A SPOOKY GHOST 第五話 ハルイチ(2)

「春山! 遠藤! こっちだ、こっち」
 担任の植村が、職員室の隣にある、生徒指導室の前に立っていた。待ちかねていたのか手招きをされ、中へ入るよういわれた。
 そうして足を踏み入れた先には、見知らぬ教師がもう一人パイプ椅子に腰かけていて、「二人共、座って」と、奈緒とハルイチを促した。
 植村はストライプ柄のシャツにチノパンという軽装だったが、その教師は紺のスーツを着込み、ネクタイまでしていた。
「何で原センがいんの?」
 椅子を引き出して座ったハルイチが、開口一番にいった。
「原センじゃないだろう。原崎先生といわないか」
 狭い指導室を占領するように置かれた大きい机を挟み、原崎という教師と隣り合って座った植村は、ハルイチをたしなめた。
「ハイ……」
「まあ、まあ、いいじゃないですか」と、原崎がその場を取り成した。
 奈緒も椅子一脚分を空けてハルイチの横に腰を下ろし、彼らのやりとりを何となしに見守る。
「春山、ようやく学校へ来たな」
 原崎は年配の教師らしい穏やかな顔つきでいい、口の端を上げた。
「スンマセン。色々と心配かけて」
「もう五月も半ばだぞ。これ以上休んだら後がないと、よく自覚するんだ。いいな?」
 ハイ、と殊勝に答えるハルイチへ満足げにうなずいてみせた原崎は、奈緒に視線を移した。
「遠藤。どうして呼ばれたか、わかっているかな?」
 黙って頭を左右に振ると、植村が露骨に顔をしかめ、奈緒はうんざりした。
「春山はどう思う?」
 机を指先でとんとんと叩きながら、ハルイチへ質問を振る原崎は、どこか楽しんでいる風だった。
「ボクシングなんか、やってるからだろ」
 ハルイチはためらうことなく答えた。
「そう。植村先生は心配している。危険だし、女の子のやることではない。春山が学校へ来なくなったのも、ボクシングにかまけて勉強に身が入らなくなったからだと、誤解している」
「いや、私は誤解なんて」と、植村は慌てる素振りを見せた。
「誤解だと思いますよ、私は」
 間を置かずして原崎から返され、ムキになったようだ。
「若い女の子が顔に大きなアザをこさえてきたら、誰だって犯罪に巻き込まれたのでは、と真っ先に考えます。人騒がせもいいところですよ」
 身を乗り出さんばかりに植村がいい、原崎は首を傾げた。
「そんなにひどいアザかな」
「もう薄くなっていますが、ほんの数週間前までは、羽子板で負けて墨を塗られたようでした」
「羽子板ねえ」
 原崎は体全体を揺すって笑った。
「笑い事ではありません! 一年生の時も遠藤は頻繁にアザを作って登校し、当時の担任は家庭内での虐待まで疑ったんですよ」
「ああ、工藤先生ね。彼から報告を受けましたよ。親御さんに電話をして尋ねたところ、テニススクールに通っているせいだとか何とか、いわれたらしいが」
 奈緒は奥歯を噛み締め、膝の上に置いていた手を強く握り締めた。親はいつもコソコソと影で学校と話をし、何があったのか、娘に全く伝えようとしない。
 憎しみにも似た感情が胸の奥で沸き上がり、落ち着かなかった。両親には関係のないことだ、と口を開きかけ、ハルイチの声が重なった。
「奈緒は先月、世界ランカーとスパーをやった。相手はタイのボクサーで、日本人の世界チャンピオンとタイトルマッチをするために来日してたんだ。調整役とはいかないまでも、胸を借りたってコトになるかな」
 ほお、と原崎が目を輝かせ、「それで?」と話の続きをせがみ、奈緒も唖然としたままハルイチの横顔に見入った。
「同行したトレーナーの話じゃ、相手選手はヘッドギアなしのスパーを希望した。プロデビューもしてない格下だって、鼻っから見下してたんだろうな」
「そうだと思うぞ。世界戦を控えたプロ選手が無名のアマ選手の相手をするなんて、普通なら考えられないことだからな」
 原崎がすかさず言葉を挟み、会話は段々と熱を帯びてくる。
「もっと信じらんねえのが奈緒のヤツ、そんなら自分もって、ヘッドギアを着けなかったんだ」
 本当か? と驚きも露わに原崎から訊かれ、奈緒は渋々とうなずいた。
「とりあえず二ラウンドと決めてスパー始めたら、いきなり打ち合いとなったらしい。きっと本気にさせちまったんだな。相手選手は思いっきり右ストレートを、奈緒の顔面にぶち込んだ」
「ははあ。それがアザの原因だな」
「スゲエのは、その先だよ。コイツはお返しにボディーブローを決めたんだってさ。あばらがいったんじゃねえかって、トレーナーもマジで焦ったくらい、見事だったらしい」
「で? 勝敗は?」
「練習でやるスパーに勝敗なんてねえよ。まあ、ドローなんじゃね? 話の雰囲気からするとさ」
「そりゃあ、大したもんだなあ」
 ハルイチと原崎が熱心に話し込んでいる間、植村は渋面を作ったまま両腕を組み、ひと言もしゃべらなかった。
「もっとスゲエのが、そのスパーから八日後の世界戦。奈緒とやった挑戦者が見事チャンピオンを破って、女子ミニマム級の世界王者になっちまった」
