A SPOOKY GHOST 第四十二話 つまらない些細なこと(2)

「奈緒が中学校に上がる直前だったかしらねえ。引っ越したはずの彼が、ひょっこり顔を見せたのよ」
 しゃべっているのは、母だ。奈緒の心臓が、どくんどくんと大きな音で、鼓動を刻む。彼女は畳に両手を突いて上半身を起こし、隣の居間を見やった。
「何でも、奈緒に宛てて手紙を出したんだけど、届いたかどうか知りたいといってね。届いてないって、返事をしたのよ。小学生だった千登勢や奈緒宛ての郵便物なんて、たかが知れてるでしょ? 私とお父さんぐらいしか家のポストは覗かないから、手紙を見たら気付くはずだけど、覚えが無かったのよね」
 居間に集まっている親戚同様、奈緒は和室で、母の話に耳を澄ませた。
「そうしたら、篤志君がいったの。手紙が届いたら、奈緒に渡さず、捨ててくれって。それだけ告げて、さっさと自転車に乗って消えちゃったから、こっちも何だろうと思ったわ」
「それで、手紙はどうなったんだい?」
 話の続きを促す親戚の、待ちきれない様子が伝わったのか、母はいっそう熱心に、身振りまで交えて、面白可笑しく語った。
「それが届いたのよ! 篤志君が訪ねて来た、翌日だったわ。引っ越した先の消印があって、裏にも彼の新しい住所が書かれていて……ついつい、中を見ちゃったのよねえ」
 読んだのか? と呆れ半分に叔父がいい、あっけらかんと母は「相手は子供だもの」と答えた。
「捨ててくれなんて頼まれると、かえって気になるじゃない。それに、奈緒には友達がいなかったのよねえ。家を訪ねて来た子なんて、小学校六年間で一人もいなかったんじゃないかしら。でも、篤志君だけは別だったわ。奈緒も年中、彼の家に出入りしていて、二人はまるで本当の兄姉のようだったしね。それだけ仲良くしてくれた子の手紙だったから、何だか容赦なく捨ててしまうのにも、抵抗があったのよ」
 母の笑顔がわずかに歪んだのは、きっと鈴木家との確執を思い出したからだ。
 篤志の両親は大らかで優しく、近所でも評判の人格者だった。息子と一緒の野球チームに奈緒を誘ったばかりか、送迎から弁当、道具の手配まで、細かに面倒を見てくれた。
 女の子である奈緒が野球をすることに良い印象を持っていなかった母からすれば、余計なお世話だったのだろう。にこにこ顔で鈴木家に接し、感謝する一方、影では篤志の両親を悪し様にけなしていた。
「でもねえ、小学校の卒業式を終えて、まだ一週間ぐらいだったから……篤志君は体が大きくて、しっかりとしていたけれども、こっちからすれば子供じゃない? そんな子が、奈緒のことが好きだ、なんてハッキリと手紙に書いてきたから、もうビックリするやら、呆れるやら……ませた子だと思ったわ」
 母は悪意が見え隠れする、甲高い笑い声を上げた。
「その手紙はどうしたの? 捨てたの?」
 奈良井ジャーナルを持ってきたかと思うと、千登勢は皆へ回し、初めて聞く話に目を丸くしながら、身を乗り出して尋ねる。
「さあ。どうしたかしらね……どこかに、しまっておいた気もするけど……」
 残っていたらスゴイよ! と興奮気味に千登勢がいい、親戚も口々に囃し立てた。
「まさか、あの鈴木篤志からラブレターを貰っていたなんてね」
「奈緒ちゃんは一風変わっているけれども、分かる子にはちゃんと、その良さが伝わるモンなんだなあ」
「何にせよ、奈緒ちゃんは大物ってことよ! 将来はプロ野球選手のお嫁さんかもね!」
 好き勝手なことをいって無責任に笑い合う大人達から逃れるように、奈緒はそっと立ち上がり、廊下に出た。
