A SPOOKY GHOST 第四十四話 ターンアラウンド

 唐突に電話が途切れ、ハルイチは居ても立ってもいられなかった。
「おい、春山! そろそろ行くぞ!」
 先輩の長谷川が、車のドアを半開きにしたまま運転席から身を乗り出し、彼を呼んだ。
 ハルイチは急ぎ携帯を上着の内ポケットにしまうと、自分はドレッシング無しのサラダだけという昼食を済ませたファミリーレストランの入り口を離れ、小走りに駐車場へ向かった。
 会社の同僚である長谷川はハルイチよりも二年早い入社だが、歳は一つしか違わない。公私にわたって何かと気の合う彼相手なら、どうにかなるかもしれなかった。
「長谷川さん! 平沢キャンプ場、知ってますか?」
 助手席へ乗り込み、シートベルトを締めながら、真っ先に尋ねた。
「ああ。大正橋の少し下流にある、小さいキャンプ場だろ? でも何だよ、突然」
 明らかに不審げな顔をする彼へ、ハルイチは頭を下げた。
「お願いします! 今すぐ、そこへ行ってもらえますか?」
「あのなあ、今は勤務時間中だぞ。オレ達は会社へ戻らなきゃなんないの」
 素っ気なく答え、駐車場から車を出す彼に、「友達が……何か変な電話してきたんです。平沢キャンプ場に、どうも居るみたいで」と、食い下がった。
「こっから、そんな遠くないハズです。お願いですから、付き合ってもらえませんかっ?」
「……さっきの電話だろ。女からか?」
 興味半分なのか、長谷川が訊いてきた。ちらりと助手席のハルイチを見やり、探りを入れる口調も、半分笑っている。
「女ですよ……でも、そんな関係じゃないです。オレのボクシング仲間で」
「ふうん。同じジムに通ってる女の子か。お前も隅に置けないなあ。会社の女共が知ったら、大騒ぎだぞ」
 説明を遮って長谷川が笑い出し、ハルイチは憮然としながら打ち明けた。
「遠藤……奈緒ですよ」
「ふうん、ソレが彼女の名前か……ん? 遠藤?」
 顔をしかめ、思い出す表情となった長谷川が、「おい、まさか……ボクシングをやってる遠藤って!」と体ごと振り向き、ハルイチは慌てた。
「長谷川さん! 前っ、前!」
 信号待ちの車へ危うく突っ込みそうになり、勢い良くブレーキが踏まれた。大きく揺れる車内で、思わず胸を撫で下ろすハルイチに、彼は興奮していった。
「ボクサーの遠藤奈緒だろっ? すっげえ可愛いよなあ! お前、何で黙ってんだよ! 彼女が春山と同じジムだなんて、知らなかったぞ!」
「違いますよ。アイツは移籍して、今は天翔所属です。でも二年前までは、オレと同じ中倉ジムでした」
「へええっ! 彼女、コッチの出身なの?」
 信号が青へと変わり、動き出す車の中で、次々と質問が飛んだ。
「そうですよ。オレとは高二ん時にクラスが一緒で、中倉ジムから同じ年にプロデビューしたんです」
「春山と一緒ってことは、戸波高校か?」
 ハイ、と神妙にうなずくハルイチの横で、長谷川はハンドルを右へ切り、交差点を曲がった。会社へ帰るのとは、明らかに反対方向だ。
 知らなかったなあ、と何食わぬ顔で長谷川はいい、「遠藤奈緒って、中学はドコなの?」と、どこか浮き浮きとした様子だった。
「筑紫が丘中ですよ」
 奈緒のことを心配しながら、ハルイチは気もそぞろに答え、「へえっ、オレの後輩か!」という返事に、驚いて長谷川を見た。
「長谷川さん、筑紫が丘中出身なんですか?」
「おう! アレ、待てよ? 春山の同級生ってコトは、オレのいっこ下だよな」
「奈緒は、長谷川さんのふたつ下だと思います。オレ、高校を留年してるんで」
「そういや二年を二度やったんだっけな、お前は!」
「そうです。ダブった時、奈緒と同じクラスになったんですよ」
「ふうん……じゃあ遠藤奈緒って、オレの妹とタメか。えっ? と、いうことは……嘘だろっ! あの、遠藤奈緒か!」
 口を閉じ、何かを思い出す顔つきとなった長谷川を認め、ハルイチはため息を吐いた。
「やっぱり、知ってますか?」
「まあ、知ってるっちゃあ、知ってるよ」と、長谷川は曖昧に笑った。