 女子の試合にしては珍しく、一部マスコミではこの世界戦をかなり大きく取り上げていた。ランナ・コムウットが大変な美人であることに加え、波乱の過去を生きてきたことも関係していたらしい。要するにチャンピオンであったはずの日本人よりも、挑戦者であるランナに注目が集まっていたということだ。
「そんでもって試合後に、新チャンピオンは、いったんだよ」
 ハルイチは、そんな新聞の記事を読んだのだろう。もちろん奈緒も、高口トレーナーから渡されたスポーツ紙に目を通し、知っていた。
 ――― ナオ・エンドーと決着をつけるまで、このタイトルは誰にも渡さない。
 通訳を介してのコメントだったが、名指しで挑戦状を叩き付けられたことに、間違いはなかった。彼女の容姿や生い立ちなど、奈緒のあずかり知らぬところではあったが、自分の名を口にされては、無視する訳にもいかない。
「ライバルは世界王者。ぜってえ、有り得ねえよ」
 ハルイチは椅子の背もたれへ寄りかかり、遥か遠くの高みを仰ぐように天井を見ながら、ニッコリと笑った。
「この間、中倉会長に会ったばかりだよ。彼も人が悪いなあ。遠藤はウチの生徒なのに、その事について何もいわないんだから」
「原センにはいえねえと思うよ。出稽古先のニシノスポーツクラブから口止めされてんだ。ウチのトレーナーの高口さんと同じジム出身だっていう西野会長の好意で、特別に許されたスパーだったからさ。奈緒は素人だろ? 非公開でひっそりと、隠れてやるっつう条件だったらしいよ」
「じゃあマスコミも、チャンピオンのいったナオ・エンドーが何者か、わかってないのか!」
「だろうね。ほとんどのボクシング関係者もハア? って感じだと思うよ」
 とあるスポーツ紙には、アメリカ在住の女子ボクサーで天才ともいえる逸材らしいと、適当な憶測まで書かれていた。
(それにしたって……)
 原崎という教師は、会長の顔見知りらしかった。ハルイチにしても、奈緒でさえ知らされていなかった、ランナとスパーをするに到った経緯やその後の細かいことを、知りすぎるほどに知っている。
(この人達、何なんだろう)
 そう思ったのは、奈緒だけではなかった。
「遠藤が大変な才能の持ち主であることは、わかった。でも、所詮は女だろう? 男には、どうあったって勝てないんだぞ?」
 いつまでもボクシングの話に熱中しているハルイチと原崎を前にして、植村の我慢も限界に達したらしい。
「春山もボクシングについて話す時だけは、口が滑らかなようだな。本来なら就職や進学に向けて、とっくに準備を始めているはずなんだぞ。留年なんかして、親に申し訳ないと思わないのか」
 よほど腹に据えかねたのか遠慮なしにわめき出す植村を、原崎がなだめた。
「春山については、勘弁してやって下さい。色々と事情があってのことです。これからは決して休まず、真面目に高校生活を送ると、すでに約束しました」
 なあ春山、と馬鹿でかい声でいわれ、「はい」とハルイチも素直に返事をした。
「女の子がボクシングをすることについてはだね、様々な意見があると思うが……どうだ、遠藤。いいたいことはあるか?」
 原崎に顔をのぞき込まれ、「男の人に勝とうと思ったことはありません」と、奈緒はおずおずと口を開いた。
「ボクシングをしている女の人は少なくて、自分と同じウエイトの人は、もっと少ないと思います」
 ハルイチにまでジッと見つめられ、顔が熱くなる。
「でも世界の半分は女です。ボクシングを始める女の人は、まだまだ増えると思うし、レベルもきっと、高くなっていくと思います。その中で一番になれるんなら、嬉しいけど……」
 好きでやってるだけだから関係ありません、と消え入るような声で付け足し、押し黙った。
 植村先生、と原崎はテーブルの上で両手を組み、しみじみと語りかけた。
「本当はこいつ等を応援したいんでしょう? でなきゃ、ボクシング部の顧問だった私を、わざわざ同席させる意味がない」
「私は何か問題が起こってからでは遅いといいたいんです。話を聞いていると、インターハイや国体を目指しているんじゃない。彼らはプロになりたいんじゃないですか?」
「公立高校に在籍している生徒でプロボクサーになった者も、普通にいますよ。アマチュアで頑張りたいと思うのも、プロになって頑張りたいと思うのも、そりゃあ本人の自由でしょう」
「原崎先生の指導の下、部活としてやれないか、と提案したいんです」
「そりゃあ、無理ですね。年齢的にも体力的にも、私じゃ力になれませんよ。それに入部希望者なんていません。ボクシング部はね、どこの公立高校も廃部が相次いでいて、じり貧なんですわ。ウチの高校も、おととし入部した春山を最後に、人っ子ひとり部員を集められなくて、終わりにしたんです。私学の生徒を除けば、国体やインハイに出場している選手の多くが、在籍している学校の名前を背負ってはいても、ジム所属の選手ですよ」
 がしがしと原崎が苛立たしげに頭を掻き、「そうですか」と植村も答えるしかなかったのだろう。話し合いも、ひとまず決着がついたとしかいいようがなかった。