 そこでは宴会に飽きた小さい子供達が、どたどたと階段を上り下りしていた。残酷なほど正直な彼らは、奈緒と目が合うと、大急ぎで二階へ引き返し、物陰に隠れたまま息を潜める。
(懐かれると面倒だし、好かれようなんて、これっぽっちも思ってないけど……)
 彼女は小さく肩をすくめ、台所に入った。流しの脇にあったグラスを手にし、冷蔵庫から取り出した牛乳で満たすと、ゆっくり喉へ流し込む。
「あら。奈緒ったら、こんなところにいたの?」空になった皿を運んできた母が、片付けをしながらいい、「ちょっと、邪魔よ」と、奈緒を押しのけた。
 忙しく食器をシンクに置き、「ビール、足りないかしらねえ」と、冷蔵庫をのぞく母の背中へ、「お母さん」と、奈緒はグラスを手にしたまま、話しかけた。
「篤志からの手紙、あたしが持ってるよ」
「手紙? まさか、捨ててくれって頼まれた、あの手紙のこと?」
「電話台の引き出しに入ってたのを、見つけちゃったんだ。中二になったばかりの時、部活で足を痛めたから接骨院へ行こうと思って保険証を探してたら、たまたま見つけた」
「へえ、そうだったの」
 いい加減な相槌を打つと、母は冷えたビールを手早くつかみ、奈緒を見ないまま、台所から去ろうとした。
「手紙……隠してたんじゃなかったの?」
 奈緒が声を荒げ、ようやく母も動きを止めた。
「隠してた? 何をバカな事いってるの?」
「篤志のこと、嫌ってたじゃない。だから、届いた手紙をあたしの目に触れないよう、引き出しにしまい込んで」
「確かにラブレターなんて、早過ぎると思ったわ」
 話を遮った母の陰険な視線が、奈緒を射竦(いすく)める。
「奈緒が好きだ、一緒に野球が出来ないなんて寂しい、ずっと一緒にいたかった、そんな恥ずかしい台詞が書き連ねてあったのよ。まあ、書いた本人も出して後悔したんでしょうけど、そんな手紙を娘に見せる訳にはいかないって、そりゃあ、お父さんも怒ってたんだから」
「やっぱり……お父さんには見せたんだ」
「そりゃあ、見せるわよ! あんたはね、小さい頃から篤志君にばっかり付きまとって、同性の友達を全く作ろうとしなかったじゃない。親にも反抗してばっかりだし……将来、どんな人間になるのか、そりゃあもう心配していたのよ。お父さんと奈緒のことを話しては、二人で頭を悩ませて……親にどれだけ迷惑かけたか、奈緒は分かってるの? 中学の時も好き勝手に夜通し遊び回って、学校へもろくに通わなかったわ。高校に入ったら入ったで、ボクシングなんか始めて、親から貰った顔と体を傷つけるばっかり!」
 次々と母からなじられ、頭に血が上った奈緒は、カッとしていい返した。
「ちゃんと許しを貰って、ボクシングは始めたよ。高校へ休まず通って、テストもほとんど満点だった」
「嫌だわ……戸波高校で成績がトップだったのを自慢するなんて、どうかしてるわよ」
 川村設備の娘を覚えてる? と突然、母に訊かれ、奈緒は眉を顰めた。
 学年がひとつ上で、万引きをしたり、無免許でスクーターを乗り回したり、この界隈では知らぬ者のいない、悪名高い先輩だ。今はどうしているか知らないが、かつて夜になると柄の悪い男を引き連れ、辺りをうろついていた。
 彼女とは中学も高校も一緒だが、奈緒にしてみれば、親しくしたことはおろか、言葉さえ交わしたことが無い。
「あの子がね、べらべらと恥ずかしげもなく、バスの中で声を張り上げて話しているのを、聞いたことがあるのよ。彼女が通う戸波高校はね、授業中みんな携帯をいじってるか、居眠りしてるかの、どっちかだって! テストも、授業で使った問題集をコピーしたのが、そのまま使われるんですってね。答えを丸暗記すれば簡単に満点が取れるけど、それも面倒臭くて、みんな十点、二十点が当たり前だといっていたわ。テストで零点を取る子も珍しくない、そんな高校で成績が良かったからって、何か得なことでもあるの? 現に奈緒は、まともな職にさえ就けなかったじゃない!」
