A SPOOKY GHOST 第四十一話 つまらない些細なこと

 始発の電車に乗り、実家の最寄り駅へ着いた時は、周囲もすっかり明るくなっていた。
 奈緒は黒縁の眼鏡をかけてマスクをし、濃紺のジャージの上下を着ている。大きなスポーツバッグを肩から提げ、いかにも休日の朝、運動をしに出かける格好だ。
 郊外へ向かうバスに乗り込んだが、彼女を含めて三人の乗客しかおらず、誰ひとりとして奈緒に気を留める者もいなかった。
 若い女の子らしい派手な外観と縁遠かった奈緒は、天翔へ移籍してから、化粧や髪型、服装に至るまで細かにマネージャーの高橋から指示を受け、従ってきた。
 毎日のように身なりを整えるのは努力がいったが、流行りの化粧や、爪や肌の手入れ、髪型のアレンジを、今では一通り難なくこなせるまでとなり、見違えるほど垢抜けた。
 それが功を奏し、ノーメークでアスリートらしい姿をしている方が、かえって人目に付かず、目立たない。
(ボクサーだっていうのに、変なの……)
 バスの車窓からは、柔らかい日差しを浴びる満開の桜が見えた。
(こんなはずじゃ、なかった)
 川沿いの遊歩道で橋野と隣り合わせて座り、眺めた、春の光景が思い出され、奈緒は奥歯を噛み締めた。
 ――ソレって、オレに運命感じたの? それともボクシング?
 彼が冗談めかして訊いてきて、ボクシング、と顔を赤らめながら答えたはずだ。
(あたしには……)
 金本老人は奈緒を、『運が良い』と表現した。
 ボクサーはかつて国民的ヒーローで、プロ野球選手をしのぐ収入があった。ところが今日では、世界チャンピオンであっても一般では知名度が低く、経済的にも不遇な状態が続いている。
 ――美人で賢く運動もできるのに、ボクシングなど選んで、やっている。どうやらそんな、人と違うことをする、変わり者が嗤(わら)われる世の中となったらしい。
 そう皮肉ったうえで、ボクサーとして奈緒は恵まれていると金本老人はいったが、納得できなかった。
 水着のグラビアで売り出し、ファッション雑誌で取り上げられたのをきっかけに、バラエティー番組に呼ばれたり、ワイドショーで試合結果が報じられたり、しっかりタレント扱いされている。
(ボクシングしか、ない。そんなあたしが……)
 奈緒の勝った試合は全部八百長だったと流言が飛び交い、交際相手を世界チャンピオンのボクサーから人気プロ野球選手に乗り換える尻軽女だと、あからさまに彼女を中傷する手合いがここのところ増えている。
(どうして、認められないんだろう)
 ろくに人付き合いもしない奈緒の耳にまで、そういった根も葉もない噂が届く今の状態は、余程の事だ。
(あたしが……間違っていたから?)
 実家が近づくにつれ、膝の上で握り締める指にも力が入る。
 もう、二年以上も前になる。プロ二戦目の試合を終えた翌日、奈緒は受診料を親にねだれなくて病院へ行かなかったばかりか、登校した先の高校から救急車で運ばれ、入院する騒ぎとなった。
(あの時、ボクシングを辞めるべきだったのかもしれない)
 車内放送で目指すバス停の名前が連呼され、奈緒はブザーを鳴らした。
(有り得ない、よね……そんな選択をするぐらいだったら、天翔へ行かなかったもの)
 やがてバスが止まり、運賃を払って外へ出たが、足取りは重かった。
 お金が稼げないと分かっていてボクシングを続けさせるほど、父も母も甘くはない。それでも就職先が決まらず、プロボクサーになる条件として突き付けられた、家計を助けるという約束さえ満足に果たせない奈緒を、親は野放しにしていた。
(お母さんだけじゃない。お父さんも決めてたんだ。天翔にあたしを預けるって)
 少なくとも奈緒が退院した時点で、母は天翔から打診を受けていた節がある。正確にいうと、妹の千登勢の同級生である金本宏美の母親から、奈緒の移籍を助言されていたようだ。
(そうでなきゃ、ボクシングを続けることを、あんなにあっさりと許してくれなかったはず)
 金本宏美の父親は天翔ジムの現会長であり、彼女の祖父こそがボクシング界の重鎮で、天翔ジムの創設者にして元会長でもある金本昭三、その人だった。
 そして何よりも金本宏美の母親は、名門北章学園の保護者会で、副会長を務めている。そういう派手な役回りに憧れ、一種のステータスとしている母が、奈緒の移籍に俄然乗り気となったのは、必然だったといえる。
 高校を卒業して間もなく、中倉から天翔へ移れば住居も仕事も保証されるからと、母は熱心に奈緒を口説いた。
(あんなエッチな雑誌で水着姿になるのが仕事だなんて、想像もしてなかったんだろうけど……)
 住宅街の細い十字路をぼんやりと横切り、実家に向かって歩きながら、自然と顔が強ばった。
 グラビアに激怒し、奈緒を勘当しておきながら、北章学園で金本宏美の母親と顔を合わせても、変わらず母は愛想を振り撒いていたと、聞いている。
 ――何の取り柄もない平凡な主婦の、ささやかな虚栄心を満たす手伝いをした。
 お前は立派な子だ、と金本老人は、今春から北章学園保護者会の役員になった母と、その娘である奈緒を、嘲笑っていた。
(一体どんな顔をして、家に戻ればいいの?)
