A SPOOKY GHOST 第四十話 東洋太平洋タイトルマッチ(3)

 六階へ上がると、ハルイチはバルコニーとは反対の方向へ行き、重い鉄の扉を開けた。
 エレベーターホールが広がっていて、奥にトイレがある。彼は真っ先に女子便所を覗き、誰もいないことを確認すると、続いて男子便所のドアを勢いよく開けた。
「奈緒!」
 奥の壁に寄りかかる彼女を見つけ、ハルイチは息せき切って呼びかけた。
「こんなトコで、何やってんだよ!」
 奈緒はゆっくりと顔を上げ、突然現れた彼の姿を、怪訝そうに上から下まで眺めた。
「みんながオマエのこと探してんぞ」
 オレちょっと下へ行って知らせてきます、と出て行こうとするハルイチを、「ちょっと待て」と、高口は引き留めた。ゆっくり歩み寄り、よくよく見ると、彼女は開けていないコーラの缶を手に、呆然と突っ立っている。
「安森から……貰ったのか?」
 どういうことだよソレ、と後ろで騒ぎ出すハルイチを「静かにしろ」と川上が制し、黙ってうなずく奈緒に、高口は重ねて訊いた。
「中倉にいた頃から炭酸飲料は、あまり飲めないからと、敬遠していたんじゃないのか?」
 身を屈めて下から彼女の顔をのぞき込み、リングの上と変わらない、赤みがかった明るい色の髪を編み込んでまとめた、隙のない美しい粧(よそお)いに、気分が落ち着かなくなる。
(参ったな。あの地味な子が、こうも変わるものなのか)
 薄くしか化粧をしておらず、白いパーカーにジーンズを合わせただけの何でもない身なりだが、どうにも艶めかしく感じられた。
(今の奈緒なら、相手なんて選び放題だろう。どうしてあんなヤクザ崩れの、難しい男に惚れたりするんだ)
 高口達が通り過ぎたあと、安森は右手の甲で、薄く色付いた唇を拭う仕草をしていた。今こうして目を赤くしている奈緒を見れば、ここで何があったのか、容易に想像が付く。
「あたし……実は、こういう甘い飲み物に目がないんです」
 消え入るような声で、ようやく返事をした彼女へうなずいてみせると、高口は体を起こした。
「ハルイチ。五階の売店でもいいし、四階の自販機でもいいから、コーラを三つ買ってきてくれ」
「はあっ?」
 最初は面食らって不満げな声を上げたハルイチだったが、すぐに「いいっすよ……でも、高口さんのおごりですからね」と、口を尖らせていった。
「悪いな」
 抱えていたジャケットのポケットから財布を出すと、高口は紙幣を抜き取り、彼に渡した。
「俺も行く」
 高口に目配せをして、ハルイチの肩を抱き、川上もトイレを出て行った。
 残された奈緒は目を伏せ、気まずそうに「どうして……安森さんのこと、知ってるんですか?」と、尋ねてきた。
「ああ。さっき階段で彼とすれ違った。どうしても狭い世界だからな。オマエ等が付き合っていると、人伝(ひとづて)に知ってはいたんだ」
 そうですか、と彼女はため息を吐き、ゆっくりと瞬きをした。
「三禁(さんきん)を破るなんて、あたし、ボクサー失格ですよね」
「まあ、そうでも無いだろう。酒と煙草はともかく、女を禁止しているジムなんて、試合前でもない限り、今時あまり聞かないな」
 奈緒は女だから男になるか、と高口がいい直し、彼女は小首を傾げ、わずかに口元を綻ばせた。それに力を得て、「その様子じゃ、振られたか」と軽口を叩いた途端、「ほっといて下さい」と思いのほか強い調子でいい返され、高口は苦笑した。
「そんなコーラ一本でケリをつけられて、納得する女はいないよな」
「いいえ……嬉しいです、とても」
「そうなのか?」
 耳を疑い、問い返す彼の前で、奈緒は缶を握り締めた手を額にやり、ぎゅっとまぶたを閉じた。
「でも、あたしにとって食事制限は絶対です。これを一口でも飲んだら、信念に背きます」
「相変わらず、自分に厳しいんだな」
「だから飲めないんです。あたしが好きになった人からの、最初で最後のプレゼントなのに」
 たかだか缶ジュース一本の差し入れを、プレゼントと表現する彼女が痛々しかった。
(変わったのは見かけだけだ)
 好きだが、飲まないと決めている奈緒にわざわざコーラを手渡すのは、腹いせにも似た意地悪か、そうでなければ、勝利したことに対する皮肉としか思えない。
