A SPOOKY GHOST 第三十八話 東洋太平洋タイトルマッチ

 リングアナウンサーが選手の入場を告げ、後楽園ホールに荘厳な弦楽器の音色が響き渡る。
 いったん静かとなり、やがてうねりを打って音楽が大きくなるのに合わせ、奈緒は姿を現した。
 背中に"Nao, a spooky ghost, Endo at Ten-show"と白い文字が入った、黒いベルベットの重厚なローブを羽織っていた。フードを目深に被り、ゆっくりと歩く重々しい足取りが、えもいわれぬ雰囲気を醸し出している。
「この曲、何でしたっけ。有名ですよね」
 南側最後列の立ち見席でハルイチが首を傾げ、「ベートーベンの交響曲第五番、運命」と、隣に立つ高口が答えた。
「運命は扉を叩く、だな」
「川上さん、何ですか? ソレ」
「あー? 最初にダダダダーンって、音がすんだろ? それは何だって弟子が訊いたら、運命はそんな風に扉を叩くんだって、ベートーベンがいったんだってよ」
「すげえ。何でそんなコト知ってんの?」
「音楽の教師が授業中にいってたのを、なぜだか覚えてんだ」
「ふうん。運命は扉を叩く、か……そんなのを入場曲にするなんて奈緒のヤツ、カッコ良すぎるだろ」
 高口を挟み、ハルイチと川上が笑ってうなずき合う間、東洋太平洋女子ミニフライ級チャンピオンのグレイス・ボホール・レイエスもリングへ上がり、赤コーナーで奈緒と対峙する。
「チャンピオンは見事な体をしているな」と、高口は感心していった。
 極彩色の蝶が背中で舞う、淡い紫にも似た美しいサテン地のガウンを脱いだレイエスの腕は太く、腹も見事に割れていた。大きな目と厚い唇が印象的な顔は幼女のようにあどけないが、薄紫色のトランクスから突き出た両足はどっしりとして安定感があり、遠目には男と見間違えかねなかった。
「奈緒は相変わらず、細っちいなあ」
 アレがまた曲者なんだけどさ、とため息混じりにいうハルイチの声は硬かった。赤コーナー側のセコンドによって高々と掲げられたベルトを見て、これはタイトルマッチなのだと否が応でも意識してしまい、我が事のように緊張しているのだろう。
(惚れた弱みもあるんだろうが……)
 ハルイチの横顔を見ながら高口は苦笑いをし、次いでリング上の奈緒に視線を移した。セコンドではなく観客の一人として彼女を見るのは、今日が初めてだ。
 緋色のハーフトップと、裾に朱いフリンジの付いた黒い巻きスカートの下に、やはり緋色のパンツがのぞいて見える、凝ったデザインのトランクスを合わせていた。
「華やか過ぎて、まるで別人だ」
 川上が小声でいい、「名門ジムの、売れっ子ボクサーだからな」と感慨を込めて発した高口の言葉は、大歓声によってかき消された。赤コーナーのチャンピオンがリングアナによって紹介され、青コーナーに立つ奈緒の番となり、『スプーキーゴースト、エンドーッ、ナーオォ!』とお決まりのコールが叫ばれた途端、会場中の女性達が黄色い声を一斉に上げたからだ。
「すっげえ……」
 ハルイチが目を丸くし、川上が、「そういや、やけに女が多いな」と、観客席を見回した。
「実は佐智子も来たがってたんだ、今日の試合」
「川上さんの奥さんも? マジで? 彼女、ボクシングなんか興味ないっつうてたけど」
「俺もよく分からねえんだけど、あいつが毎月買っているファッション雑誌に、よく奈緒が載ってるらしくてよ。大ファンなんだと」
「フォションっていう、若い女の子向けの雑誌じゃね? 奈緒が取り上げられるたんびに、女の練習生達が、ジムで騒ぐんだ。憧れのファッションリーダーなんだってさ」
 へええ、と川上が大仰に驚き、ハルイチは吹き出しながら、「ところで花蓮(かれん)ちゃん、大きくなりました?」と、訊いた。
