A SPOOKY GHOST 第五十話 沈黙

 自宅前に、桜の大樹がある。
 数年前、住宅地の狭い路地を広げる拡張工事が始まり、切り倒される予定だったが、緑化保全を進める区役所から残そうという話が出た。お陰で、今でも春になると華麗な花びらを散らし、この時期は鮮やかな若葉をつける。
 枝の伐採や落ち葉の処理など、維持するには手間が掛かるが、金本老人にとって、桜はあって当たり前の存在だ。いつ頃からか家を出ると、木の下に立ち、空を見上げるのが習慣となっている。今朝も門扉をくぐって桜を仰ぎ、青葉の隙間からのぞく眩しい青空に、目を細めた。
「おじいちゃん」
 五月晴れの日には似つかわしくない、ヘリンボーン柄の、重い冬物ジャケットを羽織った金本老人は、のっそりと振り返った。
「車じゃなく、電車でお出かけ? もう少し待てば、お父さんも家を出るから、車に乗せてもらえるわよ」
 門をカチャリと閉めて微笑む孫娘の宏美と目が合い、「いいんだよ」と、老人は再び空を見上げた。
「お父さんは遠藤選手を迎えに行くんだから」
「おじいちゃんは行かないの?」
「行かないよ。ジムで人に会う約束があるからね」
 そうなの、と宏美は相槌を打って老人に並び、「毛虫が出るから、下にいると少し怖いわ」と大人びた口調でいった。
「落ちてきやしないよ」
 老人は笑い、駅へ向かって歩き出した。孫の宏美も、ゆっくりと彼をかばうように、横を歩く。
「宏美、学校は楽しいかね」
「楽しいわよ。テストさえなければ、もっと楽しいのに」
 ぷうと頬を膨らませる様が愛らしく、老人は相好を崩した。
「もう三年生だものなあ。進路はどうするつもりだい?」
「付属の大学へ進むつもり。古文が好きだから、文学部で勉強したいと思っているの」
「そうか……」
 老人はうつむき、アスファルトの路面を見詰めた。
 一人息子の雅文はボクサーにせず、プロモーターとしてジムに関わる、経営者に育てた。プロボクシング界が苦境にあってもジムが存続できるよう、まずは教育だと苦心した結果だ。
 この判断は間違っておらず、運営するボクシングジムから幾人もの世界王者を輩出してきた天翔プロモーションは、テレビ局とタイアップしながら、未だに数多くのタイトルマッチを手掛けている。
 こうして雅文は期待に応え、日本ボクシング界を支える立派な会長となった一方、結婚は遅く、子宝にもなかなか恵まれなかった。ようやく産まれた初孫が女の子で、いずれは婿を取ってジムを継がせようと考えた時期もあったが、隣り合って歩く宏美を見ながら、それは夢に過ぎなかったと、老人は認めざるを得なかった。
 グレーのブレザーにチェックのスカートを合わせた、制服姿の彼女は美しい。今時の女子高生にありがちな派手派手しさは無いが、おっとりとした振る舞いは上品で、優雅だ。
 北章学園初等部へ入学し、小学校から高校まで、エスカレーター式に上がってきた宏美は、がつがつしたところが無い。聞き分けの良い素直な性格なのも、金銭的に不自由した経験を持たない、俗っぽい言い方をすれば、お嬢様だからだろう。
(やがては嫁に行き、母となる……)
 祖父としても、この可愛らしい孫娘が汗臭く貧乏じみたボクサーの世話をしたり、どこか胡散(うさん)臭い興行主達と、海千山千のビジネスを繰り広げたりするなど、耐えられそうになかった。
 相手を間違わなければ、結婚して平凡な家庭を築く道が、一番合っている。
(それが、女の幸せというものだ)
 そう信じる彼が、遠藤奈緒というボクサーに巡り会ったのは、つくづく皮肉であった。
(彼女に、そんな幸せが訪れるのだろうか……)
 奈緒の行く末に考えが及び、無口となったところへ、「同じクラスの遠藤さんはね、海外へ留学するんですって」と宏美がしゃべり始め、彼は顔を上げた。
「遠藤? 遠藤選手の妹さんか」
「そうよ、遠藤千登勢さん。彼女はアメリカの大学へ進む予定で、TOEFL(トーフル)も受けているの。夏休みにはアメリカでホームステイをするそうだし、冬休みが終わる頃にアプリケーションを出すと、まだ五月だというのに決めているのよ。入学を許可してもらえたら、来年の秋から向こうの大学に通い始めるらしいわ。いずれはビジネススクールにも通いたいって、それは熱心なのよ」
