A SPOOKY GHOST 第四話 ハルイチ

 遅刻ギリギリに教室へ滑り込むのは、ほぼ毎日のことだ。まもなくチャイムが鳴ろうという時間、奈緒は昇降口で靴を履き替えていた。
 後からやって来た男子生徒が、肩に引っかけていたバックパックから上履きを取り出し、床へ放っている。
(誰だっけ)
 教室へ向かおうとして、足を止めた。振り返ると、彼はゲタ箱を上から下までぼんやりと眺めている。
(学校じゃない、どこか違う場所で……)
 考え込む奈緒の前で、ようやく自分の名前が貼られた場所を見つけたのか脱いだ靴をしまい、歩き出した彼と目が合った。
「奈緒じゃねえか! なあ、二年三組の教室って、ドコ?」
 いきなり下の名前で呼ばれ、どきりとした。
「こっち」と短く答え、彼が誰なのか思い出せないまま、階段を上がった。二階の廊下を右に曲がってすぐの教室だ。
「あっ? ひょっとして、オマエと同じクラス?」
 驚きの入り交じった声を背に、チャイムの音を聞きながら教室へ入り、教壇に立つ教師から怒鳴られた。
「遅いぞ! さっさと席に着け!」
 すでに担任の植村が来ていたと知り、奈緒は自分の席へと急いだ。
「オレ、どこに座ればイイんスか」
 教室の前方へ向き直り、ズボンのポケットに両手を入れた、ふてぶてしい態度で返す彼にクラス中の注目が集まった。
「窓際の一番後ろだ」
 ざわめく教室の中を、植村が指差した席へ進み、彼は悠然と腰かけた。
「出席を取るぞ」
 担任の声が響き、次々と名前が読み上げられた。
「春山一朗」
「ハイ」
 奈緒はそっと、返事のあった、窓際をうかがった。
(ハルヤマ、イチロー……ハルヤマ……)
 バックパックを机の上に置いたまま、彼はイスにふんぞり返っている。
(ハルイチっ?)
 唐突に思い出し、奈緒は危うく声をあげるところだった。
 どちらかといえば丸顔で、背もさほど高くないが、切れ長の一重からのぞく鋭い眼光と引き結んだ唇は負けん気の強さを十二分に表している。
 左右を剃り上げた頭の中央で、短い髪を立たせているのが、いかにも男臭く、ボクサーのイメージにぴったりだ。
 しょっちゅうジムで顔を合わせていたのに、彼が同じ高校に通う生徒で、まさかクラスまで一緒だとは想像したこともなかった。
 戸惑い、動揺する奈緒の肩を、後ろの席に座る生徒が叩いた。
「呼ばれてるよ、名前!」
 我に返り、前を向いた途端、「どうした、遠藤。初めて見るクラスメートが、そんなに気になるか?」と、植村からいわれ、教室中がどっと沸いた。
「そんな風にぼんやりしているから、転んで目立つアザを作る羽目になるんだぞ」
 担任の植村は、顔に指先で触り、右目を囲むようにぐるりとなぞってみせた。
 ついこの間までひどい色だった奈緒のアザを同情するよりも面白がって見ていた同級生達は、そんな植村の仕草に笑い声を上げた。
「転んで出来たアザ? ナニ寝惚けたコトいってんだよ」
 賑やかだった教室が、しんと静まりかえった。
 声の主はハルイチで、生徒達の視線も一斉に彼へと注がれた。
「いい返せよ、奈緒。打ち合ってできたんだろうが」
「何だ、お前達。知り合いなのか?」
 植村に訊かれ、「同じボクシングジムの練習生です」と、ハルイチは打って変わって丁寧な口調になった。
「バカにされちゃ、仲間としてほっとけないスね」
 一転してヒソヒソ声に包まれる教室で、奈緒はうつむき、ため息を吐いた。
「そうか、ボクシングか」
 ハルイチの迫力に押されたのか、植村は曖昧に笑い、「そういえば途中だったな」と、下手ないい訳をして名簿に目を落とすと、再び名前を呼び始めた。
「このクラスもようやく初めて全員揃ったな。いいか、欠席も遅刻もなしっていうのは、当たり前のことなんだぞ」
 出席を取り終え、居並ぶ生徒達を眺めながら、説教とも訓話ともいい難い無駄話を始めた。
 教室にいる生徒の多くが欠伸をかみ殺し、朝のホームルームが終わるのを、根気強く待った。
「それでは今日も一日、頑張って勉学に励むように」
 特に伝えるような連絡事項もないらしく、ようやく話を切り上げ、教室から出て行こうとした植村が、「遠藤、春山」と二人を交互に見た。
「昼休みに職員室へ来るように」
 一方的にいい放ち、彼は返事を待つことなく、廊下へ姿を消してしまった。
 奈緒は周囲からの注目をよそに、ショルダーバッグから教科書やノートを取り出した。
「春山サン! すっげえ久しぶりっ」
 興奮気味にハルイチへ話しかける生徒の声がした。
「おう、立川」
「ビックリしましたよ。同じ名前のヤツがいんなーってクラス発表ん時、思ったんだけど、まさかマジで春山サンだったなんて!」
「ダブリだよ。一年間よろしくな」