(橋野の時も、そうだった。好きになると、相手を全面的に信じてしまう)
 そして傷付くんだ、とあまりにも愚直な彼女の素顔にやりきれなくなる高口の背後で、ドアが開いた。
「待たせたな、奈緒」
 戻ってきたハルイチが満面の笑みと共に、「はい、高口さん」と、コーラを差し出す。
「四人で祝杯だ」
 そういって横に並んだ川上を、壁にもたれたまま、奈緒は不思議そうに見やった。
「まずは今日の試合、奈緒が見事勝って、東洋太平洋チャンピオンになったことを祝って」
「はあ? まずは、って、他に何を祝うんだよ」
 川上に肘で小突かれ、ハルイチは照れたように「四月に、オレの日本タイトル挑戦が決まったこと、それから……」と、奈緒を見た。
「世界戦、六月にやるんだろ?」
 臨時トレーナーの期限が六月と定められていた時点で、簡単に予想できたことだ。しかし、それを実際に確かめ、耳にした者は誰ひとりとしていない。
 ハルイチと川上、そして高口が固唾を呑んで見守る中、彼女はひっそりと乾いた声を発した。
「……やります。ランナ・コムウットと」
「よし、乾杯だ!」と川上がいったのを合図に、皆が次々と缶のプルトップを引き、奈緒もおずおずと、持っていたコーラの栓を開けた。
 カンパーイッ、と賑やかに缶を打ち合わせ、一斉に甘い炭酸飲料を喉へ流し込む。
「うわあ。そういやオレも炭酸を飲むなんて、すっげえ久しぶりかも。腹が膨れて、何だか気持ちわりい」
「ハルイチは現役だから、ビールとか飲まねえもんな」
「やばくない? 毎晩ビールを飲むせいか最近太ったって、奥さんがグチってたよ」
 ハルイチと川上がはしゃぐ隣で、彼女は缶を睨んだまま、一口も中味を飲めずにいた。
「奈緒。川上は去年のちょうど今頃、結婚したんだ」
 高口が話しかけると、奈緒は首をもたげ、物憂げに中倉ジムの面々を見回した。
「もう子供もいる。去年の七月に産まれたんだけどよ、花蓮っていう、女の子だ」
「すっげえ可愛いよ。奥さん似で」
「馬鹿いうな、俺に似てんだよ」
 えー、と騒ぐハルイチと川上の会話に高口も加わり、懐かしく集まった顔ぶれを見つめた。
「こうして四人が揃うのも、久しぶりだな。いつ以来だ?」
「一年と……十一ヶ月ぶりだろ」
 指折り数えてハルイチがいい、「そんなになるか。あっという間だ」と、川上も感慨深げだった。
 対照的に奈緒は、冷めた表情のまま、顔色ひとつ変えない。何を聞いても心動かされないのか、口を固く閉じたままで、かつての仲間達が語る近況に、興味を示そうともしなかった。
 その場にいた彼女を除く全員が、違和感を覚え、話すのを止めた。
「……減量、きついのか?」
 しばしの沈黙が続いたのち、険しい顔つきとなってハルイチが口火を切り、奈緒は項垂(うなだ)れた。
「大丈夫。いざとなったら頭を丸めて、体中の体毛を剃るから」
 思いも寄らない方向へ話が行き、缶を握り締める彼女の横で、ハルイチは眉を顰めた。
「あたし、何だってする。耳をそぎ落としたっていいし、歯を全部抜いたっていい」
 高口だけでなく、川上も横で言葉を失い、息を呑む。
「あたしは、やれる。あたしには、ボクシングがある」
 他に何もいらない、とつぶやく彼女からコーラの缶を取り上げ、「今日だけは信念を曲げて、これを飲め」と、高口は告げた。
「代わりに六月まで、みっちりとしごいてやるから、覚悟するんだ」
 ゆっくりと奈緒は顔を上げ、彼にうつろな目を向けた。
「四月まではハルイチのタイトルマッチもあって、週一ぐらいしか天翔には行けない。でも、それが終わったら、今度はオマエに世界を獲らせてやる。絶対にだ」
 分かったな、と念を押し、高口は彼女の手に再び缶を握らせようとしたが、奈緒は受け取らなかった。
「いってる意味が……良くわかりません」
「トレーナーを引き受けるって、いってんだよ!」
 身を乗り出して怒鳴るハルイチの肩をつかみ、川上は静かに首を左右に振った。
「私もう、戻ります。今日は応援して下さって、ありがとうございました」
 他人行儀に挨拶をし、歩き出す彼女へ、「いいのか?」と川上は尋ねた。
「本当に、大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ」
