A SPOOKY GHOST 第三話 見出される少女

 駅から歩いて五分ほどの雑居ビルに、中倉ジムはある。階段を上がった二階がリングのある練習フロアで、三階に更衣室と、会長室を兼ねた事務室があった。
 創設七年とまだ歴史が浅く、アマチュアで数々のタイトルを手にした後プロへ転向し、日本フェザー級チャンピオンとなった中倉孝が会長を務めている。
 中倉はアマチュア時代に柳川大学ボクシング部で共に活躍した宮園とこのジムを立ち上げ、今では百名前後の練習生を抱えるまでとなっていた。
 プロボクサーが十八名おり、その中の一人である川上はスーパーライト級一位にランキングしていて、近々日本タイトルに挑戦する予定だ。
「遠藤奈緒か……」
 オープン前、会長である中倉自らがモップを手に、二階を掃除しながら、トレーナーである高口の話に耳を傾けていた。
「会長にも見せたかったですよ」
「でもなあ……本格的に育てるとして、親の了解は取れそうなのか?」
「そこは奈緒に訊いてみないと、わからないですね」
「メダルを狙えるほど、有望にも見えないがなあ」
 女子ボクシングが五輪正式種目になるのを踏まえ、中倉はいったらしかった。
「プロですよ、会長」と、高口は首を左右に振ってみせた。
「プロだとっ?」
 モップを動かす手を完全に止め、中倉は目を剥いた。
「テストを受けさせるのか?」
 そりゃあ難しいぞ、とたちまち眉間に深くシワを刻む。
「高校生だからな。アマチュアの大会で成績を挙げて、五輪代表にでもなったら、大学へ推薦で入れる道が開ける可能性もあるが……プロじゃなあ。親が絶対に許さないぞ」
「アイツのボクシングは殴られたら殴り返す、相手を叩きのめすボクシングです」
「おいおい、物騒な事いうな。俺はそういうのが一番嫌いだと、お前も知っているだろう」
 床にしゃがみ込んでトレーニング機器を拭いていた高口は立ち上がり、雑巾を乱暴にバケツへ放り投げた。
「世界、目指せますよ」
 会長の中倉へ向き直り、挑発めいた台詞を吐いた。
「知ってるでしょう? レベルの高い相手とスパーリングをやるのが、どれだけ怖いことか。ましてや意識が飛ぶほどのカウンターを喰らったんですよ? そこで普通、前に出れますか? 後ろへはじき飛ばされそうになった上半身を屈めてステップイン、ボディですよ」
 熱く語る高口の側へ行き中倉はバケツを持つと、「落ち着け」と、わずかに声を荒げた。
「俺が気になるのはだな」
「橋野ですか?」
 即座にいい返された中倉が苦笑いを浮かべ、雑巾でリングのロープを拭き始める。高口も代わりに受け取ったモップで床を磨きながら、話を続けた。
「ジム内の噂には疎いオレでも、多少は知ってますよ。でも、あれは勝手に橋野がいってるだけなんじゃないですか?」
 ううん、と中倉は低く唸った。
「どうなんだろうな。あいつの紹介で、このジムに入ったのは、間違いないんだがな」と、歯切れの悪い口調になって、いった。
「もう長いこと奈緒を見てますけど、橋野と連れ立ってジムに来た事なんか、一度もないですよ」
「奴が時間をずらしているだけだろう」
「何のために?」
「そりゃ自分の女に無様なところを見せたくないからさ」
「会長もわかってるじゃないですか」
「何をだ?」
「奈緒と比べたら、橋野なんて無様でしかないって事です」
 ため息を吐きながら、中倉はコーナーのターンバックルカバーに手をかけ、ポストへと寄りかかった。
「とにかく一番の問題は、始めた動機がなってないって事だ。橋野がボクシングを辞めてみろ。どんなに面倒見てやったところで、裏切られるのがオチだぞ」
 モップの柄を固く握り締める高口に、中倉は釘を刺した。
 高口がスタッフに加わったのは、五年前のことだ。
 元は違うジムに所属するプロボクサーだったが、六回戦で伸び悩み、中倉ジムへ移籍した。二戦続けて負けた後に引退し、ライセンスを取得すると、中倉ジムの専属トレーナーとなった。
 ボクサーとしての生涯戦績は三勝五敗二分と振るわなかったが、彼の教えを受けてリングに立ち、次々と勝利を重ねていった選手達の中から、中倉ジム初となる日本王者が出ようとしている。
「タイトルマッチまで、もう一ヶ月を切っている。オマエが一番気にかけてやるべきは川上で、遠藤じゃない」
 雑巾を入れたバケツと、高口から取り上げたモップを両手に持ち、中倉は二階のフロアを出て行った。
「会長、待って下さい」
 高口は三階へ向かう中倉を追いかけ、階段を上がった。
「川上の試合が終わったら、奈緒にスパーリングをさせます」
 肩越しに振り返った中倉が眉をひそめて何かいいたそうにするのを遮り、「オレは彼女を捨て置けません」と唇を引き結んだ。
「気をつけろよ」
 中倉は低い声を出した。
「オマエまで変な噂を立てられないようにな」
