A SPOOKY GHOST 第三十七話 秘め事(2)

 奈緒は黙ったまま後ろから手を伸ばし、派手な花柄の長袖チュニックをクローゼットから取り出そうとして、高橋に止められた。
「今日は、ウチのジムが出すフィットネスDVDのプレスリリースや広告用の撮影だから、なるべく露出の高い服にして」
「私服なんですか?」
「メイクさんやスタイリストさんを呼ぶような仕事じゃないの。あ、こっちがいいわ」
 黒のオーバーキャミソールを指さし、「タンクトップとストールを合わせましょう」と、彼女はクローゼットから次々と目当ての服を探し出す。
 いかつい肩や腕が目立たないようにと、ふんわりと膨らんだデザインの服を、いつもは着させられる。上半身さえ出さなければ、華奢で細く見え、カメラ映えするからだ。今日は逆に、引き締まった筋肉質な体を披露しろということらしい。
「だったら……タンクトップとトランクスがいいな」
「あなたはDVDに出演してないんだから、そんな紛らわしい格好は駄目よ」
 減量で苦しんでいる奈緒が、痩せられますよ! と宣伝すること自体、皮肉でしかない。内心不満に思いながらも、奈緒はいわれた通り、高橋の選んだ服に腕を通した。
「あーあ、床にも雑誌を広げたまんま」
 呆れたようにいい、奈緒の足下にしゃがみ込んだ高橋は、「あ、鈴木選手が載ってる」と、急に嬉しそうな声を出した。
「……有名、なんですか?」
 鏡の前でストールを首に巻き、具合を確かめながら、奈緒は訊いた。
「知ってるも何も、おととし甲子園で準優勝した、洋向台高校の四番打者だった選手よ。ドラフト一位で入団して、今年は新人賞まで獲る大活躍だったんだから」
 そうなんですか、と素っ気なく返事をし、髪に巻いたままのカーラーを外し始める。
「あまり世間に疎いのも良くないわよ。テレビぐらい買ってニュースをチェックするなり、新聞を取って読むなりしたら?」
「はい……ただ、彼のことはちょっと知ってるんです」
 ホントに? とブラシで髪型を整える奈緒を仰ぎ、高橋は目を見開いた。
「小学生の時、近所に住んでて……中学へ上がる前に引っ越しちゃったから、もう顔も良く覚えていないんですけど」
「へえ、そうだったの。彼、めちゃくちゃ格好いいわよね」
 弾んだ調子でいい、彼女は手早く雑誌を閉じると部屋の中央にある白いローテーブルの上に重ね、床に転がる化粧品までも綺麗に並べ直した。
「うん。アップにするより、下ろした方が可愛いかな」
 ヘアースプレーを使って仕上げをする奈緒に寄り添い、にっこりと笑う高橋が、鏡を通して見えた。
 ねえ、と彼女は奈緒の腕をつかんだ。
「三日前、あなた外泊したでしょう」
 姿見の向こう側で、高橋は普段と変わらない笑顔のままだ。そんな彼女を見ていて、奈緒は小学校、中学校、そして高校の頃を思い出した。
 図工の授業で先生が各班ごとに接着剤やテープを配り、みんなで使うよういっても、それを独り占めし、奈緒が手を伸ばすと「今使ってるから」と貸してくれず、他の子には「いいよ」と手渡す。
 家庭科の実習で、ずっとおしゃべりに熱中し、「ごめんね」といかにも申し訳なさそうにいい、奈緒一人に料理を作らせる。
 修学旅行では、早々と布団へ潜り込んだ奈緒を無理矢理起こし、「せっかくだから話をしようよ」といったはずが、ひと言も奈緒にしゃべらせないばかりか、話しかけようともしない。
 いつだって明るく無邪気な彼女達が、時折狙いすましたように大人しく地味な生徒を振り回し、密かに楽しんでいたことを、奈緒は嫌というほど知っている。
「外泊のこと、まだ先代には話していないの。お願いだから、誰と一緒にいたのか、正直に打ち明けてくれる?」
 そういって微笑む高橋だが、ジムのトレーナーや練習生達と年中一緒に遊び歩く一方、プライベートな集まりに奈緒を誘うことは、一切無い。
 誰かが気を遣い、奈緒に声をかけようものなら、先代のお気に入りだから何かあってはいけないと、いつもの親切で気さくな態度を一変させ、決して仲間に入れようとしなかった。
