まりかえった廊下の先から、ベートーベンの交響曲第五番が聞こえてくる。左右に大きく開かれた扉の向こうに見える会場は暗く、重厚な弦楽器の音色に合わせて、まばゆいスポットライトが様々な方向へと飛び交っていた。
 挑戦者の入場を歓迎するかのように交響曲の旋律が、重々しい塊となって、鳴り響く中を、奈緒はゆっくりと前に進んだ。
 割れるような歓声が沸き起こり、アリーナ席の間を縫って歩く奈緒の左右で、柵の向こうから身を乗り出す人々を、スーツ姿のセキュリティー達が、懸命に抑え込んでいる。
 奈緒の主なファン層である若い女の子達が休日の昼ならば集まり易く、テレビの放送枠も比較的容易に確保できるという、亡くなった金本老人の戦略に添って打たれた、土曜の興行だ。
 彼の読みは見事に当たり、一万六千人の観客で埋まった横浜アリーナは、大変な熱気に包まれている。
 目の前には、入場する奈緒の姿を追う、テレビカメラがあった。女子の試合としては珍しく、日本では地上波で、タイとアメリカでは衛生を通して、中継されている。
「ナオちゃーんっ!」
 青いライトが瞬く花道の上で、奈緒は振り返った。すり鉢状に広がるアリーナ席の後方にいる観客が、叫んだらしかった。
(奈緒……ちゃん?)
 そんな風に自分を呼ぶのは、妹の千登勢だけだ。しかし、ナオちゃん、ナオちゃんと、若い女の子達から次々と声をかけられ、彼女はとうとう、その場で立ち止まった。
(冗談みたい)
 奈緒ちゃん、と友達のように呼ばれることを願った遠い過去を、おぼろげに思い出し、唇の間から苦い笑みがこぼれた。
「おい、遠藤。アピールしとけ」
 チーフセコンドの小川に耳打ちされ、奈緒は素直に四方へ向かい、両手を振り上げた。途端にキャーッ、と耳をつんざくような歓声が上がる。
 そんな観衆の熱狂ぶりとは反対に、奈緒の心は驚くほど静かで、落ち着いていた。
 再び歩き出し、センター席を越えると、リングの階段下に立った。松ヤニの入ったボックスに足を踏み入れ、うつむいたまま、二、三歩、足踏みをする。
(変なの……)
 全く気負うこと無くリングへ向かえる自分が、不思議だった。
(丸四年、この日を待ち続けた)
 高口に連れられて行った初めての出稽古でランナ・コムウットと打ち合ったのち、彼女ともう一度リングで向き合おうと、つらい練習に耐えてきた。
(あたしには、ボクシングがある。そう思った)
 眩しいスポットライトを全身に浴びながら、階段を上り、ロープの間をくぐる。奈緒がリングに立つと、観衆の興奮は頂点に達し、会場を揺らすほどだった。
(ボクシングを続けてさえいれば、好きなように、思うように生きられる。たった独りでも、怖くない。そう信じてた)
 否が応でも、ボクシングはオマエの体を蝕んでいく――初めて参加した中倉ジム恒例のスパーリングで橋野を圧倒した夜、家へ送ってもらう道の途中で、高口からそう、忠告された。
(ボクシングに心も体も蝕まれたとして、あたしはやれる……どんなに無謀であっても、やり遂げるんだ、と心に誓った)
 奈緒はガウンを羽織ったまま、キャンバスの感触を確かめるように飛び跳ね、オーソドックスに構えると、素早くコンビネーションブローを繰り出す。リングシューズの底がキュッ、キュッ、と音を発し、赤い八オンスのグローブが軽やかに宙を切り裂いた。
(そうして、ようやくここまで来た。だから、あたしは……)
 幽霊になる、と最後は声にして呟き、周囲が暗くなる。スポットライトが赤コーナー側へ移り、奈緒は暗いリングの上で左手を振り上げた。
(お願い、ランナ・コムウット)
 背中と上腕の筋肉が盛り上がり、血管が浮かび上がる――暗闇の中であっても、放った左のオーバーハンドブローに合わせ、体がしなやかに伸び縮みするのを感じた。
 ――あなたが作り出した、この不気味な幽霊を、消し去って。
 大きく弧を描いた左腕を畳み、奈緒は深呼吸をする。そんな彼女の静寂を打ち破るかのように、突如して、軽妙なリズムを刻む歌が騒々しく、耳に飛び込んできた。