 感心しているようで、妙に冷めた口調だった。付属大へ進まず、日本の有名大学を受験する訳でもない、遠藤千登勢の幼稚なキャリア志向を、心の中では笑っているのだ。
 人を馬鹿にする態度は頂けないが、地に足を着けた孫の考えは好ましく、老人を満足させた。
「高校を卒業してすぐでは、アメリカのカレッジはスプリングセメスターの途中だね。だから秋まで待つのか。それまで彼女は、どうするつもりなんだい?」
 笑いながら話を振ると、ますます宏美は高校生らしくない、丁寧で、回りくどい言い方をした。
「お母様と渡米して、現地で英語学校に通いながら、秋まで待つというの。遠藤さんのお母様は、海外の生活に関心がおありなのね。付属大にも交換留学生制度があるのだから、進学して、そちらを利用すればいいのに、どうしてもアメリカで娘と暮らしたいらしいわ」
「父親は大変だね。一人日本に残って、妻と娘に仕送りするのだから」
「あら。お姉さんが仕送りをされるんでしょ? 遠藤さんの話だと、お姉さんは近く写真集を出されるそうだし、ご家族もそれを喜んでいらっしゃるみたいよ」
 意外なことを耳にし、老人はついつい顔をしかめた。
(そういえば、契約書関係は全て両親を通して、判を貰っているのだったな)
 奈緒に関していえば、金銭のやり取りを含め、契約の仕方も異例ずくめだ。
 ファイトマネーやテレビの出演料など、彼女の収入はマネージメント料を差し引かれたのち、本人名義の銀行口座へ振り込まれているが、その管理は親に任されていた。どれだけの資産を持ち、税金を納めているのかも、恐らく奈緒は把握していないだろう。
 マネージャーの高橋に頼んだ買い物の代金や、自由になるわずかな小遣いさえ、ジムを通して親へ請求し、受け取っている彼女の態度も不可解だ。
(それでは、どんなに金を儲けたところで、家族が食いつぶしてしまう……)
 写真集にしても、来月初めに行われるランナ・コムウットとの試合を最後に、現役を引退すると決めているからこそ、出版を決めた。よりセンセーショナルな話題を集めるためで、週刊誌で水着姿となり、協会から受けた注意を無視する内容だ。
 どんな写真が撮られ、掲載されるのか、奈緒本人は親に話しておらず、ジム側も契約書に判を押して貰えさえすれば、あとは知らぬ存ぜぬの態度を押し通すつもりである。
(親の怒りを買うだけでなく、金までむしり取られ、彼女は引退後、どうするつもりだ)
 答えが分かっていながら、金本老人は空しく首を左右に振った。
 やがて駅へたどり着くと、切符を買ったり、ホームまでエレベーターに乗って付き添ったり、孫の宏美は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
 連れ合いに死なれて間もない十年以上も前、老人は病を患い、胃の半分を切除している。それをきっかけにジム経営から離れたのちは、衰えて動きも鈍く、実際の年齢より老けて見える始末だ。
 ただ孫の好意に甘え、ホームで電車を待つ外(ほか)なく、ぼんやりとしていて、「ねえ、おじいちゃん。素敵なポスターね」と、宏美から話しかけられた。
 老人はハッとして、彼女が向ける視線の先に、焦点を合わせた。
 駅構内の壁に、ランナ・コムウット対遠藤奈緒の世界タイトルマッチを告知するポスターが、掲示されていた。宏美はうっとりとそれを見詰めながら、「センスがいいし、美しいと思うの」と、手放しで褒めた。
 ボクシングに興味がなく、滅多なことでは天翔ジム所属の選手について触れようともしない彼女の感想に、老人は力を得た。
「やはり、妙な先入観や偏見のない、宏美のような若い女性には、無理なく受け入れられるんだね。嬉しいよ」と語り、しみじみとポスターを眺めた。
 金本老人をボクシングの世界へ引き戻した二人の天才ボクサーが、ポスターの中で隣り合って立ち、互いの目を見ている。彼女達の凛とした横顔と、何も身に着けていない背中にかかる、長い黒髪が印象的だ。
 腰から上の後ろ姿を撮った写真だが、対照的な二人を詳細に写し出していて、興味深い。
 ランナは腕が太く、盛り上がった上半身からはみ出す豊満な胸の膨らみが、いっそう目を惹く。かろうじてポスターの端に写る、ふくよかな尻とは反対に、腰は折れそうなほど細く、凹凸のある肉体美が嫌というほど強調されていて、小麦色に色付いた肌が艶(なま)めかしかった。