「もう六ヶ月になるんだけどな、寝返りするようになったんだ。気が付けばあっちこっち変な所にいて、びっくりさせられる」
 父親らしい顔つきとなって話す川上に釣られ、高口も頬を緩めた。
 再度の怪我に見舞われただけでなく、当時付き合っていた佐智子の妊娠が分かり、確固とした収入を得るため、ボクサーとしてのキャリアを諦めた川上だったが、こうして相変わらず試合に通っては、ハルイチと一緒に奈緒を見守り続けている。
(未だ取り憑かれ、惹かれ続けているということか)
 奈緒が天翔へ移籍してから、再来月で丸二年が経とうとしていた。それでも高口は、無愛想で無口な女の子が鏡の前で黙々と体を動かし、完璧なフォームで拳を繰り出していたことを、まるで昨日のことの様に覚えている。
(やはりオマエは、選ばれた人間だったんだ)
 そんな彼女はリングの中央へ向かい、全身にスポットライトを浴びながら、深々とお辞儀をしていた。
 嘘だろ、とつぶやき、ハルイチに笑われた。
「高口さん。アイツ最近の試合、いっつもあんなですよ」
 やがて大きな歓声と拍手が沸き起こり、場内が異様な熱気に包まれる中、カァンという鐘の音を合図に、チャンピオンのレイエスと挑戦者の奈緒がリング中央へ歩み寄り、グローブを合わす。
「驚いた。以前の奈緒だったら有り得ないな」
 どんなに会長がいい聞かせても、観客へ頭を下げたり、対戦相手と挨拶を交わしたりすることを、彼女は頑なに拒否していた。
 何があったんだ、と高口が口にし、ハルイチはリングサイドを指差した。
「多分、アレ」
 言葉少なに彼がいい、高口も納得がいった。
 リングサイドの席には、派手な身なりの有名人とおぼしき人影がちらほらと見える。ジム関係者も普段よりも多めに詰めかけていて、連続防衛記録を九と伸ばし続けているミニマム級世界王者の姿は、特に目立った。
「安森誠か……」
「付き合ってるっつう噂はともかく、あの人は雰囲気がどことなく奈緒に似ててさ」
 自然とハルイチの表情が険しくなり、茶化すことなく横で川上も、「応援団を引き連れることはねえが、自然とファンを集めるあたり、確かに奈緒と似ているかもな」と、うなずいた。
「オレ、授賞式で安森さんと顔を合わせたことあるんだけど、体は小せえのに、なんか圧倒されたんだ」
 ハルイチは一昨年の六月、ライトフライ級六回戦で豪快な五回TKO勝ちを収め、月間新鋭賞を受賞している。その際、四度目の世界王座防衛を果たしたばかりの安森も最優秀選手に選ばれ、共に表彰されていた。
 軽快にステップを踏んで一気に攻め込むレイエスとは正反対に、防御を固め、パンチを避けながらじりじりと動くリング上の奈緒を見ながら、高口はハルイチの話に耳を澄ます。
「すっげえ無口で、周囲と全く話をしようとしねえんだけど、会場の外でファンから声をかけられた時だけは、まるで別人みてえに笑顔で写真撮影に応じててさ。プロボクサーの鏡だと思ったんだ」
「なるほどな。安森はリング上では礼儀正しいし、いつもクリーンファイトで、これ以上無い位に強い。奈緒が影響を受けるに相応しい、十分な実力のあるボクサーだ」
 高口の言葉にハルイチがぎこちなく首を縦に振ったところで、奈緒はレイエスの懐に入ったかと思うと、ボディーへパンチをまとめる。たまらず相手がクリンチへ持ち込んでも、決して手を止めず、試合を見守る観衆からは歓声が上がった。
「戦い方まで似てやがる」
 川上のいった通りだと、高口もうなずかざるを得なかった。
「あのボディーへの早い連打は、確かに安森のファイタースタイルを真似ているようにも見えるな」
「アレは徐々に効いてくるんだよなあ」と、自らの経験と照らし合わせ、ハルイチは感嘆をも含んだ声を出した。
