A SPOOKY GHOST 第三十話 孤高の天才(2)

 知り合いなのか? と安森から川上との関係を問われ、「四月に天翔へ移籍する前、同じジムでした」と、遠藤はバンデージを巻く手を止め、どこか遠くを見るような顔つきとなった。
「アイツは確か、先月復帰したばかりだな」
「そうですね」
 安森と言葉少なに会話をしながら、彼女は項垂れ、再びバンデージを巻き始める。吉山も立ったまま、二人の会話に耳を傾けた。
 中倉ジム所属の元スーパーライト級日本王者、川上健二は、去年の七月、タイトルマッチで防衛に失敗し、引退を囁かれていた。
 それが突然、日本ランキング六位の北野と試合が決まり、一年と三ヶ月のブランクなど吹き飛ばす勢いで、二ラウンドTKO勝ちを収めた。
 再びのランキング入りを確実にし、チャンピオンとなったばかりの波多野から初防衛戦の相手にも選ばれた彼は、来年早々、日本タイトルマッチに挑むことが決定している。
 このジムにもスーパーライト級の日本ランカーがいて、この唐突な復活劇に驚き、盛んに噂していたため、吉山も多少のことは知っていた。
「大した奴だと思う。骨折で右手を手術したんだろ?」と、安森が開いた両膝に肘を突き、床を見ながらいった。
「あたしが高三の時の夏に怪我したんですけど……年が明けてから、死に物狂いのトレーニングを始めてました」
 凄まじかったです、とうつむきながらも、遠藤の口元には有るか無きかの笑みが浮かんだ。
「きっと川上さん、日本王者に返り咲くと思います」
 そういって彼女はバンデージの巻き終わりを折り込み、立ち上がると、鏡の前に空いているスペースを見つけ、ストレッチを始めた。
「おい、吉山」
 ぼうっと遠藤のことを眺めていた彼女は、安森に呼ばれ、慌てて振り向いた。
「川上の復帰戦の噂、知ってるか?」
「アレですよね? 川上でも、北野でも、あの試合で勝ったほうにはタイトルマッチが約束されてたっていう……」
 チャンスをモノにした川上も立派だが、と彼は前置きをして、「そんな約束を実行できる奴がいたのもすごいな」と、吉山を見上げた。
「先月の川上の試合。中倉ジムは相乗りだったんだろ?」
 さっぱり話の見えない彼女がぽかんとしているのを認め、安森の口元に苦い笑いが浮かぶ。
「相乗りは、興行を複数のジムでやることをいうんだ。川上の復帰戦は、メインの川上と北野が所属する、中倉と|萬ヶ谷(まがたに)が主催で、他にも色々なジムがかかわる」
 たとえば天翔、と彼がいい、吉山はただこくんと、機械的にうなずいた。こんな風に安森から話しかけられるのも、近くでまともに彼の声を聞いたのも、彼女にとっては、これが初めてだった。
(こんな低くて、イイ声だったんだ)
 ついうっとりと聞き惚れてしまいそうになり、「安森さんって、ビジネスに詳しいんですね!」と勢いで答え、上目遣いに睨み付けられた。
(こ、怖い……)
 身震いし、ふと彼女は思い当たった。
「ひょっとして、遠藤さんの移籍と、川上さんの復帰戦やタイトル挑戦に、何か関係があるとでもいいたいんですか?」
「さあな」と安森はにべもなかったが、「まっさかあ」といつもの調子で吉山が笑い飛ばすと、「川上の試合には必ず、天翔プロモーションが関係しているはずだ」と静かにいった。
「関係しているどころじゃないな。恐らく何から何まで、影で仕切っているのかもしれない」
 考え過ぎですよ、と彼女はムキになって反論した。
「中倉会長は、天翔ジム出身だと聞いています。その縁で、天翔ジムも、中倉ジムの興行に協力しているだけですよ、きっと」
 俺は違うと思う、と安森から即座に否定され、吉山は顔をしかめた。
「天翔は遠藤を獲得するため、中倉ジムのメインイベンターである川上が復帰できるよう、お膳立てをした」
 そう思わないか? と逆に訊き返され、激しく頭(かぶり)を振った。
「有り得ません。天翔のような名門ジムが、女子ボクサーにそこまで肩入れする理由なんて、これっぽっちも見当たらないもの」
 安森はそれを聞き、フッと鼻で笑った。
「えげつないマッチメイクや話題作りが、天翔は良くも悪くも上手いんだ。けれども、実力の無い選手の後ろ盾をするほど、落ちぶれちゃいない」
 遠藤がいい例だ、と告げられ、吉山は耳をふさぎたかった。
 二年前の春、世界王者だった吉山は、ランナ・コムウットの挑戦を受けた。振り返れば、あのタイトルマッチも、天翔プロモーションが主催したものだった。
 試合が間近に迫ると、ランナ・コムウットのヌード写真やモデルショットがスポーツ新聞各紙へと流れ、紙面を賑わせた。その甲斐あってか、タイトル戦の二日前に行われた調印式と記者会見には、信じられないほど大勢の報道関係者が押し寄せた。そこへランナ・コムウットが胸の大きく開いたドレスを着て現れ、ジャージ姿の吉山は惨めな思いをしたものだ。
 決して負けまいと必死で挑んだ試合でも、彼女の完璧なアウトボクシングに翻弄され、あえなく七ラウンドでキャンバスに沈んだ。しかもランナ・コムウットは、敗戦のショックに打ち拉がれる吉山へ追討ちをかけるように、当時まったくの無名だった遠藤奈緒との対戦を望むと、試合後に語ったのだった。
(あの時からだ……)
