A SPOOKY GHOST 第五十三話 沈黙(4)

「おじいちゃん、風邪をひきますよ」
 嫁の加寿子に体を揺すられ、老人は目を覚ました。いつの間にか熟睡していたようで、早くも外は日が傾いている。
「お聞きになりました? すごかったんですよ。つくし野書房銀座店でやった記者会見には百五十人の報道陣が、書店での写真集先行発売記念握手会には、千人ものファンが詰めかけたんですから」
 何について話しているのか、最初は皆目見当がつかなかったが、やがて奈緒のことだと分かり、あんぐりと口を開けたまま、老人はまぶたをこすった。
「千人……だと?」
 呆然としていい、縁側で体を起こす老人の脇を通り抜け、加寿子は手早く、部屋の雨戸を閉め始める。
「マネージャーの高橋さんが、てんてこ舞いしてらしたから、書店側との打ち合わせや、車での送迎を、お手伝いしてきたんです。長いことボクシングに関わってきたけど、あんな華やかな記者会見は初めてでした」
 天翔ジムの関係企業に取締役として名を連ねる彼女は、時として、会長である夫の仕事を手伝っている。今日も奈緒の記者会見に先立ち、様々な裏方を務めたようだった。
「そうか……それは、ご苦労だったね」
 雨戸を閉め終えた嫁に体を支えられ、老人は自室を出ると、居間に連れて行かれた。
「お体の具合は、どう? 今朝、胸が痛いとおっしゃってましたよね」
「うん。今は、だいぶいい」
「心配だわ。一度、病院へ行かれたら、どうです?」
「そうだね。明日にでも、名峰病院の武石先生に診てもらうか」
「ええ、それがいいわ」
 金本老人をソファーへ座らせ、念を押すように「絶対ですよ」と繰り返しながら、加寿子は忙しく台所へ向かう。
「ところで今、奈緒はどうしている」
「少しお疲れのようよ。ホノルル行きの最終便まで時間がありますから、うちでひと休みさせたのち、成田へ連れて行きます」
「何だと? ここにいるのか?」
 ソファーに腰掛け、目をぱちくりさせる老人へ、「ええ、いますよ」と、加寿子は台所のカウンター越しに答えた。
「記者会見のあと、高橋さんがお父さんと一緒に、いったんジムへ戻られるというんで、預かることにしたんです。大きなスーツケースを持たせたまま、トレーニングの予定も無い遠藤選手を、ジムで待たせるのも何ですから」
「そうだな。その通りだ」
「十五分もしたら来られるって、ついさっき、高橋さんから電話もあったし、あとは彼女にお任せするわ」
「しかし……高橋君が付き添うのは、成田までだ。奈緒を一人で飛行機に乗せて、大丈夫だろうか」
「ゴールデンボクシングジムのウィニックトレーナーが、ホノルル空港で、遠藤選手をピックアップする手筈となっているんでしょう?」
 大丈夫ですよ、と加寿子が笑い、自分が描いた台本通りだと、老人も決まり悪く、作り笑いを返した。
「それにしても、奈緒はどこだい」
 居間には、テーブルの上に置かれたままの、外国製の陶器に入った、飲みかけのコーヒーがあるだけだ。
「あら。さっきまで、ソファーでお茶してたんですけど。お手洗いにでも、行ったのかしら」
「お手洗いにしては、長すぎないかね」
 そわそわしながら、部屋の中を見回す老人に、カップを下げに来た加寿子は、意味ありげな視線を向けた。
「冷血プロモーターと呼ばれた先代らしくない、心配様だわ。よっぽど遠藤選手が可愛いのね」
 可愛い? と老人も思わず訊き返す。
「そうでしょ? 遠藤選手に目を付けられてからというもの、生き生きとされて……すっかり若返ったと、ジムでも評判よ」
 苦々しい口調となって告げる加寿子の横顔を、信じられない思いで見つめた。
「お年を考えて下さいね。孫とそう変わりない、年若い娘に入れ揚げるのも、ほどほどになさらないと」
 私は、と言葉に詰まり、老人は二の句が継げられなかった。
