A SPOOKY GHOST 第四十三話 つまらない些細なこと(3)

 傍にいたイトコが、「え? 引退?」と、不思議そうに顔を傾けた。親戚の中で一番この家から近くに住む彼は、二つ年上だ。幼い頃から会う機会も多かったのに、仲良く一緒に遊んだ記憶が奈緒には無かった。
「引退って、ボクシングを辞めるのかい?」
 イトコの隣に座る叔父が、背中を反らして奈緒を正面に見ながら、訊いてきた。母の兄に当たり、とにかくおしゃべりで賑やかな人物だ。人は良いが、奈緒は彼を前にすると緊張し、上手く話ができない。
「六月に試合があるの? それが最後ってこと?」
「ええっ。まだ若いし、十分に現役を続けられるじゃない」
 小さな小石を池へ投げ込み、さざ波が広がっていく様子に似ていた。段々と親戚達の声が大きくなり、反応も大げさなものとなっていく。
 奈緒は改めて、居間にいる十人余りの面々を見回した。血が繋がっているというだけで、ろくろく会話もしたことがない人達ばかりだった。
(でも……わざわざ、あたしに会いに来たんだ)
 急に居心地が悪くなり、視線を泳がせた先で、父が妹に何か囁いていた。千登勢はうなずき、立ち上がると、台所から母を呼んできた。
「奈緒、どういうことなの? 説明しなさい!」
 金切り声を立て、ずかずかと居間に入って来た母の両隣で、父と千登勢も、奈緒の顔を凝視する。
(どうしていつも、そんな目で見るの?)
 不信感に満ちた冷たい視線を容赦なく向けられ、そっと下唇を噛んだ。
(なんで、あたしだけ除け者なの?)
 家族だからこそ、嫌でも毎日顔を合わせ、言葉を交わしてきた。それなのに父も母も妹も、親戚以上に遠く、分かり合えない存在だった。
 別に、とつぶやき、「引退する、それだけだよ」と付け加え、奈緒は縮こまった。
「だから、どうして引退するの!」
 厳しく問い質(ただ)す母から、顔を背けた。気が付けば、いつも両親と妹の三人を相手に、奈緒ひとりが言い訳をしている。
「だって……ボクシングやるの、反対なんでしょ?」
「そういうことをいってるんじゃないの! 大体、ボクシングを辞めて、どうするつもりなのよ」
「心配しなくったって、ちゃんと就職する」
「バカいわないで! 天翔にいれば、いくらでも試合に勝ち続けることが出来るんでしょ? 若いウチに稼げるだけ稼いで、あとは適当にお嫁にでもいけばいいじゃない!」
 まさか、と奈緒は思った。
(親まで、あたしが八百長をしていると思ってるの?)
 全身が冷たくなり、顔から血の気が引くのが分かる。「おかしいよ、お母さん」と目を伏せ、激しく首を左右に振った。
「いっつもあたしのこと、みっともないって、いうじゃない」
「奈緒。みっともないとは、ひと言もいっていないだろう」
 父親が口を開き、「お前のことを心配しているだけだ」と、すかさず奈緒を諫(いさ)めた。
 しんと部屋が静まり返り、奈緒は熱くなった頭を冷やすべく、小さな声を出した。
「痛いんだよ、ボクシングって……」
 これ以上ない程の本音だった。今も腫れ上がった唇が、話すのに邪魔なだけでなく、じんじん熱を持って痛む。
 ジャージのポケットからマスクを取り出し、耳にかける奈緒へ、父はこんこんと説いた。
「お父さんもお母さんも、千登勢も、お前を応援している。ここにいる親戚だって、みんな奈緒に期待しているんだ。せっかく世界チャンピオンになるっていうのに、そんな人の好意を裏切るような真似はするな」
 奈緒はもう、何も答えなかった。親に刃向かって、きちんと気持ちが伝わった例(ためし)など無いからだ。
 親戚みんなからも、引退などせず頑張るよう説得され続け、終(つい)には奈緒も、「わかった」と、うなずいた。
「まずは、世界チャンピオンになる。そして……まだまだ頑張るよ」
 誰もが一様にホッとした表情となり、和やかに談笑し始めるのを見計らって、奈緒はベルトをつかみ上げた。
「まったく、驚くわよねえ。昔っから奈緒は反抗的で、適当なことをいっては、親を困らせるのよ」
 上機嫌に笑う母を横目に見ながら、そっと居間を抜け出し、玄関へ行った。大急ぎでベルトをバックへしまい、担ぎ上げると、そのまま靴を履いて家を飛び出した。
 歩きながら酷い目眩に襲われ、奈緒は毎朝のように走っていた、相良川沿いの遊歩道を目指す。人目に付かない場所でひと休みすれば良くなるかもしれないと、ほとんど絶望的になりながら遊歩道を下り、キャンプ場へ向かった。