 吉山は女子ボクシングの草分け的存在として、アマチュア時代から第一回と銘打たれた大会へ次々と出場し、勝ち続けた。JBCが女子を公認すると、プロ第一期生として、世界戦を四度も戦った。
 そんな彼女のキャリアを嘲笑い、押しのけるかのような勢いで、遠藤は台頭しつつある。
 ラスベガスに拠点を移したランナ・コムウットがわざわざ日本で防衛戦を行うのは、遠藤の動向を気にしているからだと、吉山も心の奥底では薄々勘付いていた。
(私の存在なんて、無視されている。でも……)
 ランナ・コムウットだけでなく、それはきっと遠藤にもいえることなのだろう。スパーリングの要請に、なかなか良い返事を寄越さなかったのは、吉山のことなど眼中に無いからだ。
「話題作りのための茶番になんか、振り回されるな」
 見透かされたように、安森からいわれた。
「そんなことで遠藤のことを見下していたら、手痛い目に遭うぞ」
 今回のリターンマッチは、喉から手が出るほど、吉山が望んだものだ。遠藤のような、ぽっと出の若いボクサーに舐められたままでは元王者の沽券(こけん)に関わると意地を張り、肝心なことが見えていなかったのかもしれない。
(無視されるのには、理由があった)
 グラビアアイドルのような真似をして、マスコミへ自分を売り込む遠藤を軽蔑し、その実力を今まで認めようとしなかった。
(容姿だけじゃない。天翔が遠藤の後ろ盾をするのは……)
 安森さん、と吉山はベンチに座り、「どうして私に、そんな話を?」と、彼の横顔を見た。天才と呼ばれる世界王者から直々に声をかけられ、忠告を受けるのは、悪い気分では無かった。
「ひょっとして、遠藤さんのファン?」
 浮かれてにたりと笑い、軽く安森の肩に触れた途端、「ムカつくんだよ」といわれ、慌てて手を引っ込めた。
「普通とは違う。それだけのことで、嫌われる」
 ゆらりと彼は立ち上がり、蔑むように吉山を見下ろすと、憎々しげにいい放った。
「違うから、普通の奴に出来ないことが、できるんだろうが」
 未だ念入りにストレッチをする遠藤の隣へ行き、並んで体を動かし始める安森を、彼女は呆然と見送った。
 ――女子ボクサーみんなが、アナタのことを嫌ってる。
 そう遠藤へ告げたことに対する、皮肉なのだろうか。弾かれるように立ち上がり、吉山は一番重いサンドバッグのところへ行くと、練習していたジム生に「一発だけ打たせて!」と頼み込み、ストレートを思いっきり叩き込んだ。
 はめていたグローブ越しに綺麗な音がしたが、譲ってくれた者に硬い表情で礼を述べた彼女は、更衣室へと向かう。
 ばたんと後ろ手にドアを閉め、もぎ取るように手から外したグローブを、床に叩き付けた。そして目を閉じ、深呼吸を繰り返す。
 ドアの外から、ゴングの音が聞こえた。インターバルを挟み、三分毎にトレーニングを行うのだが、その区切りに鳴らされるもので、今のは恐らく三十秒のインターバルに入る合図だ。
 吉山はまぶたをきつく閉じたまま、胸の前で腕を交差させ、きつく自分の肩を抱え込む。
「私は負けない……絶対に負けない」
 呪文のように何度も唱え、再び鐘の音を聞くと、目を見開いて更衣室を出た。
 リングへと上がり、シャドーボクシングを始める吉山の背後で、遠藤はロープスキッピングを淡々とこなしていた。やがてロープを止めた遠藤が、鏡の前でシャドーボクシングを始めると、吉山はリングを下り、パンチングボールを相手にステップを踏みながら、拳を繰り出す。
 二人は揃ってリングへ上がるまで、一切、目を合わせなかった。
 スパーリング開始時刻を迎えた時、遠藤の付き添いだという老人や外国人のコーチも現れ、ジムは異様な熱気に包まれた。
 プロテクターを付け、スパー用のグローブもはめた吉山は、ヘッドギアの下から対角線上のコーナーにいる遠藤を睨み付ける。対して遠藤は常に下を向いたまま、手や足の先をぶらぶら揺らしていた。
「遠藤選手とお前の身長差は三・五センチあるが、コムウットとは八・五センチもの差がある。リーチにしても同じだ。だから絶対に、その差を言い訳にして、無様な戦いはするなよ。それにどうやら遠藤選手はお前と同様、体を絞ってきているようだから、かなり実戦的なスパーになるぞ。覚悟しておけ」
 福原会長からこんこんと説かれ、最後には「いいか。四ラウンド持たなかったら、ただじゃ済まないからな」と凄まれた吉山は、苦々しく笑った。
(だからさあ……そういう台詞は、アッチにいうもんでしょ?)
 女同士のスパーなど普段なら遠巻きにされる程度だが、この日はリングを囲むように人だかりとなり、その中には安森もいた。彼の視線が遠藤に注がれているのを見て、吉山はぎりぎりと奥歯を噛み締める。
(変わり者の天才同士、さぞかし気が合うんでしょうね)
 一ラウンド二分、インターバル一分、全四ラウンドからなるスパーリングの始まりを告げる、鐘の音が響き渡った。
(ランナ・コムウットと並ぶ天才が日本に、しかも、私の階級にいるのなら)
 潰すまで! と吉山はコーナーを飛び出した。そしてグローブを合わすことなく突き出された遠藤の左を、上から叩き付けるように払い落とし、ありったけの力を込めて、リターンジャブを放った。