A SPOOKY GHOST 第五十一話 沈黙(2)

 なかなか肝が据わっているらしい。目の前の男は立ったまま、老人が笑い止むのを、ただ静かに待っていた。
「いや、失礼。ひねくれた私のような年寄りには、君の気負った様子が滑稽でね」
 挑発めいた台詞と共に手を動かして、座るよう促すと、高口は老人を真っ直ぐ見据えたまま、向かいのソファーに腰を下ろした。
「どうやら余程のことらしいが、そう簡単に奈緒と、話をさせる訳にはいかない。彼女は今日の午後、記者会見を開く予定で、君に会っている暇もないからね」
「だったら、どうして、わざわざ私をここへ呼んだんですか?」
「天翔へ電話をしてきて、奈緒と連絡が取りたいと、食い下がったらしいじゃないか。だから、ジムの人間に私が指示をして、ここへ来てもらうよう、伝えさせた」
 彼女は大切な看板ボクサーだからね、としわがれ声で凄み、老人は皮肉めいた明るい態度を一変させた。
「何でも、問題になりそうな事柄は、把握しておきたい。束縛といわれようが、干渉といわれようが、それが才能あるボクサーを潰さない、一番確実な方法なのだよ」
 それに、と付け足し、ソファーに埋もれたまま、高口を上目遣いに睨み付ける。
「君は臨時トレーナーの依頼を断ったはずだ。今さら彼女と何を話したいのか知らんが、私に話せない内容であっては困る。彼女の知られざる私生活は、多くの人々の興味を惹くからだ。私が前もって知っていれば対策も立てられるが、知らなければ簡単にマスコミの餌食となる」
 高口の表情に迷いが生じるのを、老人は見逃さなかった。「聞いた話は、決して外には漏らさない。必要なら、奈緒と君を会わせても良い」と畳みかけ、ドアをノックする音を聞いた。
「失礼しまあす」
 先程すれ違った若い女性がお茶を運んで来て、その場にそぐわない「ごゆっくり」という気の抜けた言葉を残し、すぐまた出て行く。
 老人は悠然と湯飲みを手にし、茶をすすった。
「先ほど、記者会見とおっしゃりましたが……」
 高口は膝に両手を置き、ぼそりと呟いた。
「それは、六月十七日の世界戦……ランナ・コムウットへ挑戦する試合についてですよね」
「その通り」
「金本会長。試合は確かに行われるんでしょうか」
「会長と呼ぶのは止(や)めなさい」
 やんわり咎め、「何とお呼びすれば?」と訊かれた金本老人は、湯飲みをテーブルに置き、「何とでも」と答えた。
「とにかく、試合は行われる。何の支障も無い」
「遠藤選手……奈緒の体調は万全なのですね?」
 万全? と老人は片眉を上げ、笑った。
「遠回しな聞き方だ」
 何がいいたい、と顔から笑みがすうと消えゆく中、老人の据わった目が、高口を射貫くように見つめる。
「奈緒が……ウチのジムに所属している春山と、不適切な関係を結びました」
 膝の上で固く両手を握り締めて、高口はいい、老人の視線を撥ね返す。
「日本タイトルが懸かった大切な試合の、わずか六日前のことです。結果、春山は試合に敗れました。当然の報いかもしれません」
 老人はソファーの背もたれに小さな細い体を預け、天井を見上げた。もちろんそこに青空は無く、蛍光灯の放つ無機質な光が、やたらと目に痛い。
「春山は当初、そのことを黙っていました。けれども、事情を知る彼の友人が、こっそり教えてくれたんです。私は激怒して、本当に奈緒を部屋に泊めたのかと、春山を問い詰めました」
 弱々しく瞬きをしながら、無意味に口の回りを触る老人の指先が、かすかに震えた。
「ようやく認めた彼から打ち明けられたのが、女性である奈緒にとって、リスクを伴う行為だったという事実です。放っておく訳にはいきません」
 高口の声も揺れていた。自らが手塩にかけて育てた選手の、見るも無惨な敗戦後の姿に打ちのめされ、怒り心頭なのだろう。タイトル奪取に失敗した原因が、元ジムメイトも絡んだ軽率な行いにあるのなら、尚更だ。