 じゃれ合うような気軽さで話をしていた彼らが「ところで」と声をひそめ、会話も耳に届かなくなると、奈緒は人知れず舌打ちをした。どうせボクシングの話題に絡ませて、余計な噂話をしているに違いない。
 誰からも話しかけられないよう机へ突っ伏し、生理について考えることにした。体脂肪率が十パーセント台に下がったことで、止まってしまったのだ。
 筋肉を増やそうとやみくもに鍛えてきたせいだが、無月経だと疲労骨折が多くなるという学説もある。
(やっぱり筋トレやめて、ジムワークを増やすべきかな。でも、筋肉は落としたくないし。女って、面倒臭いな……)
 ハルイチのことなど、もうどうでもよかった。所詮は他人だ。同級生の顔や名前にしたって、一致しない人間の方が多い。
 おかしいんじゃないかと、奈緒自身、強く感じている部分だ。
 小さい頃は幼なじみの篤志といつも一緒にいて、二人で野球さえしていれば、毎日が楽しかった。
 中学へ上がり、篤志が引っ越してしまうと、事情は一変した。男女の差が顕著になり、誰もが自我を主張するようになった。少し言葉を交わしただけで、変だ、変わっていると、あからさまにいわれ、拒否された。頭に来て何かいい返そうとしても、何をどう伝えたらいいのか、全くわからなかった。
 独り善がりで思いやりがなく、冗談も通じない。中学三年間を孤独の中で過ごし、認めた自分の欠点を、奈緒は直しようもなかった。自己嫌悪に駆られ、散々悩んできたが、見つけた答えはひとつだ。
(好きなことを好きなだけやって、それで満足できればいい)
 友人との語らいや、好きな男の子と過ごす時間。そんなものがなくても、体を動かすことに熱中していれば、意味のある毎日を過ごせる。
 おかしいなら、おかしいままでいい、と割り切るしかなかった。
 ――― そういう風にしか、自分は生きられない。
 午前中授業を受けながら、奈緒はとりとめもなくそんなことを考え、自分を納得させていた。
 やがてチャイムが鳴り、昼休みになると、机の上を片づけて素早く席を立った。
「オマエ、昼メシどうすんの」
 職員室へ行こうと廊下に出たところで、ハルイチが隣に並んだ。
「お弁当。戻ったら食べる」
 ふうん、と相槌を打つ彼を捨て置いて、奈緒はさっさと歩いた。
「ハルイチじゃねえか!」
「生きてたのかよっ」
「何やってたんだ、オマエ!」
 渡り廊下で三年生と思われる、髪を染めていたり私服と見紛うほどに制服を着崩していたりする、派手な身なりの生徒達から、ハルイチは次々と声をかけられていた。
「めでたくダブリ」
 ハルイチが立ち止まり、気軽に応じると、たちまち人垣ができた。
「うわー、マジっ?」
「二年生アゲインかよー。年下に囲まれてツマんなくね?」
 矢継ぎ早に訊ねられ、ただニコニコと笑っていた彼だが、「なあ、なあ、まだボクシングやってんのか?」と訊かれた時だけは、即答した。
「おう、やってんよ」
「プロテストを受けるって話、どうなってんの?」
 ひとり先を行った奈緒は歩みを止め、振り返った。
「来月受ける。会長から許可が下りた」
 おお、とどよめきが聞こえ、ガンバレよな! と激が飛んだ。
(プロテスト……)
 じっとその場で立ち続ける奈緒に、ハルイチは気付いたらしかった。
「わりい。オレ職員室へ行かなきゃなんねえから」
「うおっ、さっそく呼び出しかよ。カッケーじゃねーの」
 そんなんじゃねえよ、と笑いながら話の輪を抜け、奈緒のところへ来た。
「待たせたな」
「別に」
 むすっとして再び歩き出す彼女に、「どうして秘密にしてんだ?」と、いきなり質問をぶつけてきた。
「秘密?」
「ジムに通ってるコトだよ」
「さあ。話す機会もなかったし」
「恥ずかしいのか?」
 奈緒は横を向き、ハルイチを睨みつけた。
「そんなコワイ面すんなって」
 次の瞬間、反射的に身を屈め、上目遣いに頭上を見ていた。ハルイチが右腕を前に突き出したまま、呆然と奈緒を見下ろしている。
(……アレ?)
 曲げていた膝を伸ばし、上半身を起こした彼女は、顔の前で構えていた両腕も下ろした。
「今、何しようとした?」
 問いかけながら頬がひきつる。学校の、しかもこんな廊下でダッキングをしてみせた自分が馬鹿みたいだった。
「いや、ちょっとからかってやろうと、鼻をつまもうとして……」
 驚き呆れたようにハルイチは答え、「スゲエな」と、低い声でつぶやいた。
「オレの右に反応して、防御の姿勢か」
 何回かマスやスパーのパートナーを務めた記憶が、無意識にそうさせたのかもしれない。珍しいものでも見るような、ハルイチの視線が痛かった。
 奈緒はいたたまれなくなり、早足になって、職員室へと急いだ。