 群れを成して行動するのが苦手な奈緒は、誘われても断るに決まっている。けれども爪弾きにされ、可哀相にね、と同情の言葉まで吐かれると、かつての級友達と同じく、高橋を警戒せずにはいられなかった。
「ニュージーランドへ行く前、減量が思うようにいかないから乳房を切り落としたいって、物騒な事をいっていたわね。段々と丸みを帯びた、大人の女性らしい体型になっていく自分に、気が付いていたんでしょう?」
 口を固く引き結び、一切答えようとしない奈緒へ、なおも高橋は問いかけた。
「あなたは家族とも会おうとしないし、誰とも親しくしようとしないじゃない。そんなあなたが、一体どこに泊まったっていうの?」
 しまいには心配そうな顔つきとまでなった彼女が、それでもわずかに口の端を上げ、奈緒を不快にさせる。
 つい、高橋は何もかも知っているんじゃないかと、思った矢先のことだ。
「もう一年も前のことだけど、去年の十二月、横浜アリーナで開催されたダブルタイトルマッチに招待されたでしょ?」と、彼女が切り出し、奈緒は顔を強ばらせた。
「セミファイナルだった吉山対コムウットのカードを観戦後、解説で来ていた安森選手と顔を合わせて、ずいぶんと親しげに話をしていたわね? 聞くところによると、それより一ヶ月前、吉山選手のスパーリングパートナーを務めた帰り、彼と食事をしたらしいし」
「誤解です」と即座にいい返した。
「福原ジムに行って以来、何度か安森さんには会っています。でも、特に深い意味はありません」
「嘘は駄目よ」
 奈緒の腕をより一層きつく握り締め、高橋は首を左右に振った。
「彼はね、看板を背負(しょ)っていた男なの。後援会を作らないのも、大々的にスポンサーを募らないのも、裏社会と再び繋がるのを恐れているからよ。彼がプロになる時、JBCはライセンスを発行するか、どうか、相当揉めたらしいわ。背中の入れ墨を消し、組織を出たという除籍通知状まで用意した彼の熱意を認め、ようやく許可したっていうのが、正直なところよ。でもね、誰も表だってはいわないけれど、彼には黒い噂が絶えないの。世界王者でなければ、とっくにライセンスを取り消されていたと思うわ」
 居心地が悪くなり、奈緒はため息を吐(つ)く。
 高橋は十も年上だが、その歳に相応しい分別のある人間で、身なりからしても、ごく普通の女性だ。一般の人間には馴染みのない、看板を背負っているだの、除籍通知状だのといった言い回しを使ったところで無理があり、誰かに吹き込まれたとしか思えなかった。
「彼は冷めた男なの。付き合って傷付くのはあなたよ」と高橋がいい、奈緒はたまらず吹き出した。
 ――彼は冷めた男だ。
 金本老人が以前いったことをそのまま口にされては、身も蓋もない。
「ちょっと、何がおかしいの?」
 高橋の指から力が抜けたのを機に、奈緒は彼女から離れ、壁に寄りかかった。
「先代は……何もかも知っているんですね」
 笑うのをやめ、奈緒は無意識のうちに、高橋を睨み付けていた。
(彼女を使って、あたしに揺さぶりをかけるなんて)
 金本老人は、安森が一人の女性に深入りするような男ではないと、知っている。そうでなければ、奈緒がどう反応するのか、楽しんでいるのだ。密かに携帯をチェックされていたのかもしれず、体型の変化を指摘されたうえ、安森の部屋へ出入りしていることも知られたからには、もう安穏としていられない。
「わかりました」
 もう彼には会いません、といい、奈緒は奥歯を噛み締めた。
 部屋に妙な空気が流れ、洗濯機のブザーが不自然なほど大きく鳴り響く。
「洗濯物を干さなきゃね」
 高橋は呆気なく普段の明るい彼女に戻り、いそいそと部屋を出て行ったかと思うと、壁に寄りかかったまま姿見に映る自分と見つめ合う奈緒の前を、すぐまた洗濯物の入ったバスケットを抱え、通り過ぎた。
 ベランダへ続く窓が開け放たれ、冬の冷たい風がすうと部屋に入り込む。
