A SPOOKY GHOST 第四十五話 ターンアラウンド(2)

 少し遅れ、荒い呼吸と共に、長谷川が境内へと現れた。
「はあ、はあ。さすが、ボクサーなだけあるなあ! 追いつくにも、息が切れたよ。うわっ、何か変な匂いがする!」
 彼は踏み出した足を慌てて引っ込め、「吐いたんだな、きっと」と、注意深く足下(あしもと)を見ながら、ハルイチの傍らに来た。
「おい、本当に遠藤奈緒なのか? ひっでえな……」
 唇が腫れ、化粧もしていない色を失った傷だらけの顔では、疑って当たり前だ。
「おい、かなりヤバそうだぞ。乱暴されたんじゃないのか?」
「いえ。これは昨日今日に出来た傷じゃないです。恐らくスパーリングの痕っすね」
「マジで? すげえ……」
 長谷川はハルイチの背でぐったりとする奈緒の顔をのぞき込み、さらに深刻な事態だと思い至ったのだろう。「救急車を呼ぼう」と、携帯を取り出した。
「びょう……いん、は……だ、め。休め、ば……良く、なる」
 切れ切れに話す声は掠れ、苦しそうだったが、彼女は完全に意識を取り戻していた。
「長谷川さん、車に戻りましょう」
 奈緒を背負ったままハルイチが駆け出し、長谷川も縁台に置きっ放しだったスポーツバッグを掴(つか)み上げ、追いかけてきた。
「病院は駄目って、どうすんだよ!」
 並んで走りながら、長谷川が声を張り上げる。「これはひょっとしたら……」と彼は続けたが、ハルイチは最後までしゃべらせなかった。
「彼女はオレの部屋で休ませます!」
「おいっ、休ませるって……! お前はタイトルマッチまで、あと六日なんだぞっ? 会社だって、今日の午後に顔を出したら、一週間の休みに入るんだろうが!」
「お願いします。オレのアパートに寄って下さい」
「そりゃ、まあ、会社へ戻る途中だからかまわないよ? 乗りかかった船だしさ。でも、こんな大事な時に……」
 渋々といった様子でいい淀み、ハルイチと並んで走りながら、長谷川は苦しそうに息を継いだ。
 石段を下り、キャンプ場を横切る間、奈緒を背負うハルイチと、大きなスポーツバッグを抱えて走る長谷川を見て、何事かと人々が振り返る。
 二人は駐車場まで戻り、後部座席に奈緒を横たえると、車を出した。
「本当に病院へ行かなくて平気なのか?」
 バックミラーを盛んに気にしながら、運転席で長谷川が不安そうにいった。
「奈緒、聞こえてるか?」
 シート越しに後ろをうかがい、ハルイチは呼びかけた。
「聞こえてる……」と横になったままゆっくり瞬きをし、「病院には行かない」と、いい切った奈緒の頬は赤味が差し、口調もしっかりしたものへと戻りつつあった。
「でもよお……会社へは、絶対に戻らなきゃ駄目だぞ。お前の壮行会をやるって、朝から社長が張り切ってたのは、春山も知ってるだろ? 彼女を、お前の部屋に連れてって休ませるのはいいけど、一人にして大丈夫なのか?」
「大丈夫か、だってさ」
 ハルイチが尋ね、無言のまま奈緒は首を縦に振り、再び目を閉じた。
 幸いなことに道は混んでおらず、十分ほどでハルイチの暮らすアパートに到着した。何度か遊びに来たことのある長谷川が、難なく駐車場に車を止める。
 ジムからほど近い場所にある三階建てのアパートで、ガラス扉を開けて中へ入ると、各階に三戸づつ部屋が並んでいる。比較的間取りが広く、駅から徒歩圏なこともあり、小さい子供のいる若い夫婦が多く住んでいた。
 このアパートの三階にある一室へ、ハルイチは中三の時に、母親と引っ越してきた。以来ずっと、そこで暮らしている。ぐったりとしたままの奈緒を抱きかかえ、階段を登ると、その部屋まで彼女を運んだ。
 奈緒のスポーツバッグを持ち、長谷川もハルイチの後を付いて来た。彼は玄関で靴を脱ぎながら、入って直ぐ左側にある部屋のドアを、ほとんど無意識にだろうが、気味悪そうに一瞥した。それをハルイチは見て見ぬ振りをし、玄関を上がった突き当たりにある居間へと入った。
