A SPOOKY GHOST 第三十六話 秘め事

 部屋でストレッチを済ませ、ロングスリーブシャツとロングタイツを着込んだ上にウィンドブレーカーを羽織ると、身も凍るような寒さの中を、まだ暗い内から奈緒は走り始める。
 トレーナーを務めていたベスルコフは招聘期間を終え、一週間前にロシアへ帰国していた。
 中倉ジム在籍時から科学的根拠がしっかりとしたトレーニングを優先してきた奈緒からすると、アマチュアのゴールドメダリストを幾人も育てた経験のある彼は、渡りに船の存在だった。
 闇雲に負荷の高いトレーニングをし続けるのではなく、体調によってメニューを変えるよう指導され、他に食事の回数や内容、自己コントロールについても教わった。
 そんな彼の教えに従い、今日は坂道ダッシュがメインと決めている。週に二度だけ行うこのトレーニングは、心肺機能を強化するだけでなく、自らの限界を越えようとする、意志の強さが求められる。
 ベスルコフがいなくなった今、頼りになるのは自分だけだ。どんなにハードでも、決して手抜きはしないと心に誓った。
 マンションの部屋を出て白い息を吐きながら、まだ眠りの途中にある早朝の街中をゆっくりと流し、高台の住宅地へと続く坂道に向かった。
 人通りがほとんどないその坂を、街灯の明かりを頼りに、全力疾走で登り切る。傾斜が緩く、長くもなく短くもない距離だが、心拍数や呼吸をチェックしつつ、絶対にペースを落とすまいと、顔をくしゃくしゃにして何度も往復した。
 やがて景色が朝日を浴びて薄く色付くと、往来する人や車も増えてくる。意外そうに振り返る者もごく稀にいて、トレーニングを打ち切る刻限と見て取った奈緒は、ギブアップじゃないと自分にいい聞かせ、重い体を引きずるように部屋へと引き返した。
 オートロックのマンション入り口を通り過ぎ、最上階まで上がった五階の一番端が、寮としてジムが借り上げている奈緒の部屋だ。
 玄関を入ると、洗濯機と小さなシステムキッチンがあり、トイレと風呂場も別々にある。奥のドアを開ければ、大きな壁面クローゼットのある六帖間が広がっていて、一人で暮らすには申し分のない広さだ。
 彼女は部屋へ戻ると汗を拭い、念入りに仕上げのストレッチをした。
 こうして朝のロードワークを終える頃には、外も完全に明るくなっている。電気を消し、カーテンを開けると、窓の脇に放られ、山となった洗濯物の中から着替えを引っ張り出し、風呂場へ向かった。
 シャワーを浴びながら、膝が震えた。筋肉を酷使したためで、この状態でジムワークをすると、連日は行えないトレーニングであっても、無酸素系の持久力が効率的に向上する。
「でも、今日の午前中は何かの撮影だっけ……」
 奈緒は独り言をつぶやき、どうせジムに行ってもミット打ちに付き合ってくれるトレーナーはいないのだと、途方に暮れた。
 金本老人の差し金もあったのだろうが、ベスルコフは天翔ジムで世界ランカーを担当する傍ら、奈緒の指導にも熱心だった。必ずミットを持って相手をするだけでなく、彼女の考えを何よりも尊重し、優先していた。
 課題を決めてコンビネーションを試すという、中倉ジムにいた時から奈緒が心がけていたスパーにも共感し、パートナーを務める男子や他ジムの選手達が彼女の望む動きをするよう、彼らを上手く説得してくれた。
 ベスルコフのような物分かりの良いトレーナーを失った奈緒は、天翔ジムでたった一人の女子プロボクサーということもあり、希望するトレーニングを行うことすら難しくなっている。ミット打ちもままならないばかりか、マスやスパーの相手さえ見つからない。
 泣きそう、と再び独り言をいい、シャワー中だったら涙も目立たないと考え、口元から笑いが漏れた。
 泣いたところで、いったい誰がそれを見るというのだろう。
 奈緒は長く息を吐くと、湯を止め、浴室を出た。途端に寒さで体に震えが走り、急ぎ暖房の電源を入れる。
 バスタオルで体を丹念に拭き、トレーナーとハーフパンツに着替えた彼女は、ピーマンやキュウリ、にんじんを冷蔵庫から取り出して流しですすぎ、生のまま齧り付いた。そしてバナナとヨーグルトをミキサーですり潰し、一息に飲み干す。
 味など二の次の、食器さえ使わない乱暴な朝食を済ませると、壁に立てかけてある大きな姿見の前で座り込み、ドライヤーで頭を乾かした。
 カーラーで髪を巻き始め、何気なく目をやった先に、床へ放りっぱなしだったスポーツ情報誌があった。マネージャーの高橋から昨日、手渡されたものだ。
 奈緒はそっと腕を伸ばし、それを手にすると、ページをぱらぱらとめくった。