 駐車場を横切り、テントが張れる平地を抜ければ、鬱蒼とした坂道へと繋がる。そこから脇へ逸れ、細い階段を上がると、突き当たった先に小さな神社があった。
 滅多に人が来ず、生い茂る木々に囲まれていて、涼を取るには丁度良い。社(やしろ)の縁台は汚れているが、ジャージ姿で休む分には、何の問題も無かった。
 目眩どころか、視界が暗くなり、奈緒は倒れる寸前だった。転がるように縁台へ腰を下ろすと、上半身を横たえたが、ぐるんぐるんと世界が回り、額からは脂汗が滲む。
 我慢できなくなり、奈緒は縁台から飛び降りた。していたマスクをかなぐり捨て、汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、残らず胃の中の物を地面に戻す。そうして力無く縁台へ倒れ込み、深呼吸を繰り返すうちに、ようやく吐き気も治まった。
 薄目を開けると、ひらひらと舞う桜の花びらと青い空が混じり合う、ぼんやりとした景色が広がっていた。
(昼間はもう、こんなにあったかいんだ……)
 奈緒はまぶたを閉じ、遠のく意識を必死に繋ぎ止めた。今は気温が高くても、日が暮れれば、まだまだ寒い。ここに横たわったまま気を失い、夜を迎えることがあっては、只では済まないかもしれなかった。
(迷ったって、他の選択肢なんか無い)
 力を振り絞り、バッグの中から携帯を取り出すと、キーを操作した。迷うな、と再度自分へいい聞かせ、発信ボタンを押す。
 三回、呼び出し音が鳴っただけで、難なく電話は繋がった。
『もしもし?』
 じめじめとした縁台の冷たさが背中に伝ってきて、体が震える。
「あ、あの……」
 霞んだ空を仰ぎながら声を出し、胃液に焼かれた喉が、ヒリヒリと痛んだ。
『奈緒だろ? 突然どうしたんだよ。何か、あったのか? びっくりすんじゃねえか』
 ハルイチ、と彼の名を口にし、息が詰まった。
(あたし、なんて勝手なんだろう)
 二月に後楽園ホールでハルイチに会った際、自分がどんな態度を取ったのか思い出し、冷や汗が流れた。
『今、どこにいるんだ?』
「……平沢、キャンプ場」
『はあっ? ソレって、奈緒が朝のロードワークやってた、相良川の近くにある、ちっこいキャンプ場だろ?』
 彼の問いかけに答えられないまま、全身の力がどんどん抜けてゆく。
『そんな所で、六月の試合に向けて合宿中……な、訳ねえよな。実家に帰って来たのか?』
 再び吐き気がして、ハルイチが怒っているのか、心配しているのか、考える余裕もなくなっていた。
『聞いてんのか、おい』と、強い口調で訊かれ、こめかみがずきんとうずいた。
「……大した……ことじゃない。つまんない、ことなの」
 喉元へかけて込み上げる不快感と、ひどい頭痛に、奈緒は苛立ちを募らせた。
「だから……もう、いい」
『待てよ。お前、泣いてんのか?』
 ハルイチにいわれ、目尻からこぼれ落ちた涙が耳の中まで濡らしていることに、初めて気が付いた。
『……奈緒、今からそこへ行く。車だから、十五分位で着くと思う』
 重い頭を左右に振ったが電話では伝わるはずも無く、『いいな、大人しく待ってろよ』と念を押され、「会いたくない」と咄嗟に発した声が、携帯を持つ手と同じく、細かに震えた。
「お願いだから、来ないで」
『じゃあ何で電話してきたんだよ!』
 ハルイチの声がくぐもって聞こえ、奈緒の朦朧とした頭では、もう何を話しているのかさえ理解できなかった。
「みんな、あたしを応援してくれてる」
 目が回り、視野もはっきりせず、見える世界はほとんど光を失っていた。
「なのに、どうしてこんなにイライラするの?」
 奈緒は電話をきつく、頬へ押し当てた。
「何もかも……もう我慢できない」
 そう告げて携帯を閉じ、体を丸めた。
 ――あたしは……ここで一体、何をしているんだろう。
 白い無数の花びらが舞い落ちる神社の境内で、スポーツバッグを枕に横たわったまま、奈緒は思った。
 全てはハルイチに告げた通りだ。救いや同情など、決して求めていない。しかし、孤独が彼女の精神を蝕(むしば)み、些細なことをきっかけとして、理性をも吹き飛ばしてしまう。
 ――死ぬまで思う存分、ランナと打ち合って、こんな世界から解放されたい。
 せめて正気のうちに、と願い、顔を歪めて笑った。
(心って、脆いんだな)
 寂しさに負けて、体まで動かなくなる自らの弱さを呪い、奈緒は限界を悟った。
「疲れた」
 吐き出す息と共に掠れ声を上げ、静かに意識を手放した。