 レフェリーが絡み合う二人を別(わか)ち、再び打ち合いを促すと、距離を取ろうとするレイエスを、奈緒は巧みなステップワークとフェイントを交えたジャブで、ロープ際へ追い詰める。
 上手い、と川上が口にした瞬間、レイエスはフックを出し、奈緒が肩で防いだのに合わせ、左方向へ逃げようとした。けれども奈緒はそれを見逃さず、強引に踏み込み、ダッキングから左アッパーを突き出した。
 悲鳴にも似たどよめきが起こり、顎を打ち抜かれたレイエスが、仰向けにキャンバスへとひっくり返る。
 高口は素早く電光掲示板に視線を走らせた。一ラウンド終了まで残り十秒を切っていたが、レフェリーはカウントすることなく試合を止め、ゴングが鳴らされた。無敗のままプロ九戦目にして、奈緒は東洋太平洋王座を奪取し、とうとう王者となったのだ。
 興奮渦巻くリングの上で、ニュートラルコーナーに下がっていた彼女は、何の表情もその顔に浮かべることなく、仁王立ちしたままだった。セコンドが慌てて青コーナーへ連れ戻し、タオルで顔が拭われ、マウスピースも外された奈緒は、口に水を含んだ。
 ――東洋太平洋女子ミニフライ級タイトルマッチ十ラウンド、レフェリーがストップしたタイムは一ラウンド二分五十一秒。
 リングアナウンサーが浪々と試合結果を読み上げる。
 漏斗へ水を吐き出し、もう一度うがいを終えてから、奈緒はゆっくりとレフェリーに歩み寄った。
 ――テクニカルノックアウトによって勝者、OPBF東洋太平洋ミニフライ級新チャンピオン、エンドーッ、ナーオー!
 レフェリーは彼女の手首をつかみ、その右腕を高々と掲げると、割れるような拍手と歓喜の声が会場を埋め尽くした。
「前に病院で会った時、アイツにスポーツで成功できる素質なんか無いって、奈緒のオヤジさんはいったんだ」
 華々しい勝者の証しであるベルトが巻かれ、リングサイドのカメラマンを相手にファイティングポーズを決める奈緒を遠く眺めながら、ハルイチは合点がいかないといった口ぶりだった。
「娘のコト、まるでわかってねえよな。計画通りってな感じで、こうも呆気なく東洋太平洋チャンピオンになっちまう。どう考えたって、成功してるだろ」
「天才っちゃあ、天才だな。女子が公認されてからしか試合経験のないA級ボクサーなんて、女じゃ奈緒ぐれえだし」
 でもな、と川上は続け、苦々しく笑う。
「娘が殴り合うのは気分悪いだろうし、勝ってもあんなんじゃ、素直に喜べねえ親の気持ちも分かる」
 JBCから認定証も贈られ、観客の賞賛を独り占めしているはずの彼女に、笑顔は無かった。遠目から見てもはっきりと分かるほどむすっとしていて、対戦者やそのセコンド達と抱き合い、拳闘を称え合っている間でさえ、仏頂面のままだ。
 高口は胸の前で両腕を組み、思わず笑い出した。
「それをいうな、川上。あれが奈緒の個性で、それを受け入れてやるのが、親の務めでもあるんだ」
「そりゃあ、まあ、そうでしょうが」と不満顔の彼へ、「オマエのいいたいところは、分かる。奈緒も本来なら、もっと親に感謝すべきなんだ。怪我とは無縁な柔らかくて、力を発揮すべき時にだけ固く引き締まる筋肉は、間違いなく両親が娘に与えた、最高の贈り物なんだからな」と告げ、長い息を吐いた。
「要は天性のアスリートである奈緒が、それを使って幸せになれるかどうか……そこを父親は心配しているんだろう」
 高口達は揃って口を噤(つぐ)み、前を見た。
 四方の観客席へ律儀に頭を下げてリングを下りた奈緒は、未だ興奮冷めやらぬ観衆を捨て置き、静かに花道を引き返して行く。彼女が裏へ引っ込むと、帰り支度を始め、そそくさと会場を後にする人々の姿が目立った。