 奈緒はといえば、全体的に細い。あまり体の線にメリハリが無く、肩と背中の筋肉が異様に目立ち、一見すると男のようだ。しかし、抜けるような白い肌とほんの少しだけのぞく乳房が、妙に女っぽく、美しかった。
 女子ボクサー達は通常、あまり男子と変わりないポスターを作りたがる。色眼鏡で見られることを避け、女性らしさを出してはかえって弱々しいと、嫌悪しているからだ。
 けれども、勇ましいファイティングポーズをとった写真に、大げさなキャッチフレーズが添えられたポスターは、女だからこそ泥臭い。奈緒の世界戦は、そんな垢抜けないイメージを一掃するものにしたかった。
 そうして、著名なカメラマンやグラフィックデザイナーを起用し、通常の何倍もの予算を掛け、出来上がったのが、白地にメインイベンターを務める二人のヌードを配したポスターだ。
 英文字のタイトルには金の箔押しを使い、前座の試合については文字のみで小さく告知するという、ボクシング興行らしからぬ雰囲気が、異彩を放っている。
「あ、おじいちゃん。来たわよ」
 金本老人と宏美は壁から目を離し、電車に乗り込んだ。
「そういえば、どうして今朝はこんなに遅いんだい?」
 ラッシュアワーが過ぎた車内で、座席に腰を下ろし、老人は尋ねた。
「今日の午前中は、進路指導ガイダンスなの。卒業生がやって来て体験談を話すそうだけど、興味は無いし、私一人いないところで何の支障もないわ。ゴールデンウィークの谷間だから、大して先生方も気にされないでしょうし」
 そうか、とうなずき、老人は家族の優しさに感謝した。最近とみに足腰が衰えた彼を心配して、ジムまで送るよう、嫁が口添えでもしたのだろう。
(それが家族というものだ)
 思いもかけず、奈緒の両親や妹に憤りを覚えた。「同級生の……遠藤千登勢さんは、姉の試合を見に来るのだろうか」と呟き、傍らの宏美から、思わぬ話を打ち明けられた。
「どうかしらね。どういう訳か、お姉さんはご家族と仲が悪いみたい。新学期が始める前日の日曜だったというから……もう一ヶ月近くも前のはずよ。遠藤さんの家に親戚が大勢集まって、お姉さんがチャンピオンになったお祝いをしたそうだけど、遠藤選手は途中で何もいわず、帰ってしまわれたんですって」
 帰った? と老人は顔をしかめた。
 三月下旬、天翔ジムの先輩ボクサーで、日本フライ級三位の男子選手と奈緒はスパーを行い、怪我をした。
 スパー開始直後、男のボクサーは遠慮して顔を狙わなかったらしいが、強引に彼の頭へ、奈緒は左右からフックを命中させたのだという。さすがに男もカッとなって打ち返し、彼女はスピードに乗ったキレのある連打を浴びてしまった。その拍子にマウスピースがずれ、顎へのアッパーで頭が跳ね返った次の瞬間、歯で唇を痛めたのだ。
(世界挑戦を表明する記者会見が、一週間後に控えていたというのに……)
 金本老人は思い返し、軽く舌打ちをした。
 ランナ・コムウットは四月の上旬にアメリカで記者会見を行い、六月に日本で防衛戦を行うと、いち早く発表していた。
 しかしながら、唇が醜く腫れた状態のまま、奈緒をカメラの前に立たせる訳にはいかなかった。怪我の完治を待ったうえで、ようやく今日、肝心な挑戦者である彼女の記者会見が開かれる。
(あの時は怪我が酷くならないよう、しばらく練習を休ませたが……休養中に実家へ戻り、一泊したという報告は嘘だったのか)
 勢い込んで、目的の駅に着いた電車から降りると、孫と一緒に改札をすり抜けた。
 息子に会長の座を譲るまで、幾人ものボクサーを張り倒し、罵声を浴びせながら鍛え上げた、あの頃の感覚が甦りつつある。 
「おじいちゃん! そんなに急いだら、危ないわよ」
 長身の宏美は、何度も躓(つまず)きそうになる、小柄な金本老人に易々と追い付き、顔をのぞき込んできたが、すぐまた視線を逸らした。
(最後に一花咲かせようと、金儲けが第一。物珍しい女子ボクサーの栄光と没落を見届けて、楽しむのが第二)
 孫が怯えているのに気付き、老人は歩を緩めると、顔に触った。眉間にシワを寄せて目を吊り上げる、憤怒の形相を和らげようと、手の平で頬を撫でながら、何度も瞬きをする。
(そう……シルビア・ロットから、遠藤奈緒という選手について調べ、教えて欲しいと頼まれた時、私にはその二つしか思い浮かばなかった。それが今では、どうしてこんなに必死なんだ。わたしは奈緒を、どうしたいのだ?)