 奈緒も無言のまま壁を離れ、キャミソール姿でベランダへ出ると、寒さに体を震わせながら、バスケットからバンデージを取り出した。手早く衣類を干し、高橋が部屋へ戻った後も、一人でそれを引っ張っては丹念にシワを伸ばし、ピンチハンガーへ吊り下げる。
 ベランダからは、ローテーブルに肘を突き、リラックスした様子で携帯をいじる高橋が、ガラス越しに見えた。
(彼女だって、結局は何もわかっていない……)
 一年以上前に福原ジムで吉山とスパーした後、奈緒は路上で倒れ、安森の顔見知りである脳神経外科医がいる病院へと、タクシーで運び込まれた。
 すぐにCTが撮られ、検査も行われたが何の異常もなく、疲労によるものと診断された。意識を取り戻した奈緒はその夜、入院することなく病院を出たが、安森の部屋で一晩を過ごした。
 それから後も、酷い頭痛がしたり、手が震えたり、舌が回らなくなることがある。そんな時、再び意識を失うことを恐れ、奈緒は安森の元へ行く。
「終わった?」
 奈緒がバンデージを干し終え、部屋に入ると、高橋は小首を傾げ、可愛らしく笑った。
 丸の内でOLをしていたという彼女は、選手マネージャーを募集する天翔ジムの求人に応募し、採用されたと聞いている。華やかなマスコミの世界に憧れ、有名人に接することを何よりの喜びとしており、ボクシングのことなど何ひとつ知らない。
 脳天気に男の存在を嗅ぎ当てて、金本老人へ報告し、奈緒には別れろと忠告する。そうやって何でも簡単に片付けてしまい、ボクサーの不安や苦悩に、考えも及ばないのが当たり前なのだ。
「行きましょうか」
 奈緒は無表情に告げ、クローゼットから白いドーリ―コートを出すと、両手に抱えた。
 どのみち天翔ジムの人間に、体の不調を打ち明けるつもりはなかった。親身になってくれるはずもなく、下手をすれば、ジムをお払い箱となってしまうからだ。
(口が裂けても、いえない)
 奈緒はボクシング歴が浅く、アマチュアの経験も無いままプロとなり、未だ八戦しか経験していないが、ディフェンスの名手とされ、いずれは当然のように世界戦をやるのだと、期待されている。
(そんなあたしが……)
 気の遠くなるような試合数をこなした訳でも無く、防御そっちのけで打ち合い、脳にダメージを負うようなボクシングスタイルからも程遠い。そんな彼女が、パンチドランカーにも似た症状に見舞われるなど、あってはならないことだった。
 そういえば、と高橋はすっくと立ち上がり、「会長が昨夜、アメリカから帰国したの」と、奈緒の顔を見た。
「遠藤さんの世界タイトル挑戦が、決まったみたい」
「えっ……」
 絶句して直立不動のまま身動きの出来ない奈緒へ、「どうしたの?」と、訊き返してくる高橋が信じられなかった。
 ――来た。とうとう、来た。
 思わず大声で叫び出しそうになり、「別に、何でも……」と奈緒は答え、「そう、良かった」と、ホッとしたように息を吐く高橋を、殴り倒したい衝動に駆られた。
「相手の王者は……誰なんですか?」
 どうにか平静を装い尋ねたが、声は掠れ、頭がクラクラする。
「うーん、コンウッド? コムフット? とにかく、そんな名前よ」
 詳しくは撮影の後ね、と微笑む高橋へ、奈緒もぎこちなく笑い返した。
 二人は荷物をまとめ、部屋を後にすると、高橋の運転する車でジムへ向かった。
 奈緒は助手席のシートに深く身を沈め、課題を次々に思い浮かべる。専属トレーナーを付けてもらえるよう交渉しなくてはいけないし、ボクシング以外の芸能人めいた活動のこれからも、金本老人や会長と相談する必要があった。
 胸が高鳴り、落ち着かない彼女の隣で、「いい天気ね」と高橋はいい、ハンドルを切る。
 スピードをほとんど落とさない乱暴な運転のせいで、体が傾き、晴れ渡った冬空の下を歩く人々が視界に入った。毎朝のように繰り返される通勤通学の光景だが、そこに広がっているのは、どうしても奈緒の入って行けない世界だ。
 彼女はそっとまぶたを閉じ、ジムに着くまで寝たふりをしたまま、もう二度と外を見ようとはしなかった。