「奈緒の携帯へ電話をしましたが繋がらず、実家に電話をしても、連絡先は知らないと、あっさり切られてしまいました。それでとうとう、天翔ジムの方へ連絡を入れたんですが、彼女は頑として電話口に出ず、こうしてあなたとお会いする他なくなってしまったんです」
 金本老人は目を閉じ、深く息を吸った。
 試合を間近に控えた選手に一番大切なのは、あらゆる欲を抑え込むことだ。
(その苦しみを、奈緒は嫌というほど、理解している)
 一口食べれば、二口三口と、余計に物が食べたくなる。惰眠を貪(むさぼ)れば、生活のリズムが崩れ、練習も疎かになる。情事に溺れれば、四六時中、女のことを考えるようになる。
(三禁の重い意味や、ボクサーの心理を知り尽くしている彼女が、試合前だと分かっていて、わざと人間の本能を揺さぶり、弱みに付け込むようなことをしたのだとしたら……)
 ほんのちょっとしたことがキッカケで、人は簡単に歯止めが利かなくなってしまう。心は常に楽な方へ流され易く、流されれば、際限なく欲求を満たそうとするからだ。
(春山を潰そうとした。そうとしか、思えん)
 恐怖や痛みを乗り越えるため、尋常でない我慢比べを強いられるボクサーは、厳しい自制無くして、試合に勝利することなど有り得ない。理屈ではなく、それがボクシングという競技の、常識なのだ。
(無論、春山にも非はあった。しかし、奈緒は一体……)
 老人は息を吐きながら目を開け、項垂(うなだ)れると、向かいに座る高口を上目遣いに見やった。
「会長である中倉君は、そのことを知っているのか」
 黙って高口が首を左右に振り、老人もうなずく。
「では君以外に、春山君の友人をのぞいて、それを知る者は?」
「以前お世話になった、川上です。元スーパーライト級日本王者の……」
 ああ彼か、と老人は気だるそうに返事をし、目をしょぼしょぼさせた。
「川上君は引退した後、どうしている?」
「家庭を築き、立派に暮らしています。時折ジムに顔を出して、練習生を指導することもあります」
 大丈夫ですよ、と高口が先回りして、告げた。
「彼は口が堅いですから。それに春山と同じく、奈緒を崇拝しています」
「崇拝?」
「そうです。私と春山、それに川上は、奈緒が中倉ジムに入って間もない頃から、彼女に注目していました。川上に至っては、怪我から復帰を決めたのも、引退を決めたのも、どちらも彼女に影響されてのことです」
 もぞもぞと体を動かし、ソファーへ座り直した老人は、「面白そうな話だ」と、言葉とは反対にそっぽを向いた。
「奈緒の移籍と引き替えに、日本タイトルに再挑戦出来るよう、川上君をランキングに復帰させるお膳立てをしたが、彼には彼なりの、ボクシングを続ける理由があったということか」
 話しながら壁に目をやり、天翔ジムから出た歴代チャンピオンの写真を、順繰りに眺める。写真は全部で、三十枚近くもあった。
「川上も奈緒と同じく、リングの上にしか、居場所の無い男でした。ひたむきにボクシングに取り組む彼女が気に入り、練習を共にするだけでなく、試合も必ず応援に行っていました。それだけに、奈緒の変化に気付くのも、早かったようです」
 高口の語るに任せ、老人は写真を見ながら、聞き役に徹した。ひどく肩が凝り、口を開くのも、億劫だったからだ。
「日本王座を明け渡し、いったんは引退も考えたようですが、自らを痛めつけるようにボクシングと向き合う奈緒を、彼は捨て置けませんでした。恐らく、彼女に負けたくないという気持ちもあったんでしょう。ジムに再び顔を出し、ともすればやり過ぎる奈緒にストップをかけながら、再起の機会を待ったんです」
 そっと横目に、高口の顔を窺い見る。冷静さを取り戻したようで、口調に硬さは残るが、表情は幾分和らいでいた。
