A SPOOKY GHOST 第三十九話 東洋太平洋タイトルマッチ(2)

 奈緒の試合後に行われたメインイベントは、世界初挑戦に失敗した選手の復帰を兼ねた、ノンタイトル戦だったが、櫛の歯が欠けたように席が空き、高口たちも適当なシートに腰掛けて観戦できた。
「今日のメインイベンターは奈緒だったな」
 一番端の席で川上が肘掛に頬杖を突きながらいい、人通りの途絶えた階段に座り込むハルイチも、「だよなー」と笑った。
「高口さん。この試合が終わったら、奈緒の控え室に顔を出すんですよね?」
 広げた両足の膝をつかみ、身を乗り出したハルイチは、川上の奥に座る高口を覗き込んだ。
「だったらさ、トレーナーの話、受けてやんなよ。六月までの期間限定なんだから」
 馬鹿いうな、と高口はぞんざいにいい返した。
「オマエは四月に、日本タイトル挑戦が決まっているんだぞ」
「会長だっているし、いざとなったら、川上さんもオレの面倒を見てくれるよ」
 ですよね? と屈託なくハルイチから同意を求められ、「まあ、力になれるかどうか、自信はねえけど」と、川上もまんざらではない様子だった。
「今まで試合には外国人のセコンドが付いていたが、今日はいなかった。恐らく其奴(そいつ)が抜けて、奈緒はトレーナーがいねえ状態なんだ」
 そういって川上は、「天翔のような一流トレーナーが揃っているジムでも、彼奴(あいつ)の扱いには、困ってんのかもしれません。だったら、助けてやるべきだと思います」と、暗に高口の決心を促す。
 いつトレーナーの件を切り出そうか、ハルイチと川上は待ち構えていたのだろう。肝心なメインの試合そっちのけで、高口の説得に乗り出していた。
 年が明けてすぐに天翔から臨時トレーナー就任を打診され、この二ヶ月間、彼自身も迷い続けている。
 奈緒の移籍は、いくばくかの移籍金が支払われ、スムーズに契約も交わされた、円満なものだった。
 ボクシングのマッチメイクはタイトルが絡むと複雑で、なかなか上手く事が運ばない。女子のように選手数が少なく、対戦カードを組むことさえ難しい状況だと、尚更だ。
 奈緒が向かうところ敵なしの状態となり、中倉会長も手詰まりを感じていたのだろう。天翔ジムのマネージャーが中倉ジムを訪れ、話し合いに及んだ時点で、何のわだかまりもなく移籍に同意したに違いなかった。女子選手を育てた実績はなかったが、時としてランキングにも影響力を発揮するほどの、政治力が天翔にはある。
 名門ジムに奈緒を託すことが、ひいては彼女のためになると会長も決断してのことで、高口に異論があるはずもなかった。
 奈緒は、と気持ちの整理がつかないまま、取り留めもなく、高口は話し出した。
「ほぼ完成されたボクサーだ。ミドルレンジから相手の打ち終わりを狙って、フックを返すのが抜群に上手い。そこからコンビネーションで確実に急所へ当てる……」
 高校の卒業式を終え、一週間を過ぎたあたりから、朝のロードワークはおろか、ジムにも奈緒は顔を出さなくなった。密かに心配していたが、会長から移籍の件を切り出されて高口も事情を知り、彼女の気持ちを確かめないまま、結局は奈緒を天翔へとやってしまった。別のいい方をするならば、あの時点で彼女のことを持て余し、見放していたのだ。
「当て勘が抜群にいいんだ。そのうえ、先に打ってきた相手のパンチを確実に外す、高いディフェンス技術もある」
 場内がどよめき、高口は話を止めてリングに顔を向けたが、大して試合に興味は無かった。復帰戦の相手に選ばれたフィリピンの元ナショナルチャンピオンは、メインイベンターである日本人選手から数発のボディブローを浴びただけで簡単にダウンし、予想を覆すことなく、噛ませ犬の役割を終えた。
 勝ち名乗りを上げるボクサーを尻目に、「安森のスタイルに影響を受けただけでなく、恐らくセコンドだったという、外国人トレーナーによる指導もあったんだろう」と、ハルイチと川上の二人へ、彼は力無く笑いかける。
「パワーが劣るのを手数で相殺する、ポイントでも有利なインファイトの技術まで、奈緒は身に付けた」
 今日の試合で奈緒は、ボディーへ潜り込む直前、散々パンチを浴びていた。スリップやスウェーで避けられるはずが、わざとスリッピングアウェーという、リスクの高い防御法を採っていたからだ。
 ボディーへの攻撃も、顎を下げてガッチリと腕でブロックし、しつこければアッパーで牽制する、攻防一体の高度なコンビネーションではね除けた。
 いわゆる相手を疲弊させるディフェンスだが、多少のパンチをもらっても構わず前進する、強引さも際だった。
 それが影響してレイエスは怯み、ボディーに連打を浴びた。奈緒を真似、アッパーで相手を後退させようとしたが、それさえもブロッキングで止められ、打つ手を失っていたに等しい。
 出したパンチをことごとく避けられ、素早い奈緒のリターンブローに手こずっていた彼女は、クリンチから距離を取った後も、打ち終わりに合わされることを恐れ、迂闊に手が出せなかった。
 終にはロープ際へ追い込まれ、体を入れ替えるために放ったフックを読まれただけでなく、顎をかすっただけのアッパーに頭を揺らされ、キャンバスへと沈んだ。