「でも今の今まで、オレも妹も全く気が付かなかった。遠藤奈緒をテレビで見たら、同姓同名のヤツが他にもいたなー、ぐらいは思ったかもしれないけど」
「テレビや雑誌に出てるアイツは、オレの知ってる奈緒とも別人ですよ。リングの上ではあんま変わんないけど、一般の人から見たら、やっぱ分かんないかもしれませんね」
 ハルイチはいい、「オマケに普段の奈緒は、地味で目立たないし。ただ……奈緒は中学ん時、問題児だったんですよね?」と、ためらいながらも切り出した。
「担任の先生とトラブルになったって、聞いてます」
「本人から聞いたの? すげえビックリだよな。財布を盗んだなんて、丸っきりの濡れ衣だった訳だし、ハメられたようなモンだよ」
 思いもしなかった返事にハルイチは目を見開き、ハンドルを握る長谷川の横顔を、穴が空くほどに見つめた。
 そんな反応を勘違いしたらしく、「何でオレがそんな事を知ってるか、不思議だろ」と長谷川は悪戯っぽくハルイチに笑いかけ、すぐまた前へと向き直った。
「実はオレの叔母さん、市の臨時職員で、筑紫が丘中の事務員をやってた頃があったんだ。その時ウチに来て、遠藤と担任だった浜野の騒ぎを、母親と噂してたんだよ」
 たまたま聞いちゃったんだけどさ、と長谷川が語り、隣でハルイチは後ろめたさを感じた。実のところ、奈緒自身の口から担任と揉めた事実を告げられたことは、一度も無い。
「オレは中学生の遠藤奈緒がどんな顔をしてたのか、よく知らないんだ。まあ、地区が違ううえに小学校も別だったし、妹が同じクラスになったことも無かったから、当たり前なんだけど」
 彼女がひた隠しにしている過去を暴く真似などしたくなかったが、これは全く以(もって)偶然なのだと自らに言い訳をし、ハルイチは長谷川の話に耳を傾け続ける。
「それでもさあ、叔母さんの話には仰天したよ。だから、ついつい妹には打ち明けたんだ。そしたら妹のヤツ、冷めた反応でさあ。遠藤さんは変わってて、いつも偉そうな態度だから皆から嫌われてるし、先輩からも目を付けられてるから、下手に味方をしたら私がイジメられる……なんて、いったんだぜ? つくづく女は怖えなって思ったよ、あの時は」
 肩をすくめ、長谷川は車を走らせながら、小さく息を吐いた。すでに大通りを外れ、ところどころに畑が広がる、市街地の外れまで来ていた。
「ここら辺に、以前は家なんか建ってなかったんだけどな」
 フロントガラスの向こう側を指さし、「あ、あの内科医院! オレの同級生の父親がやってんだけどさ、ヤブ医者で有名だったんだ」と彼が完全に話題を逸らし、ハルイチも周囲を見回した。
「オレあんま、ここら辺は詳しくないんですよね……」
 奈緒の話の続きを、と催促したい気持ちを抑え、何気ない風を装ってみせる。
「ジムの先輩の住んでるアパートがあって、一度遊びには来たんですけど」
 先輩とは橋野のことだ。平沢キャンプ場は彼や奈緒から伝え聞き、知っていただけで、実際にどんな場所かはハルイチも見たことが無い。
「オレもここへは久しぶりに来たよ。平沢キャンプ場は、小学生の時に遠足で行って以来だな。もう少し先の道を逸れて、坂を下りてくんだけど、道がわっかりにくいんだ」
 長谷川はいい、急に大きな声を出した。
「あ、ここだ、ここ! 看板が立ってんじゃん。やっぱり分かりにくいから、案内の表示を設置したんだなあ」
 細い道へ車が入り、どくどくと有り得ないほど大きな音を立てて、ハルイチの心臓が鼓動を刻み始める。思いもかけなかった奈緒の過去を知ってしまった衝撃と、今の彼女がどうしているのか不安に思う気持ちがない交ぜとなり、平静ではいられなかった。
 車はすでに人家のない林の中で、しばらく走ると、曲がりくねった坂道が続いた。木々の隙間からは、大きな川が見える。やがて坂道を下り終え、視界が開けた。コンクリートの建物と広い駐車場や公衆便所があり、大勢の人々が行き交っている。
「ほら、ここが平沢キャンプ場。綺麗になったなあ! 前はあんな立派な建物、無かったよ」