『振り返る今年のスポーツシーン』と題された特集が組まれており、入団二年目にして、一軍で全試合出場を果たしたというプロ野球選手の写真が、大きく掲載されていた。
「篤志……なのかな」
 昨夜、寝しなにこの雑誌を眺めていて、その写真に添えられた文章の中に、彼の名前を見つけた。
 同姓同名の別人なのかもしれないと、床に両手を突き、身を乗り出して、開いたページを上から眺める。
 幼かった日々を共に過ごし、同じ野球チームでプレイしていたにもかかわらず、彼の顔を、しっかりとは思い出せなかった。けれども中二の時に束の間の再会を果たした際の面影が、写真の選手とうっすら重なり、やはり篤志だと奈緒は嬉しくなる。
 雑誌の後ろの方には、一ヶ月前に奈緒が対戦した、ジェーン・ウィンターソンとの試合結果を報じる記事があった。ニュージーランドのオークランドにあるASBスタジアムで行われた八回戦の試合で、奈緒にとっては初の海外遠征だったが、危なげ無く六ラウンドKOで勝利を手中にしている。
 過去に何度か取材を受けたことのあるフリーライターが執筆しており、人気が低迷している女子ボクシング界の救世主だと、勝った奈緒を記事の中で大げさに持ち上げていた。
 思い返せば、このライターは社交好きで、芸能人などと繋がりがあることを、やたらと自慢していた。
 奈緒のことも、そこらのアイドルぐらいにしか思っておらず、食事に行こうだの、飲みに行こうだのと、しつこく誘ってきた。紹介して欲しいといわんばかりに、誰か仲の良い有名人はいないかと尋ねられ、携帯の番号やメールアドレスも教えて欲しいと食い下がられたが、もちろん全て断っている。
 どんなに褒められたところで、この手の人間が書いた記事など、ふうんと受け流すだけだ。大体において、マスコミなど簡単にあしらっておけばいいと、奈緒は無関心を貫いていた。
 自分が一番強ければいいとビッグマウスを叩いて反感を煽り、尊敬する選手について聞かれれば、白井義男と答えて彼のように謙虚でありたい、人々に希望を与えられる試合がしたいと、煙に巻く。そして最後に、ジムやトレーナー、ジムメイト達に感謝の言葉を述べておけば、実は心根のしっかりとした娘なのだと、勝手に納得してくれる。
 無愛想なのは当たり前で、多少の毒舌を吐いてもボクサーだからと、かえって面白がられるあたりも、テレビを含めたメディアなんて安っぽいものだと、奈緒が見下してしまう理由となっていた。
 見た目は今時の若い女の子だというのに、媚びない硬派な発言をするというキャラクターが、たまたま受け入れられただけで、単なる一過性の人気にしか過ぎないと、奈緒も自覚している。
 それでも同じように篤志がこの雑誌へ目を通し、奈緒の活躍に気が付いたのだとしたら、マスコミに取り上げられるのも案外悪くないような気がして頬が緩み、引き攣った。
 篤志は小学校を卒業して間もなく、奈緒に手紙を出している。引っ越してしまい、別々の中学校へ進むことになった彼が、今になって思うとあまりにも幼く純粋な、思いの丈を綴ったものだった。
 その手紙は後に親と学校が揉める遠因となり、奈緒の胸の奥底にしまわれたまま、その存在さえ消し去られようとしていた。
「篤志……ごめん」
 身じろぎひとつせず、写真を見つめ続ける奈緒の背後で、インターフォンの鳴る音がした。
 がちゃりと鍵を開ける音がして、「おはようございます」と、マネージャーの高橋が部屋に入ってきた。
「ごめんね、少し早かったかしら」
「いえ、大丈夫です」
 奈緒は答え、再び姿見の前に腰を下ろすと、床に転がるクリームを拾い上げ、取り繕うように化粧を始めた。
「あーあ。包帯は綺麗に巻かれているのに、どうして他の洗濯物はこんな風に散らかしっぱなしなの?」
 同じ台詞を毎朝繰り返し、高橋は部屋を掃除し始める。奈緒が熱心に鏡と向き合う間、クローゼットの中に洋服や下着をしまい、台所を片付け、布団を畳んで部屋の隅に寄せる。
 マッチメイクや興業を手掛けるジムのマネージャーと違い、彼女は奈緒にだけ特別に用意された、付き人のようなものだ。最初は公私に渡り、こうして世話を焼かれることに抵抗もあったが、今では諦め半分、されるがままとなっている。
 高橋が洗濯機を回し始める頃には、奈緒も化粧を終え、着ていたトレーナーとハーフパンツを脱ぎ捨てていた。
「最近、ずいぶんと大人っぽい下着をつけるようになったのね。誰か、付き合っている人でもいるの?」
 クローゼットを開け、高橋は中を物色しながら、後ろでぼんやりと立ち尽くす奈緒へ、やんわりと問いかけてきた。