 道路に面した壁がガラス張りとなっている、白いビルが前方に現れた。天翔ボクシングジムで、一階から三階の各階に練習場と、ボクシングに関する様々なビジネスを行う、グループ企業四社のオフィスがある。
 ビル正面の大きな自動ドアの前で宏美は立ち止まり、「じゃあ、私はここで。帰りは大丈夫? お迎えは必要?」と、手から提げた学生カバンをわずかに揺らしながら、首を傾(かし)げた。
「帰りはお父さんに車で送ってもらうとするよ。気をつけて、学校へ行きなさい」
 年寄りらしく、温和にうなずいてみせると、老人は孫を見送り、ビルの中に入った。
 ドアをくぐった左手にリングがあり、その奥にはサンドバッグやパンチングボールが並んでいる。右手には受け付けの窓口があって、奥の事務所から「おはようございます」と、老人の姿に気付いた職員達が頭を下げた。
「九時にお約束のお客様が、応接室でお待ちです」と窓越しにいわれ、わかった、と返した老人は、奥へ進んだ。
 リングを挟んだ向こう側では、二人の若い練習生が鏡の前で、シャドーボクシングとロープスキッピングをしていた。お話にならないフォームで、声をかける気にもならなかったが、鏡に映った老人に目を留めた彼らは、わざわざ動きを止めて「おはようございます!」と、馬鹿高い声と共に振り返った。
(夢を追って田舎から出てきた、ド素人か)
 三月、四月に、こういう輩(やから)がやたらと集まってくる。世界チャンピオンになりたいとジムの門を叩くが、大抵は一年も経たない内に姿を消してしまう。
 老人はうるさそうに右手を振り、「止めずに続けなさい」といい残して、フロアの隅にある会長室の扉を開けた。
 会長である息子の雅文が外出中のため、中はがらんとしており、練習場が一望できる大きな窓にもブラインドが下ろされていた。
「あ、先代。おはようございまーす」
 盆を持った若い女性の事務員が、応接室へ繋がる脇のドアから出てきて、金本老人に屈託がない笑顔を向けた。
「お客様は、もう大分お待ちかね」
「チョット前に来たんで、今お茶を出したばっかですう」
 さっきまで宏美といたせいか、乱雑な言葉遣いが、ひどく耳に障る。
「先代は、お茶とコーヒー、どちらがいいですかあ」
 間延びした質問に、「お茶を」と不機嫌に答えた老人は、彼女と入れ違いにドアを開け、応接室に足を踏み入れた。
「待たせて済まなかったね」
 黒い革張りのソファーに座っていた客は、ゆっくりと立ち上がり、硬い面持ちで老人を迎えた。
「君とは初対面かな」
「すれ違ったことはありますが、直接お話をするのは初めてだと思います」
「それでは、初めましてと、まずはご挨拶しておこう」
「こちらこそ、初めまして。中倉ジムチーフトレーナーの、高口と申します」
 丁寧に挨拶を述べた彼だが、決して頭を下げようとしない。よろよろと金本老人はソファーに身を沈め、低い声で笑った。