A SPOOKY GHOST 第五十二話 沈黙(3)

 老人へと向き直り、高口は重々しく口を開く。
「かつて敏腕プロモーターとして数々の興行をこなしたあなたが、ランナ・コムウットと試合をしたらボクシングを辞めるという、彼女の意志を、尊重するとでもおっしゃるんですか?」
 敵意さえ感じられる刺々しい物言いが気に入り、老人は顔をくしゃくしゃにした。
「防衛戦を何度も重ねて、普通なら儲けを出すところだが、奈緒の場合はもう十分、利益が見込めるということだ」
 そういって声を出さずに笑い、頭のてっぺんからつま先まで、しげしげと高口の姿を見やる。明るい薄茶色のズボンの上に、薄いギンガムチェックのシャツを着た、今時の若者らしい、出立ちだった。
「あれだけの才能を持っていながら、性を売り物にして稼いだんだよ」と付け加え、あまりにも涼やかな印象の高口から、気まずく視線を逸らした。
「現役の世界王者や野球選手と噂になったり、裸でカメラの前に立ったり、見事な見世物となったのだから、惨めなものだ」
 リングのキャンバスに両手を突き、「しかし、時代は変わった」と万感の思いを込めて、老人はいい放った。
「以前なら、話題集めに色恋沙汰は厳禁だったはずだ。何しろ、男性の多くは、女性アスリートに清潔さを求めるからね。ひたむきで純粋なイメージだ。もっとも、奈緒を支持する若い女性達は違う。自由奔放で、欲望にも忠実だ。自らと変わらない等身大の偶像を好む彼女達にとって、奈緒は強くて潔い、理想の女性だというから、驚かされる」
 血や汗が染み着いたキャンバスの、ざらざらとした冷たい感触が心地良かった。人は変わっても、ボクシングという競技の非情さに変わりは無いのだと、実感出来る。
「とにかく、リングの上では幽霊、リングの外ではモンスター、そう呼ばれることで、ようやく奈緒も、社会から認められたのだ。それ以上、何を望むというんだね? もう、十分ではないのかね?」
 冷血漢と呼ばれることを厭わず、過酷な打ち合いにこそ価値があると、数々のボクサーをこの冷たいリングの上に立たせては、潰してきた。そして老人は、人生最後の博打を打つに当たり、遠藤奈緒というボクサーを選んだのだ。
「世界戦を終えたら、もう奈緒は必要無いというのですか?」
 問い返す高口の前で、老人はフッと唇の間から皮肉な笑みを漏らし、キャンバスに置いた両手をぎゅっと握り締める。
「終わりだと、いったはずだ」
 一昔前のボクサーには、荒んだ外見の者も少なくなかった。そんな強面の荒くれ男共を、金本老人は年中怒鳴り散らしては追い詰め、闘わせていた。ジムも今と違って薄暗く、高口のような好青年や女性など決して寄せ付けない、陰鬱とした雰囲気に満ちていた。
「私は、追い詰められた惨めな者が必死になって闘う様を常に演出してきた、古い類の興行師なんだよ。金さえ手に入れば、もう闘うことも出来ない彼女に、用は無い」
 ボクシングが拳闘と呼ばれていた、あの頃を知る老人からすれば、女性である奈緒など、取るに足らない存在といえる。けれども、凄惨さが影を潜め、技術を競う場となりつつあるリングの上にあって、不気味な幽霊となる彼女は、昔のボクサー以上に、冷酷だ。
「……やはり奈緒は、体に何らかの異常を抱えているんですね。世界戦を終えたら、彼女がリングに立てなくなると、あなたは知っているんだ」
 どういう経緯で奈緒と春山が再会したのか、老人には分からない。しかし、彼女の様子に只ならぬものを感じ取り、不安に思った春山が、それを高口に伝えたとして、何ら不思議はなかった。
「まったく体に異常はない。パンチドランカーに似た症状が出ているが、精神的なものだよ」
 病んでいるのは彼女の心だ、と金本老人はいい、額に汗を浮かべた。
「本人はひた隠しにしているが、見る者から見れば、まともではない」
 身分、世代、性差という壁を易々と乗り越えて、奈緒は老人へと迫り来る。
「だから、終わりなのだよ」
 老人は上半身を起こして両腕を背中へ回し、手を組むと、虚勢と知りつつも胸を張った。
「私も身を引いて、長かったからね。思い付きで再びプロモーションに関わったのはいいが、年寄りの戯れも、そろそろ限界だ。潮時だよ、高口君」
 背中に痛みが走り、呼吸さえままならぬ中、息を詰めて笑ってみせる。幽霊に取り憑かれ、呑み込まれつつある今の状態を、誰にも悟られたくなかった。
「帰りたまえ。私は忙しい」
 一息に告げ、高口に背中を向けると、リングを離れた。
「今日はお時間を取って頂き、ありがとうございました」
 ジムの玄関口にあるロビーで、後ろから付いて来た高口は老人の前へ回り、丁寧に頭を下げた。
 春山に有利なマッチメイクを頼んでくると踏んで、駆け引きを覚悟したが、「奈緒をよろしくお願いします」と、開いた自動ドアの間から振り返っていい、呆気なく立ち去る彼を、老人はどこかホッとしながら見送った。
「先代! 終わりましたかあ?」
 ロビーにある備え付けの椅子へ、力尽きたように腰を下ろし、事務室から声をかけられた。
「応接室のお茶、下げちゃいますけど、イイですか?」