 高口はうなずき返し、再び階段を昇り始める会長の背中を黙って見送った。
(女っていうだけで、損な世界だな)
 苦々しく思いながら、練習フロアへ戻り、鏡の前に立つ。初めて奈緒を意識して見たのは、この場所だった。
(これからだ)
 JBCが女子ボクシングを認可した背景には、世界的な競技人口の増加がある。女性を積極的に受け入れるジムが増え、オリンピックの正式種目となることも決まった。
(アイツはまだスタートラインにさえ、立っていない)
 中倉ジムは出来たばかりで駅から近く、会員が増えればジムの経営安定に繋がることから、女性向けの設備も充実していた。
 狙い通り設立当初からフィットネス感覚で多くの女性が入会し、高口も抵抗なく指導してきたつもりだった。彼女達の多くは真面目で熱心なうえ、ともすれば殺伐となりがちなジムの雰囲気を和らげてくれるからだ。
 しかし、所詮は女だと、どこか冷めた気持ちで接していたのかもしれなかった。奈緒に全く関心を寄せることなく、ただ義務的に、ボクシングを教えていたような気がする。
 きっかけはふと耳にした陰口だった。階段の途中で練習を終えた女性達が二、三人集まり、話し込んでいた。高口がやって来ると道を空け、通してくれたが、少し離れて「遠藤さんって可愛げがないよね」というのを聞いた。
 二階の練習フロアへ行き、鏡の前でストレッチをしている女の子を見つけ、なるほど、と思った。名前も顔も知ってはいたが、確かに地味で大人しい子だった。月曜から金曜まで、部活感覚なのか、必ず学校帰りに姿を現し、一人で黙々と練習している。
 よくよく見ると化粧っ気のない顔に、愛らしい睫毛の長い大きな二重の目と、ふっくらとしたピンク色の唇が、バランス良く存在していた。高校生だというのに派手なところがなく、長い黒髪を後ろでまとめたその姿は清楚で、凛とした強さを醸し出している。
 美人だというのに、とにかく無愛想で、ふてくされているかのような印象さえ与えてしまう女の子だった。
 他の練習生やプロ選手に付き合っている合間、何となく気になって横目に様子をうかがっていたが、彼女のストレッチは長く、かなり本格的だった。
 シャドーを始めると、単調なジャブひとつとっても、良く考えて打っているのがわかる。腕を振り抜く速さ、ガードの姿勢、腰や膝の使い方、どれをとっても見本となるような、基本に忠実なフォームだった。
 覚えたてらしいコンビネーションを鏡の前で繰り返しながら、欠点を自覚し、修正しているのか、少しずつ動きを変えている。
 サンドバッグとパンチングボールを打ち、次にロープスキッピングと、息つく間もなくラウンド数を重ねていった彼女は、最後にクールダウンのストレッチまで行い、ようやく練習を終えた。
 基本的なジムワークでありながら、非常に中身の濃い、プロを目指す選手顔負けの内容だった。
 どんなスポーツでも同じだが、いわれたことしかやらない選手は絶対に伸びない。常に自分の頭で考え、実践することが大切だ。
 奈緒はまさに、人にいわれたことも、自分で考えたことも、忠実に実行するタイプだった。
 男も女も関係ない。高口はトレーナーとして、彼女から目が離せなくなった。
(アイツもこのジムに来て、もう一年だ)
 鏡の前で構え、空を切る音と共に、右手を突き出した。
 ボクシングは麻薬だと、多くの者が口にする。恐らく今この時も、彼女は学校で授業を受けながら、取り憑かれたようにランナ・コムウットとのスパーを思い返しているはずだ。
 ――― 遠藤奈緒。
 声には出さず、口の中でつぶやいた。
 パンチが顔面に入った刹那、彼女はランナ・コムウットを睨みつけ、豪快に前へ飛んだ。アッパーでチンを狙う動きを見て取ったコムウットはガードしている両腕を閉じ、顎を引くと、肩でパンチを受けようとした。奈緒はそれを逆手に取り、レバーを突いた。
 瞬きをするくらい、短い間のことだ。
(そろそろ気付かなきゃいけない)
 拳を引っ込め、高口は鏡から離れると、窓の外に目をやった。
 女だからと端(はな)から相手にしていない会長や他のトレーナー達にとっては、ただの目立たないボクシング好きな女の子なのだろう。けれども、マスやスパーを通じて奈緒とグローブを交わした練習生は、薄々感づいている。
 ガラスの向こう側に広がる晴れ渡った青い空を眺めながら、高口は歯噛みをした。
(奈緒、お前は選ばれた人間なんだ)
 ボクシングが出来なくなれば、平凡な群衆に紛れ、いずれ消え去ってしまう。あの明るく輝くリングの下に、彼女は一刻でも早く、立つ必要があった。
 プロの世界で全く歯が立たなかった高口だからこそ、人並み外れた才能を持つ者がただ埋もれていくのを見過ごせず、目的も無いままボクシングを続けている奈緒の不可解な強さに、強く惹かれていたのだった。