「もちろん、感謝してはいます。彼女のお陰で、天翔の経営状態もだいぶ上向きましたから」と、素っ気なくいい置き、カップを持った加寿子は、台所へと姿を消した。
 部屋がしんと静まりかえり、夕飯の支度を始める音だけが、台所から義務的な響きを伴って、聞こえてくる。
 老人は立ち上がって居間を去り、玄関へ下りると、外に出た。暮れなずむ夕刻の空を眺め、次いで庭の向こうに目をやり、じっとしたまま動かずにいる、人影を認めた。
「そんなところで、何をしている」
 声を発し、向かった先で、奈緒は道路の傍らに立ち、桜を見上げていた。
 老人と親交のある、テレビ局でニュースキャスターを務める女性に知恵を借り、あつらえた、上等なスーツを着ている。淡いベージュに薄いチェックの入った、英国の有名ブランド品だ。
 長い黒髪を綺麗に後ろでまとめ上げ、傷が目立たぬよう、念入りな厚化粧を顔に施しているが、非常に上品で知的に見える。奈緒の写真集がヌードを含んだ内容であることから、写真は卑猥なものではなく、肉体美をつぶさに表しているアートなのだと、強調する戦略に基づいて作られた、偽りのイメージだ。
 年頃の若い女性は着るものと化粧で、幾らでも化けるが、それにしてもその手のプロは、見事な仕事をする。普段の彼女とは似ても似つかない、偽物の外見は、それほどに完璧だった。
 老人はつくづく感心しながら奈緒と並び、夕映えに赤く染まる桜を仰ぎながら、いった。
「今日、中倉ジムの、高口トレーナーにお会いしたよ」
 横目に奈緒を窺い見、反応を探るが、彼女は微動だにしなかった。なぜか両手を、胸の前で天に向けている。何か大切なものを包み持っているようだが、夕闇に紛れ、中味はよく見えなかった。
 わからんね、と老人はかまわず、話を続けた。
「春山君は良き理解者であったはずだ。誰よりも、ボクサーとして奈緒のことを認め、深く想いを寄せている風だったが……」
 奈緒はそっと腕を動かし、視線を落とすと、手の中にあるものを、愛おしげにのぞき込む。
「どうにも、解せないのだよ。試合前だと知っていて、乳繰り合ったばかりか、後を引く別れ方などしおって……妊娠を避ける処置をしなかった春山君も間抜けだが、彼を弄ぶかのように、わざと連絡を絶った奈緒も、どうかしている」
 腹立ちが先に立ち、老人にしては珍しく、声を荒げた。
「奈緒は非凡なボクサーだ。素晴らしい才能を持っている。しかし、親身になってくれる人間は、ごくわずかだ。なぜだか、わかるかね?」
 焦燥に駆られ、だんだんと早口になる。平然としたまま、目を合わせようともしない奈緒が、憎らしかった。
「数少ない理解者を、お前は平然と裏切るからだ。家族だけでなく、一緒に汗を流した仲間まで遠ざけて、自分一人で生きているような顔をする」
 彼女は女子ボクシングの歴史に名を残す、不世出の天才であるのかもしれない。今まで手掛けたボクサーの中で、最高傑作となり得る素材だ。
 しかし、彼女自身にその自覚は無く、老人の意のままに動く操り人形として、幽霊の如くふらふらと、破滅へ向かっている。
「私無しでは、お前など、ただの変わり者だ」
 沈黙に負けては、ならなかった。奈緒を振り回し、狂気へと追いやっているのは、自分であるはずなのだ。
 奈緒、と名を呼び、静かに振り向く彼女を、睨み付ける。
「世界戦を終えたら、好きにするがいい。芸能活動をしようと、誰か適当な男を見繕って結婚しようと、お前の勝手だ」
 だが、と付け加え、「私を裏切ることだけは、断じて許さん。全てを終えるまで、それだけは決して、忘れてはならんぞ」と、老人は殊更に目を細くし、嫌らしく口の端を上げてみせた。
 ――華々しく散ってみせよ。
 彼女が望む限りの大舞台を用意した。全てを捨てて、己の最高の力を発揮し、ボクサーとして悔いなく試合を終えるのだ、と釘を刺したつもりだった。
 ところが、奈緒は顔色ひとつ返ることなく、両腕をすうっと伸ばし、手の平に乗るものを、老人の目の前へと突き付ける。喉まで出かかった悲鳴を慌てて呑み込み、老人は低い声で応じた。