 窓口から顔をのぞかせてニコニコと笑う事務員の女性に、老人が返事をするよりも早く、「ヨシムラさーん」と、階段の上から別の女性が呼びかけた。
「ねえ、ねえ。来月の遠藤選手の試合! チケットって、もう買える?」
 買えるよ、と身を乗り出して答える若い事務員と、階段を下りて来た中年女性が、熱心に話し始め、ぼんやりと老人も耳を傾ける。
「もうねえ、リングサイドはダメなの。関係者で埋まっちゃった」
「ええっ、売り切れってこと? でもさあ、あんな高い席買えないから、どうでもいいや」
「A席の指定が一万円で、B席の指定が五千円だけど、二枚までなら一割引で買えるよ」
「うっそ、二枚まで? 実はA席を四枚、欲しいんだけど……」
「誰か、フィットネスクラスの人で名前貸してくれる人、探しなよ。その人と二人で買うってコトにすればイイじゃん」
「あ、それイイね!」 
「今、休憩中?」
「うん」
「じゃあさ、クラスが終わったらココに寄って。チケット四枚、用意しとくから」
 やったあ、と無邪気な笑い声がロビーに響き、老人は痛む胸をそっとさすりながら、立場に関係なく友達のように会話する彼女達を、珍奇な動物でも見るかのように、眺めた。
(これが、今という時代なのだ……)
 チケットのことを聞き終え、窓口から離れた女性は、老人の前を通り過ぎ、ロビーの奥にある自販機へ行った。手足も露わな、体にぴったりと張り付く服を着ており、カロリーゼロと大きく表示された甘い炭酸飲料を、何本も買い込んでいる。
 それらを腕に抱えたまま、女性は椅子に腰掛ける老人へ、ちらりと視線を投げて寄越したが、挨拶ひとつせずに階段を上がり、二階へと戻って行った。窓口にいた事務員の女性も、とっくに姿を消している。
(和気あいあいと楽しみながら、ボクシングに接するというのも、時代の流れか)
 老人は腰を上げ、ロビーを横切ると、ジムを後にした。
(私のような老いぼれには、別世界だ)
 胸の痛みもだいぶ治まってはいたが、穏やかに晴れた昼の通りを、重い足取りで歩く。
 ――時として、人生には奇妙な符合がある。
 駅へ着き、切符を買って乗った電車の中で、老人は思った。
 今朝、宏美と雑談を交わすうち、奈緒の家族について話題が及び、彼女が実家ではなく、どこか違う場所に泊まったという事実をつかんだ。直後ジムで高口と対面し、どこで、どうしていたのか、簡単に知る事となった。
(まさか、男と一緒にいたとは……)
 天翔へ移籍して間もない頃、夜中に部屋を飛び出し、走り回っているという噂を聞きつけ、きつく彼女に注意したことがある。またしても同じことを繰り返したのかと勘違いし、走る元気もなくなるほど鍛えてやらねばと熱くなった自分を、老人は恥じた。
(振り回されている……私が、あんな小娘に)
 雑誌に載っている遠藤奈緒は、華やかでいて、落ち着いた雰囲気を醸し出す、美少女だ。テレビでは、言葉少なであっても歯切れの良いコメントを残し、頭の良さを存分にアピールしている。
 リングの上でも派手なKO勝ちを続け、世界はまるで自分を中心に回っているかのような、活躍ぶりだ。
 ところが、間近に彼女と接すると、その不気味な静けさに、大抵の人は驚かされる。
 天翔ジムで奈緒は長い間、好奇の目に晒されると同時に、嘲笑の的となっていた。金本老人の肝煎で移籍してきたものの、グラビアで水着になったり、思いも寄らず若い女性達のカリスマとなったりしたからだ。
 地道な努力の結果ようやくチャンピオンとなっても、なかなか世間から注目されることなく、経済的にも厳しい他のボクサー達からすれば、嫉妬もあったのだろう。売名行為と取られても仕方の無い注目のされ方は、軽蔑の対象でしかなく、色物だというレッテルを貼られるに十分だった。
 アマチュアの女子ボクサーを指導した経験のあるベスルコフだけは例外で、奈緒がロープを飛ぶのを見ただけで、その才能に惚れ込み、熱心な指導を行った。しかし、彼がロシアへ帰った後は、天翔のトレーナー達で、彼女の面倒を見ようという者は、誰一人としていない。
(物静かを通り過ぎて、沈黙ばかり貫く奈緒の実像を、誰もが嫌う)
 大人しいだけでなく、礼儀もなっていなかった。挨拶はするがおざなりで、何か世話をして貰っても、軽く頭を下げるだけだ。
 話しかけてはみたものの、ろくに返事もせず、笑顔ひとつ見せない彼女の愛想の無さに、誰もが見下されていると、悪い印象しか持てないのも無理はない。
(世の中、無礼な者ばかりだというのに……)
 電車に揺られながら、老人は瞬きを繰り返す。
 さっきもジムで若い女性達が、敬語ひとつ使わない、馴れ馴れしい口調で会話を繰り広げていた。ところが彼女達は、同じ無礼であっても、非常にざっくばらんで、開けっぴろげに見える。
(根本的なところで、奈緒は、社会と相容れないのだ……)
 窓の外を流れていた景色がゆっくりと止まり、老人は電車を降りた。
 駅の改札を抜け、漫然と自宅へ戻ると、庭に面した自室の縁側で日の光を浴びながら、沿道に生い茂る桜の若葉を望む。
 わずかに胸が痛んだが、束の間とはいえ、うつらうつらと平穏な時間を過ごしたのだった。