 目を吊り上げる母の、苛立ちや不満も露わな態度を目(ま)の当たりにして、奈緒は鼻の奥が痛くなった。
「おい、ビールはまだか」
 突如、父が台所に現れた。
「今、持ってくところよ」
 込み上げる涙をどうにか堪(こら)える奈緒を無視して、呆気ないほど簡単に、母は明るく返事をした。
「ベルトはどうした。叔父さんや伯母さんに、まだ披露していないだろう」
 父も妙に優しい声を出す。奈緒は目を瞬(しばたた)かせ、「うん……今、持ってく」と、グラスに入っていた牛乳を素早く飲み干し、台所から出た。
 後ろ手にドアを閉める寸前、「女の子にチャンピオンベルトなんて似合わないわ」と呟く、母の声がした。
 玄関先へ向かった奈緒は、放ったままのスポーツバッグから、ベルトを引っ張り出した。こうして家の中で眺めると大きくて、確かに女の子が着けるには、異質なものだ。
(でも、せっかく持ってきたんだから……)
 気乗りがしないまま黒い皮のベルト部分を無造作につかみ、左肩にかけると、居間へ引き返した。
 ドアを開け、入ってきた奈緒を認めた皆が、一斉に歓声を上げた。 
「ちょっと、ちょっと! 写真撮らせて!」
 親戚が向けるカメラへ、奈緒もそれらしく両腕を上げ、ファイティングポーズをとってみせる。
「どれ、良く見せてくれ」と、奈緒からベルトを受け取り、叔父は感心したようにいった。「ぴかぴかしてて、新品みたいだね」
「新品だよ。おととい、届いたばかり」
「えっ? チャンピオンベルトって、試合に勝った相手から、取り上げるもんじゃないのか?」
「違うよ」
「ええっ? じゃあ試合後に、奈緒ちゃんが腰に巻いてたベルトは? 新聞に載ってた写真で見たよ」
「あれは相手選手のを、とりあえず借りただけ」
 叔父と奈緒のやり取りを聞き、意外に思ったのか、へええ、とあちこちから声が上がった。
「それにしても、二月に試合だったっていうのに、今頃ベルトが届くなんて、ずいぶん遅いんだね」
 イトコのお嫁さんだという女性からいわれ、奈緒は淡々と応じた。
「時間かかるよ。デザイン決めて、工場に発注かけるんだもの」
「ええっ? デザインを決めて、工場に発注? これってチャンピオンになると、どっかから勝手に贈られるもんじゃないの?」
「東洋太平洋王座に、ベルトなんて無いから」
「ホントにっ? チャンピオンになった人が、適当に作っちゃうの? でもソレって、誰かが勝手にベルトを作って、これは東洋太平洋チャンピオンのベルトですといい張っても、OKってコトだよね?」
 居間で座卓を囲む人々が、わずかに失笑する。血縁ではない若くて無邪気な嫁の発言を笑ったのか、自腹を切ってベルトをわざわざ購入する王者の所行を笑ったのか、奈緒には判断が付かず、胸がざわつく。
 WBCやWBAは? と重ねて別の親戚から質問され、煩わしく思いながら、それでも奈緒は答えた。
「決まったベルトがあるよ。WBCやWBAに注文して、結局は自分用のを買うんだけど……」
「ふうん……ああいうのって、甲子園の優勝旗みたいに持ち回りなのかと思ってた。チャンピオンになってもタダで貰えないなんて、色々とお金もかかるし、大変だね」
 小馬鹿にした口調で千登勢がいい、父までもが笑った。
 奈緒は下唇を噛み、ベルトが親戚の手から手へと一周し、戻って来ると、それを床に置いたまま両膝を抱え、腹立ち紛れにぼそりと告げた。
「あたし……六月の試合が終わったら、引退するから」