 奈緒はドアの前で振り返り、目を細めた。
「ゴールドメダリストを何人も育てた、世界的なトレーナーから指導を受けたし、付き合っていた彼氏も世界王者です。そんな私に、一介の街ジムのトレーナーが、何を教えようっていうんですか?」
 不自然に口の端を上げて彼女が出て行くのを呆然と見送り、ハルイチは洗面台に腕を伸ばした。「オレ達どうして、こんなきったねえ、臭い場所で、ジュースなんか呑気に飲んでんだ?」と、缶を傾け、茶色い液体を排水口に流し入れる。
 川上と高口も彼に倣い、残ったコーラを流しへ空けてしまうと、缶をトイレのゴミ箱に捨てた。
「試合は終わった。家に帰ろう」
 高口がいい、ハルイチと川上もうなずいた。
 夜のとばりが降りた後楽園ホールは、深い闇に包まれようとしている。ほとんど口を利かないまま三人は駐車場まで歩き、車で帰途についた。
「奈緒はオレ達の、何が気に入らないんだろうな」
 助手席でハルイチが憮然としていい、後ろのシートでうとうとしていた川上は、「彼奴(あいつ)にとって、俺等はもう他人なんだ」と、面倒臭そうに答えた。
「見下されたくなかったら、さっさとタイトルを獲って、奈緒と並べ。ハルイチ」
「そりゃあ、目指してんのはソコだけど……」
 がしがしと頭をかきむしり、ハルイチは大きく息を吐いた。
「何つうか、奈緒って大物ばっかに目を付けられるんだな。天翔の前会長とか、安森さんとか」
「中倉ジムで、俺や高口さんと同じく、お前も大物だったといいてえのか?」
 川上にからかわれ、「そうはいってねえよ」と、ハルイチはふくれた。
「ただ、オレみてえなガキじゃ、ダメなのかなって……アイツの支えになれねえのが、何か口惜(くや)しくてさ」
「ハルイチ、それは違う」と、ハンドルを握りながら、高口は首を振った。
「世界戦の話題が出た途端、奈緒は態度を変えた」
 首都高を走る車の外を、冬の澄んだ空気の中に浮かび上がる都会の明かりが、次々と現れては、消えていく。かつて、この眩しい光景の下で、高口は鼻持ちならぬ有能な商社マンを演じ、派手な毎日を送っていた。
「どれだけ試合に集中できるか……ボクサーなら分かるだろう? 奈緒が欲しいのは、ランナ・コムウットに勝つための確かな道筋であって、同情なんかじゃない」
 華やかな都会の生活に飽き足らず、興味半分でジムへと通い始め、センスがあるとおだてられた。結果プロボクサーとなり、辛酸を嘗めたが、陰鬱で独特なボクシングの世界の虜となった。
「そのために奈緒は、一人でいることを選んだ」
 トレーナーとして関わってゆくことを決め、自らの夢や理想を若い選手達の未来に重ねてきたが、今となっては覚悟が足りなかったと、臍(ほぞ)を嚼(か)む思いだった。
「誰にも甘えることなく、ランナ・コムウットに勝つまで、ボクシングのことだけを考え、生きるつもりなんだ」
 彼女の今日の試合を、詳細に渡って高口は記憶している。自責の念に駆られ、今後何をしてやれるのか、やはり考えずにはいられなかったからだ。
「支えようとしたところで、拒絶されるのがオチだ」
 彼が憧れて已(や)まなかった強者の世界へ、奈緒を引きずり込んでしまったのは、外ならぬ高口自身だ。しかし、想像以上の過酷さを追い求める彼女は、生半可な指導者など、もはや望んでいない。
「変だ」
 頭の後ろに両手を置き、後部座席でふんぞり返る川上が、バックミラー越しにいい放った。
「奈緒も。そして高口さん、あんたも」と、彼は目を閉じていい、やがて小さく寝息を立て始めた。
「オマエも……変だと思うか?」
 顔を傾け、高口は助手席のハルイチを見た。
「思わねえよ。思わねえけど……」
 ボクサーってどっか頭がイカレてんのかも、と彼が愚痴めいてこぼすのを聞き、たまらず高口は吹き出した。
「オマエはどうなんだ、ハルイチ」
 腕を伸ばして、助手席に座る彼の頭を指先で小突くと、そのままハルイチはこつんと窓に寄りかかった。
「さあ。でも、クリーンヒットを浴びても、ぜってえ倒れないボクサーなんて、奈緒の他に思い浮かばねえし」
 やっぱりアイツは変だ、と話す彼の息がガラスにかかり、窓を白く染めた。