 東洋太平洋王座に就(つ)いたことを祝いたいので帰って来いと、母から携帯に電話があった。親戚一同が集まると聞かされ、一ヶ月以上も返事をせずにいたが、とうとう押し切られる形で、今日と決められてしまった。
 二年ぶりに訪れる我が家を前に、奈緒は長い息を吐く。そして門の呼び鈴を押すと、しばらく待たされた後、勢い良く玄関の扉が開き、「奈緒ちゃんっ? めちゃめちゃ早いよ!」と妹の千登勢が飛び出してきた。
「日曜の朝だもん。お父さんもお母さんも、まだ寝てるよ。何だって、こんな早く来たの?」
「電車とバスに乗るから、人の少ない時間を選んで、来た」
 スポーツバッグを担ぎ直し、玄関で靴を脱ぐと、奈緒はずかずかと家に上がった。
「有名人は大変だねー。でも、誰も気が付かないと思うよ」
 何か拍子抜けしちゃった、と千登勢は上から下まで、無遠慮な視線を投げて寄越す。
 奈緒は顔をしかめてバックを玄関の床に置くと、台所へ向かった。
「髪の毛は黒くて真っ直ぐだし、ノーメイク? その眼鏡も変だし、マスクなんかして、怪しさ満点。コレがあの、遠藤奈緒? って感じ」
 千登勢が追ってきて、うるさく付きまとう。
「家族なんだから、これが普通に決まってる」と、奈緒は眼鏡とマスクを外した。
「うわあ……奈緒ちゃん変わんないね、ホント」
 千登勢は目をぱちくりさせた。
 連日のスパーリングで出来た、アザや傷が、顔中にある。眼鏡をしていると目立たないが、うっすらと腫れて赤味を帯びている左まぶたは、縫うほどではないが、真っ直ぐ横に切れている。
 ミミズ腫れに似た小さな傷も無数にあるが、酷いのは下唇だ。ぷっくらと膨らみ、皮の一部が剥け、真っ赤な肉が膿んだようにのぞいていた。
「その口の怪我って、どうやったら出来るの?」
 恐ろしいことでも尋ねているつもりなのか、千登勢は体を縮込ませて口に手をやり、姉の奈緒を窺い見る。
「下の歯が内側から食い込んで、唇を突き抜けると、出来る」
「想像するだけで、嫌!」
「マウスピースはきちんとしてたんだけどね」
 男のパンチは強烈だよ、と吐き捨てる奈緒の後ろから、「何だ、帰ってたのか」と、のっそり姿を現した父は、目が合った途端、不快そうに彼女から顔を背けた。椅子に腰掛け、「昼前には高尾の叔父さんや、板橋の伯母さんも来るから」と、テーブルの上で新聞を広げ、一本調子にいった。
「武雄君や日向子お姉ちゃんも来るって! 日向子お姉ちゃんとこなんか、もう上の子が小学生だよ」
 千登勢の話だと、どうやら十年以上も顔を合わせていないイトコを含め、親戚が大挙して押しかけてくるらしい。
 自分を目当てに大勢の人が集まると知り、奈緒は心が沈んだ。以前から、いとこ同士で仲良くするのも、大人達から何か訊かれて答えるのも、苦手で億劫だ。
 うんざりとしながら椅子に腰を下ろし、「奈緒じゃない! いやねえ、なあに? その格好!」と、ようやく起きてきた母から、さっそく小言を喰らった。
「おまけに酷い顔だわ。みんな、あなたに会いたがっているというのに、そんな恐ろしい顔してちゃ、ガッカリよねえ」
 家を出たのが昨日今日に感じるほど、家族は変わっていなかった。何のわだかまりもないのか気易く話しかけてきて、やがて奈緒の相手に飽きると、母は料理を始め、父は新聞に読み耽る。
「お姉ちゃん、手伝ってよ」
 千登勢に呼ばれ、居間を片付けて大きな座卓を並べたり、食器を運んだりしたのち、ぼうっとテレビを見て時間を過ごした。
 十時を回ったあたりから親戚がぼちぼちと集まり出し、仕出しの料理も届くと、パンクしそうなほど家の中は賑やかになった。
 誰もが真っ先に奈緒へ声をかけてきて、尋常でない顔にまずは絶句し、続いて取り繕うように賛辞を並べ立てた。
 奈緒は愛想良く写真撮影に応じ、愛嬌を振りまきはしたが、気が付くと部屋の隅で一人、黙々と何十枚もの色紙にサインをしていた。
 親戚は皆、とっくに奈緒のことなど忘れて、身の上話や昔話に花を咲かせている。時折どっと笑いが沸く部屋の中を小さな甥や姪が走り回り、座卓に並べられている、料理が盛られた皿と飲み物が入ったグラスも、次々と空になった。