 長谷川はそういって駐車場の空いているスペースに車を止め、「いいなあ、日曜が休みの連中は」と、羨ましそうに呟いた。
「で、春山。遠藤はどこにいるんだ?」
「ちょっと、電話してみます」
「とにかく、歩いてみるか」
 車を降りて携帯を耳に当てながら、ハルイチは長谷川に案内されるまま、管理室と書かれた札が掲げられている、建物の脇を抜けた。
 洗い場があり、何棟かテントの張られている平地に出たが、ほとんどの人はキャンプ場の裏手にある桜並木の下に集まっていた。キャンプをしに来たというより、バーベキューをしながら、花見を楽しむのが目的なのだろう。
 肉を焼く匂いと煙が充満する人混みの中をスーツ姿で歩くハルイチと長谷川は、場違いともいえた。
「どうだ? 電話は繋がった?」
 ネクタイを緩めながら長谷川が顔をしかめ、「出ないっすね」と携帯を手にしたまま、ハルイチは途方に暮れた。
「こんな人混みにはいないな、きっと」
 長谷川にいわれ、二人はキャンプ場の裏手に広がる、林の中を歩いた。木々の枝が覆い被さる緩やかな斜面は遊歩道として整備されていたが、奥まった場所にあるせいか人もおらず、静かだった。
 坂の先に石段が見え、その奥から、わずかに電話の着信音らしき音がした。
「聞こえる!」
 ハルイチは繋がることのない手元の電話を切り、その音が鳴り止んだのと同時に、走り出した。
 ――何もかも、もう我慢できない。
 奈緒が最後に告げた言葉を思い返しながら、狭く足場の悪い石段を、一足飛びに無我夢中で駆け上がる。
 いち早く赤い鳥居をくぐり、小さな神社にたどり着くと、奈緒を捜した。そして、賽銭箱のある神社の正面から裏手へ回り、大きなスポーツバッグの上にうずくまる人の姿を見つけ、息を呑んだ。
 縁台から両足をぶらりと下ろした格好で、紺色のジャージを着ており、身動きひとつしない。ハルイチは恐る恐る近づくと、長い黒髪がかかる肩をつかみ、ゆっくりとスポーツバッグから顔を引きはがした。
「ううん……」
 上半身を起こして仰向けにした途端、その人物は顔をしかめ、わずかに呻いた。
「奈緒!」
 最悪の場合を想像せずにいられなかったハルイチは、ホッとしたのも束の間、肩をつかむ指先に力を込めた。
「……奈緒! しっかりしろ、奈緒!」
 鼻先が触れるほど彼女に顔を近づけ、うっすらと開いたまぶたの隙間からのぞく瞳に、目を凝らす。
「ほっと……いて」
 かすかな声を漏れ聞いた。
「も、う……ねむ、ら……せて」
 奈緒は負けたのだと、瞬時に悟った。腕にもたれかかる彼女の力尽きた姿が、全てを物語っている。
 何なんだよ、と溢れ出しそうになる涙を、ハルイチは歯を食い縛って、堪(こら)えた。
(ヤセ我慢も、ボクサーの勲章じゃねえか! お前はいつだって、我慢に我慢を重ねて、ボクシングをやってきたんだろうが!)
 彼女は学校で、いつも独りだった。文化祭や体育祭、修学旅行などの行事でも、人の輪から離れたところにいて、陰口を叩かれても、好奇の目を向けられても、決して動じなかった。
 孤独を恐れない、そんな奈緒の強さにハルイチは惹かれ、憧れた。それこそが彼の追い求める、本当の強さだと思ったからだ。
(お前のこんな姿、オレは見たくなかった!)
 助けて欲しいと電話しておきながら、全てが面倒となり、彼女は何もかも投げ出そうとしている。
 ハルイチは歯ぎしりをしながら、いっそう激しく、奈緒の体を揺すった。プレッシャーに負けてしまっては、ボクサーとしての未来など、もはや無いも同然だ。
「奈緒、奈緒!」
 懸命に名前を呼び、「ランナ・コムウットとやるんだろっ? こんなトコで、くたばってる場合かよ!」と怒鳴り散らした瞬間、彼女は明らかに焦点の定まった視線を、彼に向けた。
「ハル……イ、チ?」
「気が付いたかっ? しっかりしろ! しっかりするんだっ!」
 奈緒の両手をつかんで自分の首に絡ませると、ハルイチは彼女を背負い、急いで担ぎ上げた。