「亜米利加白火取――アメリカシロヒトリだね……」
 奈緒の手の上で、無数の毛虫がうごめいていた。背筋が寒くなり、すぐにでも捨てさせたかったが、それをおくびにも出さず、淡々と言葉を紡ぐ。
「見た目と違い、触っても害は無いが、放っておくと桜の葉を食べ尽くし、丸裸にする。近いうちに薬を撒いて、駆除する予定だよ」
 金儲けの道具としか思っていない子飼いのボクサーから、逆に噛み付かれ、怯えでもしたら、老人の沽券に関わる。
「そうですか。どうせ、殺される命なんですね」
 突如、奈緒はいい、ゆっくりと指を曲げ始めた。グロテスクな黒い斑点模様が浮かぶ、巨大な緑色の体から、無数の細かい毛を四方へと伸ばす毛虫が、うじゃうじゃと彼女の手の中で、のたうち回っている。
「かわいそう」と、奈緒は指に力を入れ、ぎゅっと毛虫達を、握り締めた。
 止めろ、とひと言告げれば、残酷なショーを見ずに済んだのかもしれない。けれども、金本老人は沈黙の内にそれを見届け、さらに彼女の指の間から滲み出す、嫌な残骸をも目の当たりにした。
「そんな虫けらと自分を、重ね合わせているのかね。ただ消えゆくだけの命など、履いて捨てるほど、この世に溢れている」
 単なる捨て台詞であったのかもしれない。それ以上の言葉を見つけられず、握り締めた両拳を前に突き出したまま身じろぎひとつしない奈緒へ、老人は背中を向けた。
「庭の水道で、手を洗いなさい。もうすぐ、迎えが来る」
 思い出したようにそういい残して、よろよろと家に入り、上がった玄関口で、床に膝を突く。全身が震え、胸をわしづかみされるかのような、激しい痛みに襲われた。気持ち悪さに堪えかね、胃の中の物を戻し、徐々に視界が暗くなってゆく。
 全身に汗が滲み、呼吸もままならない中、遠くに嫁の叫び声を聞いた。
(参った……心は負けじと踏ん張れても、体が付いて来ん)
 自分は老いたと、老人は認めざるを得なかった。
 病気を理由にボクシングから遠ざかったのは、興行の成功を最優先とすることに、疲れたからだ。
 ライバルとなる選手のランキング入りを阻止したり、反則技も厭わないベテラン選手を当て馬として戦わせることで、有望な若手の芽を摘んだり、時にはタイトルマッチの機会を奪おうと、他ジムに対する妨害工作まで、躊躇無く実行した。
 それでも多くの目をかけたボクサー達が背中を丸め、肩を落とし、リングから去っていくのを、最後は虚しく見送るばかりだった。どんなに興行で成功を収め、懐に金が入ろうと、老人が心底満足し、誇りとする偉大なチャンピオンを生み出すことは、とうとう叶わなかったのだ。
(ボクサーを道具としか思っていなかった私の、限界であったのかもしれん)
 遠のく意識を何とか繋ぎ留め、ふと背中に人の温もりを感じた老人は、首に回された逞しい腕を、震える指先で撫でながら、歯噛みをした。
 女であろうと、かまわなかった。"小細工無しに"、並み居るライバル達を蹴落とし、寄せ付けない絶対王者を、心のどこかで、ずっと待ち望んでいたのだ。
(ようやく、夢を体現できる才能に、巡り会えたかもしれんのになあ)
 ここに来て、奈緒のあまりにも無欲な生き方が、もどかしくてならなかった。しかしながら、己の生に対する執着が増し、足掻いてみたところで、どうしようもないのだ。
(興行師として、数あるボクサーを使い捨てして来た私が、今さらこの若くて美しいボクサーと心を通わせるなど、笑止千万……ボクシング界のいい笑い種になるわ)
 それでも、と死を前にして思うのは、永遠に自分のものにはならない女を、せめて抱きたいと願う、浅はかな男の欲望にも似ていた。
(私の命も、履いて捨てるだけのものであったか……)
 後ろから老人に縋り付く奈緒へ、せめて笑ってみせようと、最後の力を振り絞ったが、それは最早、叶わぬことであった。