「その後、ご存知の通り奈緒は中倉ジムを離れ、天翔で目覚ましい活躍を遂げました。川上にもチャンスが巡ってきて、彼自身、それが奈緒のお陰だと、薄々勘付いていたようです。彼女に報いるため、何とか勝って日本タイトルに繋げたいと、必死でした。それが却(かえ)って仇(あだ)となったのかもしれません」
 老人は床に視線を落とし、ソファーの上で、その身を縮めた。明け方に胸が痛くなり、布団の中で不自然な姿勢のまま、横になり続けたせいかもしれない。肩に手を置き、うつむいている間にも、高口はしゃべり続けた。
「川上の復帰戦は派手なKO勝ちでしたが、再び骨にダメージを負ってしまいました。ところが当人は、サバサバとしたもんでした。憑き物が落ちたように引退を決意して、あっさりと結婚し、子供も生まれました。家族が出来て、彼にもリング以外の居場所が出来たという訳です」
 とっくに湯気も出なくなった白いカップに手を伸ばし、中味を飲み干すと、高口は再び話し始める。
「未練がないとはいわないまでも、世界はあまりに遠いと、川上はいいました。強いだけでは挑戦も叶わず、有力ジムやプロモーターのような後ろ盾が必要なのは勿論、何よりも人生の全てを賭ける覚悟がいる……奈緒は命さえ惜しくないと思っていて、彼女が世界を目指すように、誰もが世界を目指せるはずもない」
 肩から手を離し、老人は目を瞬(しばたた)かせた。
「そんな彼女を大げさだと大抵の人は笑うかもしれないが、川上は本気で心配し、何とかならないかと、悩んでいました。けれども、奈緒を追えば追うほど、泥沼のようにボクシングの魅力に囚われ、彼女のように生きたいと、ボクサーならば願ってしまう。だから、川上は諦めたんです」
 選ばれた人間しか、"リングの上の幽霊"にはなれない――高口は謎めいた言い回しをした。
「それが分かってしまった川上は、引退する以外に、選ぶべき道も無くなってしまったんです」
「それではまるで……」
 よろよろと身を乗り出し、老人は掠れた声を出した。
「春山君が試合に負けたことだけでなく、川上君が引退したのも、奈緒のせいだといっているように聞こえる」
 そうですね、といったきり、高口が口を閉じ、ぐったりと老人はソファーに寄りかかった。
「話を元に戻そう。君も女子担当トレーナーだったのだから、十分承知しているだろうが、妊娠反応検査は試合前二週間以内と決められている。結果を知るにはあと三週間、待たなくてはいけない」
 そういって、ふらふらと立ち上がると、覚束ない足取りで歩き出す。二カ所ある出入り口の、練習場へ繋がるドアを背にして、老人は振り返った。
「しかし、女性とは便利なものだ。きちんと月のものがあれば、一応は判断がつく。付き人の報告だと、奈緒は二日前に終えているという話だから、シロだと思っていい」
「間違いないのですね」
 ソファーに腰掛けたまま、上半身をよじって、老人に目を向けた高口は、念を押すように語尾を強めた。
「奈緒自身、厳しく管理しているから、間違いないだろう。次は二十日頃に訪れる予定で、そのまた次は試合後になるよう、薬を使ってコントロールしているはずだ」
 女性はそういう面でも努力がいる、と金本老人は有るか無きかの笑みを口元に浮かべ、「これで確かめるべきことは、確かめたのだから、お帰り頂こう」と高口に告げ、ドアの取っ手をつかんだ。
「まだ宮崎という姓だった頃の春山君を、私は覚えている。揉めた末に両親が事件を起こし、それに彼も巻き込まれ、随分と辛い思いをしただろう」
 高口が驚き、ソファーから腰を浮かすのを見て、老人はすかさず扉を開けた。ワセリンや皮の匂いが混じり合った、ジム独特の空気と、パンチングボールを叩くリズムカルな音が、応接室に流れ込んでくる。