「もうオレが教えることなんて、何ひとつ無いさ」
 そう結論づけて、話を終えようとしたが、ハルイチは露骨に眉間へシワを寄せた。
「ランナ・コムウットが相手でも、今日みたいに、簡単に勝っちまうのか?」
 全てのカードを終え、観客もまばらになった後楽園ホールは、スタッフによる後片付けが始まっていた。
「本気で思ってんの? 教えることなんか無いってさ」
 ハルイチは人通りの途絶えた階段に両足を投げ出し、天井を見上げながら、「誰も幽霊の正体に気が付いてねえのに」と投げやりな口調でいった。
「でもきっと、ランナ・コムウットだけは知ってんだ」
 そう吐き捨て、唇を引き結んだハルイチの頭を、川上は腕を伸ばしてつかみ、乱暴に揺らした。
「そこまで奈緒の事を心配してんなら、どうして電話してやんねえんだ」
「だってさ、顔や髪型まで、すっかり変わっちまったし……オマケにテレビや雑誌で華々しく活躍してる、今や有名人なんだ。あんなの……オレの知ってる奈緒じゃねえよ」
 川上の手の下でハルイチは頬を赤く染め、彼にしては珍しく、ムキになっていた。
「確かに……奈緒は綺麗になったな」
 ぽつりと高口が漏らし、「うん。大人の女になった」と川上までもがうなずくのを目にして、ハルイチは鼻息荒く立ち上がった。
「よし! 今日こそは、奈緒の控え室へ行くぞ!」
 そういうなり、ずんずん階段を下りて行くハルイチの後ろで、高口は川上と顔を見合わせた。そして豪快に笑い出すと、「待てよ、ハルイチ!」と二人して声を上げながら席を立ち、彼を追った。
(幽霊の正体か……)
 薄々それが何なのか、高口は分かりかけていた。
 奈緒はよくある一般家庭に育ち、家族間に多少の軋轢(あつれき)を抱えていたとして、何不自由なく育ったはずの、真面目で大人しい女の子だ。
 少々風変わりだが、高校生となってからはきちんと学校へ通い、バイトもこなした、社会的にも外れたところの無い優等生といえるだろう。
 そんな彼女がランナ・コムウットという一人の人間に異常な執着を示し、彼女を倒す為だけにボクシングをしているという事実は、常人にとって理解し難いものだ。
(ライバルなんて、生易しいものじゃない)
 ランナと試合をしたら終わりだと、奈緒はハルイチに宣言したのだという。
 その言葉の裏にはボクシングに対する愛情など感じられず、ランナ・コムウットというボクサーを破壊すべき偶像と見立て、立ち向かおうとする、狂気にも似た歪んだ情熱があるだけだ。
 ハルイチや川上と並んでロビーまで足を運び、奈緒から逃げようとした過去の自分を思い出した高口は、戸惑いを禁じ得なかった。
(オレは、彼女の闇に立ち向かえるのか?)
 奈緒の精神世界に巣くう嫉妬や劣等感は、未だ彼女を縛り続け、リングの上で幽霊となって現れる。それが奈緒の強さの秘密だとして、ランナと試合を終えた後、彼女に何が残るというのだろう。
(奈緒が破滅するのを、見届けることになるのかもしれない……)
 臨時トレーナーを引き受けるか否か、中倉会長からは高口の気持ち次第だといわれ、判断を任されたが、彼は二の足を踏み続けていた。
 ロビーには人がまだ大勢おり、選手達の応援に来た観客や興業に携(たずさ)わる関係者などで、賑わっていた。
「ひょっとして、春山君?」
 関係者用の入り口へ近付き、中にいた顔見知りらしい若い青年が、ハルイチに声を掛けてきた。
「おっ、田中さん。お久しぶりです」
 ぴょこんと頭を下げ、「ほら、新人王トーナメントの二回戦で当たった、天翔の田中選手」とハルイチが川上と高口へ説明し、田中は慌ただしく、「春山君は中倉ジムで、遠藤選手と同期にデビューだったんだよね?」と訊いてきた。
「実はさ、遠藤選手が記者との質疑応答を終えて控え室を出て行ったきり、戻って来なくて、裏が大騒ぎになっているんだ」
「マジで?」
「もし彼女を見かけたら、控え室へ戻るよう、いってもらえないかな」
 よろしく頼むよ、と彼がロビーへと走って行き、ハルイチは目を丸くした。
「おい。今の話、本当か?」
 川上が驚いていい、高口も困惑して、「嘘なんかつかないだろ」と、顔をしかめた。
「それにしたって、一体どこへ……」
 ハルイチはいいかけ、「ひょっとして」と踵を返し、六階のバルコニーへ上がる階段を駆け足で登り始めた。
「上だったら、とっくに探したんじゃないのか?」
 ハルイチを追いかけ、階段を上がりながら、高口は訊いた。
「オレさ、新人王トーナメントの決勝で負けた時、六階の便所で泣いたんだ」
「六階に便所? あったか? そんなの」と、首をひねる川上へ向かい、肩越しにハルイチは声を張り上げた。
「あるんだよ! その話を奈緒にしたことがあって、そこなら誰も来ねえからって、打ち明けた覚えがあるんだ」
 階段が狭くなり、上からスーツ姿の男性が下りてくるのを認めた三人は、脇へ寄った。すれ違い様に男が安森誠だと分かり、先頭のハルイチは足を止めたが、「ほらっ、急げ」と下から川上に急かされ、再び走り出した。
 スラックスのポケットに両手を入れたまま、うつむき加減に階下へ向かう安森を、高口はそっと横目に見送った。