 右手にキッチンがあり、左手には引き戸を挟んで、ハルイチが日常的に使っている部屋がある。
 どうしようもないほど室内は散らかっていたが、自分のベッドにようやく奈緒を寝かし付け、彼は見上げた先の壁に目を留めた。
 腕を伸ばし、ピンで留めていた雑誌の切り抜きを乱暴に壁から引きはがすと、それをベッドの下へ潜り込ませ、部屋を出る。
「本当に助かりました」
 後ろ手に引き戸を閉め、戻った先の居間で安堵の息を吐く長谷川に、ハルイチは深々と頭を下げた。
「まあ、いいって」
 人の良い笑顔で答え、なおも「彼女を一人にして大丈夫なのかなあ」と心配する長谷川を促し、二人は部屋を後にした。
「いいか。カザマ電子さんでコピー機の使い方を色々聞かれて、遅れたことにするぞ」
 会社へ戻る車中、長谷川から口裏を合わすよういわれたが、昼食を外で食べて戻ると前以(もっ)ていい置いたこともあり、上司や同僚から咎められることなく、二人は業務に戻った。
 午後四時頃には、社長が事務所へ顔を出し、ハルイチの壮行会が行われた。
 彼が高校を卒業し、就職した会社は、一階が店舗で二階と三階が事務所となっている、事務用品販売店だ。店舗で文房具や画材などを売り、事務所では法人向けにIT機器の販売やメンテナンスと、事務用品の配達を手掛けている。
 社長が中倉会長と懇意にしており、川上の後援会にも名を連ねていた縁で、プロボクサーとして活動するハルイチを、特別に受け入れてくれたのだ。
 入社時は先輩社員に同行して外回りを経験し、三年目である今年は一人で営業を行う一方、今日のようにコピー用紙二十箱といった大口注文の場合は、長谷川と一緒に配達を行っている。
 元来ハルイチは物怖じしない性格で、愛想も悪くない。取引先での評判も上々だった。話題にせずとも、頻繁にアザや傷の目立つ顔で現れるうえ、試合のために長期間休むことがあり、いつの間にかプロボクサーなのだと誰もが承知していた。
 試合がある度にチケットを買ってくれたり、激励賞を貰ったり、何かと応援してくれる人も増え、かなりボクサーとしては恵まれた環境に身を置いている。
 いよいよ来週末に迫った試合が日本タイトルマッチということもあり、会社内は異様に盛り上がっていた。
 事務所の一角に社員が集まり、社長自ら音頭を取っての壮行会が終わると、ハルイチは盛大な声援を浴びながら、帰途についた。
 試合の前後に長い休みを取れるのは有り難かったが、ボクサーは試合の二ヶ月前から、すでにハードトレーニングを開始している。一番きつい時期も試合前の一ヶ月間で、本来なら仕事などせず、ボクシングだけに集中できればいいのだが、経済的に無理があった。
 今はすでに疲労のピークも過ぎ、あと数キロの減量をするだけだ。ところがボクサーの体というのは体脂肪率が低く、何よりも削ってはならない筋肉がある。ダイエットとは似ても似つかない苦しみを伴う減量の最終段階に入り、ハルイチの体は辛い状態だ。
 もちろん車の運転も控えており、通勤にはバスを使っているが、この日は長谷川が部屋まで送ってくれることになった。
 二人はアパートへ帰り着くと、緊張の中(うち)に、揃って部屋へ足を踏み入れた。
「奈緒! お前、大丈夫なのかっ?」
 玄関を入って一番奥のドアを開けた途端、ハルイチが大声を出し、隣で長谷川も目を丸くした。
「うん。もう、大丈夫みたい」
 日が暮れかかった薄暗い部屋で、彼女は熱心にテレビと向き合ったまま、あっけらかんと答えた。
 長谷川とハルイチは顔を見合わせ、奈緒の隣へ行き、テレビの画面に目を凝らした。
 挑戦する予定の、現日本ライトフライ級王者・中井義之が突如、大映しとなり、「DVDだろ、コレ! どっから見つけてきたんだよ」と、ハルイチは面食らった。
「そこにあった」
 画面から視線を逸らすことなく彼女はいい、適当に後ろを指差した。ジムから参考にするよう手渡され、テーブルの上に重ねていたDVDらしかった。それを見つけ、勝手に中味をチェックしていると分かり、さすがのハルイチも呆れ果てた。