 試合まで約二ヶ月という今の時期、減量は必須ではないが、女の体は脂肪が落ちにくい。奈緒は寿司だけを口にし、天ぷらや唐揚げといった副菜には一切手を付けないまま、穏やかな眠気に誘われた。
 渡された色紙全部にサインし終えると、居間と隣り合う和室の端っこで寝転がり、うつらうつらとした。
「奈緒ちゃん、この間が成人式だったんだっけ?」
 叔父のひとりが話題にし、「そういえば家に、市から成人式の案内が来ていたな」と、答える父の声がした。
「よく二十歳(はたち)の芸能人が成人の日にテレビで報道されたりするじゃない? 奈緒ちゃんも取材で振り袖ぐらいは着たんじゃないの?」
 調子よく伯母が口を挟んだが、父はにべもなかった。
「あの通り、ボクシングばかりしている子だからな。振り袖なんか着たところで、似合いもしないだろう」
「ちょっと! あなたの娘は、ああ見えて案外人気があるのよ。それに最近、プロ野球選手とも噂になったでしょ? 年頃の女の子らしいじゃない!」
 すぐさま伯母がいい返し、奈緒は聞耳を立てたまま、寝たふりを続けた。
 篤志君ね、と母まで話の輪に加わり、ますます座が盛り上がる。
「記事にはお互いが初恋の相手だって書かれていたなあ」
「先週の週刊新声に載ってたヤツ?」
「あの記事が出て、色々な憶測が流れたよね。スポーツ新聞とか、すごかったよ」
 待ってましたとばかりに親戚が口々にいい、千登勢が余計なひと言を添えた。
「週刊新声は無いけれど、奈良井ジャーナルの先月号ならあります。ちょっと持ってくるんで、見てなかったら、どうぞ」
 居間に背を向け、目を閉じたまま、奈緒はため息を吐(つ)いた。
 東洋太平洋タイトルマッチを終え、二週間ほどが経った二月の終わり、マネージャーの高橋と高知へ飛んだ。文芸誌として名高い奈良井ジャーナルが、篤志との対談を企画し、奈緒を呼び寄せたのである。高知で彼は、所属している球団が主催の、春季キャンプに参加中で、その合間を縫っての対談だった。
 内容は大したことない。体調管理や怪我防止策、モチベーションの維持など、アスリートなら必ず関心を持つであろうことを、適当に二人で語り合っただけだ。
 笑いながら懐かしい思い出を振り返りもしたが、お互いを『遠藤選手』、『鈴木選手』と他人行儀に呼び合い、お為ごかしな褒め合いに終始した感は否めない。
 ――遠藤選手は、男の子ばかりの野球チームで、女の子なのに自然体で頑張っていました。今も変わらず、男女の枠に捕らわれることなく、自分のやりたいことをやっていて素晴らしいと思います。
 ――鈴木選手は人一倍負けず嫌いで、努力家でした。そして何よりも野球が大好きだったので、プロとなって活躍されている今でも、あの頃のまま、とても楽しそうにプレーをしているように思えます。
 万事がその調子で、雑誌に掲載された対談のどこをどう読んでも、二人が再会したのを機に付き合い出すような甘い思慕など微塵も感じられなかった。
(どうして、こんな対談が実現したのか……)
 奈緒はもう、芸能活動の真似事はしないと、決めている。
 東洋太平洋タイトルマッチの一ヶ月前から、テレビや雑誌の仕事は引き受けず、ジム以外での取材にも一切応じなかった。
 篤志との対談が唯一の例外で、これは半ばジムから強制され、行かされたものだ。
 東洋太平洋タイトルマッチの前に安森との醜聞が流れたが、それと一緒で、金本老人の目論みだと奈緒には見当がついている。ランナ・コムウットと対戦する世界タイトルマッチへ向け、今度は人気プロ野球選手を相手に話題作りをしようと、画策された茶番だ。
(篤志はきっと怒ってるだろうな)
 当たり前だが、球団を通じて奈緒との交際を、彼はきっぱりと否定していた。同じく彼女も篤志のことを良い友達だとコメントしたが、実際にはもはや友人でさえない。
(小さかった時とは違う。再会したところで、見知らぬ他人なんだ)
 奈緒はいっそう背中を丸めたが、「篤志君はね、奈緒にラブレターを寄越したことがあるのよ」と聞こえてきた話に、思わず目を見開いた。