「けれども、中倉ジムで彼に再会した時、私は思ったよ。きちんと導いてくれる大人や、支えてくれる良き友人に恵まれ、立派に立ち直ったのだとね。タイトルマッチに敗れたとしても、そんな彼には、まだ未来があると信じたいものだ」
 金本老人へ歩み寄り、開いたドアの横に立った高口は、広い練習場を物珍しげに見回しながら、「春山のことを、覚えておいででしたか……」と、小声でいった。
「覚えていたところで、彼に会いたいとも思わないがね」
「そうおっしゃると思い、連れて来ませんでした。春山本人は行きたいと駄々をこねましたが、私はもう、奈緒には関わらない方がいいと思っています」
「そうだ、それで間違っていない。恐らく、春山君の部屋に泊まった、翌日だと思う。奈緒は携帯電話を無くしたといって買い直し、わさわざ番号も変えている。彼女が連絡を取る相手など、付き人の女性ぐらいだ。さして問題は無いと、気にもかけていなかったが、春山君と音信不通になることを、実のところ、望んでいたのだろう」
 ビルの入り口から賑やかな声が聞こえてくる。二階で開催中のフィットネスボクシングに参加するため、女性達が集まって来たらしかった。
「あなたは、とんでもないモンスターを、生み出したのかもしれません」
 突然、高口はいい、老人の前を横切ると、練習場のリング下に立った。
「奈緒がモンスター? あれは変わっているが、モンスターと呼べるような大物でもあるまい」
 後ろ手に応接室のドアを閉め、金本老人も練習場へ出た。そして、高口の横に並び、誰もいないリングを見つめる。
「ご存知ありませんか? 奈緒の世界戦が行われたとして、ノーコンテストとするか、もしくはタイトルを認めないよう、勝英ジムの西内会長が、今度の理事会で提案されるそうです」
「協会の月例理事会でか? 馬鹿馬鹿しい。WBAに提訴しようとでもいうのなら、気が狂っているとしか思えん」
 何でもない風に応じつつも、これは牽制なのだと、老人は分かっていた。
「経緯はよく分かりませんが、明日書店に並ぶ予定の奈緒の写真集を、どういう訳か西内会長は早くも手にされて、ご覧になったそうです」
「けしからんというのであれば、まあ確かに感心される内容では無いと、答えるしかあるまい」
 そういい、軽い調子で笑い飛ばす老人を、高口は傍らで、怪訝そうに見守る。
 勝英ジムは天翔よりもさらに歴史が古い、国内における有力ジムのひとつだ。昔ながらの運営を続けていて、アマで実績がある選手を引き抜く以外は、入門テストに合格した練習生しか受け入れていない。
 プロ養成を専門としており、女性の入門など以ての外(ほか)という態度を崩さない保守的なジムだが、名立たる王者を輩出し続け、今現在も現役のプロボクサーを数多く抱えている。
 ボクシングの放映権ビジネスで圧倒的な強さを誇っているが、派手な興行でのし上がり、その地位を奪おうとする天翔と、何かにつけて対立する機会も多い。
「おととい、後楽園ホールで中倉会長は、西内会長から直接そのお話を伺い、意見を求められたそうです。もっとも中倉会長も答えようがなく、挨拶だけして別れたそうですが……」
 高口はいい、ちらりと老人に視線を走らせると、すぐまた正面を向いた。
(西内の二代目め。脅しのつもりか? 私の耳に入るよう、妙な小細工をしおって……)
 勝英ジムの西内会長は、何かと天翔と繋がりの深い中倉にわざわざ話を持ちかけることで、目立つことはするなと、遠回しに金本老人に釘を刺したのだ。
 おっとりとした動きで肩を揉みながら、小さく舌打ちをする老人の隣で、初めて高口が声を荒げた。
「奈緒は今や、ボクシング界の異端児です。どんなに実力が抜きん出ていても、このままでは皆から叩かれ、爪弾きにされかねません」
 いいのだよ、と肩から手を下ろし、老人は飄々(ひょうひょう)といい放った。
「あの子はもう、終わりだ」