「そんなの見てるヒマあんなら、もう少し横になった方が良くないか?」
 ついつい意見してしまい、振り返った奈緒から睨(にら)み付けられた。
「おい、春山!」
 長谷川に腕を引かれ、奈緒を残したまま、二人は居間を出た。
「彼女さ、春山の部屋によく来てんの?」
 廊下で長谷川が真っ先に尋ね、ハルイチは首を左右に振った。
「オレ等、互いの家を行き来したことなんか、一度も無いですよ」
「じゃあ、初めて春山の部屋へ上がった訳だ! だったらさあ、普通しないぜ? 留守中、勝手に余所の家にあるDVDやテレビをいじったりなんか」
「……スミマセン」
「お前が謝ってどうすんだよ」
 それよりもさ、と長谷川が声を潜め、突然ドアの向こうで、大きな音がした。何事かと驚き、ハルイチが居間へ飛び込むと、奈緒が部屋の中央に置かれたローテーブルを動かしていた。
「ハルイチ、手伝って」
 恐ろしく簡単にいう彼女へ、「何のつもりだよ!」と、ハルイチは語気を荒げた。
「スペースを作りたいの。どうしても、やってみたいから」
「だから何をやりてえのか、訊いてんだろ!」
 奈緒は動きを止め、じっとハルイチの顔を見つめた。そして矢庭にリモコンを手にすると、DVDを操作し、中井選手がコーナーに追い詰められている場面を再生した。
「これ……出来んのか、奈緒」
 彼女が何をいいたいのか、即座に理解した。ハルイチもこのシーンを、何度も見直していたからだ。
「やってみせてくれんのか?」と、彼が念を押し、こくんと無表情に奈緒は頷く。
 ハルイチは直ぐさま動いた。テーブルを部屋の隅へどかし、床に散らばっている雑誌や服、コンビニ弁当の空き容器、ペットボトルなどを拾って片付ける。
 長谷川も手伝ってくれ、あっという間に部屋が片付くと、ハルイチはスーツの上着を脱ぎ、「どうすればいい?」と奈緒に訊いた。
「ワンツーから、必ず左を返して」
「ワンツースリーだな。最後の左は?」
「アッパー以外なら、何でも。フックにしようか」
 彼女は答え、顔つきを一変させた。床を見つめたまま、頭や手首を回し、体をほぐし始める。
「オレ、ちょっと着替えてくるわ」
 腕組みをしながら部屋の隅に立ち、何が始まるのかと期待顔の長谷川へ目配せをすると、ハルイチは自分の部屋に引っ込んだ。
(まったく、心配させやがって)
 Tシャツとハーフパンツ姿になると、古いヘッドギアを探し出し、奈緒の分もバンテージを用意した。それらを手にして居間へ戻り、とんだ取り越し苦労だったと、胸を撫で下ろす。
(やっぱ、自殺なんて、有り得ねえよな……)
 昼間の憔悴し切っていた姿が嘘のように、高校生の頃と変わらない熱心さで、奈緒はストレッチをこなしている。
 神社で倒れている彼女を見つけ、泣きそうになった自分を思い返し、ハルイチは気恥ずかしかった。ごまかすように「いいか、寸止めだぞ」と声を掛け、微笑んだが、ゆっくりと顔を上げた彼女と目が合い、口元の笑みが凍り付く。
「マスでも、スパーでもない。動きを確認するだけだ」
 ふらりと立ち上がる奈緒にいい、ヘッドギアとバンテージを差し出すと、彼女の底光りする冷たい瞳から目を逸らした。
「本気になったら、怪我すんのは、お前だからな」
 そう口にして、胸に広がる不安を、ハルイチは振り払った。自ら命を絶とうとした人間が、こうも呆気なく立ち直れるはずがない。
(じゃあ、どうしてあんな、キャンプ場なんかに?)
 彼女に尋ねたいことは山ほどあったが、ボクサーにはボクサーの会話の仕方がある。ハルイチはバンテージを巻き終え、軽く体を動かしながら、奈緒へと振り向いた。
「やるか、奈緒」
 首を縦に振った彼女が不敵に笑い、小さく唇を動かす。
 ――本気になったら、怪我をするのは、ハルイチ。
 そういったように聞こえ、ハルイチは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。